僕が遭遇したサイクリングでのトラブルの話 (昔話です): その2
「その1」からの続きです.
3.籠坂峠でブレーキが効かなくなった話
サイクルスポーツは乗るのもいいが,メカいじりも楽しいものだ.
自分の理想とする走りができるようにパーツを交換したり,追加したり,改造をしたりするのだ.
1986年秋,中学2年生の僕はそうした自転車のパーツ沼の世界にハマり始めていた.
上は僕が当時乗っていた ロードマン グラベルロード の写真である.
半年前に買った僕の自転車は,長距離サイクリングをするための様々な改良が施されていた.
まず,泥除け,スタンド,ディレーラーガードを取り外すのは当然として,フレームポンプ,ダブルボトル,ペダルにはトークリップ&トーストラップ,サドルバック,デジタルメーター,ウイングナット(リヤのみ),そして2個のヘッドライトを取り付け,バーテープもコットン製に交換し,完璧なツーリング仕様に改造していた.
僕の自慢はCATEYE CC-3000
当時,まだ出始めたばかりのデジタルスピードメーターである.
自転車の速度と走行距離がデジタル表示されるようになったのは,当時のサイクリストにとって革命的な出来事であった.
また,僕はブレーキワイヤの取り回しについても自分なりに工夫していた.それまで.ブレーキのアウターケーブルはハンドルの上に出るのが普通であったが,走行中はそれが常に視野に入るので目障りだった.
当時,これを解消できるエアロブレーキレバーが普及しつつあった.
しかし,僕のブレーキレバーはエアロタイプではなかったので,無理やりアウターケーブルを途中からバーテープで巻いて固定し,上に出ないようにする改造をしていた(下図).実はこの改造が,後に大問題となった.
1986年10月19日,僕は山中湖へとサイクリングに行った.
コースは 綾瀬→宮ヶ瀬→相模湖→大月→富士吉田→山中湖→御殿場→山北→厚木→綾瀬 で距離は約180kmである.
僕はこのときまでに,朝4時に出発して夜9時に帰宅する200km超えの遠出などもするようになっていた.走り方のコツも覚えて,パンク修理の経験も積み,自分でも自信が付いてきた頃だった.
このときも朝4時に出発して順調に走り,100km地点の山中湖には昼前に到着した.
上で,ブレーキワイヤの取り回しのことを書いたが,今回がこの工夫をして走るはじめてのサイクリングであった.
実は取り回しをいろいろと試行錯誤をしているうちに,アウターケーブルをカットしてしまい,長さが足りなくなってしまった.そこで,短いアウターケーブルを足して長さを確保していた.
下の写真でフロントのアウターケーブルが不自然に曲がっているのはそのせいである(赤矢印の部分).
このアウターケーブルのせいで,フロントのブレーキの効きが弱くなっていた.しかし,まったく効かないわけではなかったし,ブレーキはリアにもある.それに「ロードレーサーのブレーキは停止するためではなく,スピードコントロールをするためにある」と入門書で読んだ.ケーブルだって見た目は長さが確保できており,ハンドル操作には問題がない.
だから僕の自転車は大丈夫なのだ...
と都合よく判断してしまっていた.
山中湖からの帰り道,国道138号線の籠坂峠(1104m)を登っているうちに雨が降ってきた.登りはまだ大丈夫だったが,問題は下りだった.
この不連続なアウターケーブルと雨のせいで,下り坂ではフロントのブレーキがまったく効かなくなってしまっていたのである.
そのため,リヤブレーキに頼って下ることになった.
ところが今度は,雨の中リヤだけブレーキをかけると,後輪がスリップしまくって,まともに走れないのだ.
危険で乗っていられなくなり,僕は自転車を降りることにした.
天気は下り坂で,雨は次第に強くなっていた.
カッパを着て,雨に打たれながらトボトボと自転車を押して歩いた.
下り坂はまだここから山北まで30kmも続くのだ.
30分も歩くと,僕はもう完全にくじけてしまい.途中の公衆電話から家に電話をして,親に助けを求めた.そして,御殿場駅まで車で迎えに来てもらうことになった.
峠から自転車を押しながら3時間歩いて,御殿場駅に着いのはもう日が暮れようとしている頃だった.
これまでのサイクリングでいろいろと経験を積んできたはずなのに,今回は親に迷惑をかけることになってしまい,大きな敗北感があった.
僕はこのときのサイクリングで,
自転車の改造では絶対に守るべき原則があること
ブレーキは片方だけでは走れないこと
を学んだのでした.
しかし,今振り返ってみると随分恐ろしいことをやったものである.
ブレーキの仕組みを考えれば,こんなことは絶対にやってはいけないことであった.これで180kmを走ろうとしていたとは...
ちなみに,私の自転車歴の中で,途中でサイクリングを断念せざるを得なかったのは,いまのところ14才の時のこの1回だけである.あとは何があってもどうにかなって(どうにかして(笑)),今に至っている
4.酒田の跨線橋で転倒したときの話
よく車の運転や登山などは「初心者のときよりも慣れてきた頃の方が危ない」と言われる.初めのうちは教本通りに慎重に操作・行動するけれども,慣れてくると油断が生じて事故やトラブルに繋がりやすいからだ.
このことはサイクルスポーツでも同じだろう.
私も慣れと油断による事故を経験した…
1987年春,中学3年生のとき,近所に中古自転車の専門店が開店した.
専門店とはいっても,そこは廃車の大型バスを事務所とし,広い空き地に大量の中古自転車を無造作に並べただけのつくりであった.
同じクラスのO君のお父さんが脱サラをして始めた店だった.
その店で販売されている中古自転車は,回収された駅前の放置自転車をしかるべきところから正規に仕入れたものらしかった.そのため,その大半はシティーサイクルであったが,一部ドロップハンドルの自転車もあった.
サイクリングを始めてから丸一年が経過し,完全にパーツマニアと化していた僕は,その店に行くのが好きだった.
買うわけではないけれども,大量の自転車の中からお宝探しの感覚で古いドロップハンドル車(その大半はロードマン系のルック車である)を見つけて,その仕様やパーツを観察するのが楽しかったのだ.
その店は僕の家と地元図書館の中間地点にあったので,図書館の行き帰りの際に立ち寄ることが多かった.
ある日,いつものように図書館の帰り道にその中古自転車店に立ち寄り,品定めをしているとき,僕はとんでもない一品があることに気がついた.
ホイールが積んであるのガラクタ群の中に,古びたチューブラータイヤが貼られたMAVICリムのホイールがあるのを見つけたのである.
そして,そのホイールを手にとってハブを確認した瞬間,僕は自分の目を疑った.カンパのクイックレバーがついていたからである.
「これは絶対に買わなければならない」
僕はその場で即断した.
なにしろ,カンパなんて雑誌かプロショップの最高級の展示車でしか見たことがなく,当時のサイクリストにとっては,それこそ崇拝の対象とみなされるほどのパーツメーカーだったからである.
結局,僕はこのカンパハブのホイールとブリジストン製の古いスポルティーフを5000円で購入することとなった.店のおじさん(O君のお父さん)としては,価格はスポルティーフの値段で,「猫に小判」と言っては失礼だが,チューブラーホイールは価値がないものと考えていた様子だった.
スポルティーフを買ったのは,さすがにロードマンにチューブラーは不格好すぎると思ったことと,ロードマンを買った後で成長期が来て身長が伸び,フレームサイズが合わなくなってきていたからである.
この,中古のスポルティーフに中古のチューブラーホイールを組み合わせたものが,僕の記念すべき最初のロードレーサーとなった.
話しが長くなった.
ここまではまだ前置きである.
ロードマンよりもずっと軽くてスピードも出るその走りに,僕はとても感激した.ようやく自分も,ロードマンに乗る「見習い」から本物のロードレーサーに乗る一人前のサイクリストに出世したかのような気分であった.
ところがロードに乗り慣れてきた夏休みに事故が起こってしまった.
夏休みのある日,僕は上野駅から夜行列車(寝台特急 出羽号)に乗り,翌朝,山形県の酒田駅に降り立った.ここから130km離れた秋田県内に僕の祖父母が住んでおり,そこまでツーリングをするのだ.
そのころ僕は,ヘッドライトとして,CATEYEのハンドル取り付けタイプとナショナルのフォーカスライトを使っていた(上のロードマンの写真にもこの2つのライトが写っている).
ライトを2個使うのはナイトランを伴うときだけで,通常はフォーカスライトのみ使用していた.当時,ロードレーサー用のライトはこのタイプのバッテリーライトが定番で,ヤジロベーという金具で前輪のハブに取り付けていた.
ロードマンに乗っていた頃は,ライトのスイッチは止まって操作していた.しかし,ロードレーサーに乗るようになってからは,スピードが出ているので,いちいち止まるのが億劫になってしまい,トンネルの出入り口などでは左手でドロップハンドルをしっかり握り,右手をハブ方向に伸ばして,走りながらスイッチをON/OFFしていた.
このライトはスイッチが後ろ側についているから,走行中でもギリギリ手が届いたのだ.僕にとってこの操作は,走りながらボトルの水を飲んだり,メーターの操作をしたりするのと同じ感覚で,普通のことであった.
酒田駅で自転車を組み立てて出発した.
すぐに国道7号線が羽越本線を超える跨線橋があった.
この跨線橋を下っている途中,ライトがONになっていることに気がついた.輪行後の組み立て中に誤ってスイッチが入ってしまっていたようだった.そこで,いつものように右手を伸ばしてOFFにしようとした.
ところが,このときはいつもと違って,背中に重いリュックを背負っていたものだから,手を伸ばした途端にバランスを崩し,右腕が前輪に巻き込まれて,道の真ん中に倒れるように転倒したのである.
幸い朝早い時間帯であったため交通量は少なく,車に轢かれることはなかった(もし車が来ていたら,さらに大変な事態になっていたかもしれない)
すぐに自転車を起こして,歩道に寄せた.
下り坂で高速で回転しているホイールに腕が挟まったものだから,僕の右腕の肘から下はひどい内出血をして感覚がなくなってしまっていた.加えて全身のいたるところを打撲していた.
そして自転車はハンドルとブレーキレバーの位置がずれ,フロントフォークも少し変形してしまっていた.
このときなぜか,病院に行こうとか,サイクリングを中止しようとは思わなかった.
なんとか復旧できないか?
サイクリングを継続するためにはどうすればよいか?
その時の僕はそれしか頭になかった.
その場で泣きながら自転車を直した.
自分の体の痛みよりも,大事なロードレーサーのフロントフォークが変形してしまったことの方が悲しかった.
なんとか走れるようにして,その後右手はハンドルに添えるだけで,左手だけでハンドルとブレーキを操作してゆっくりと走った.フォークに狂いが出てしまっていたが,一応走ることはできた.
結局,その日は130kmを徐行して走り,予定よりも大幅に遅れて祖父母宅に到着した.
到着するころには,右腕はハンドルを軽く掴める程度には感覚が戻っていた.その後病院には行かなかったが,一週間もすると内出血も引いて腕は自然に治った.
自転車のフロントフォークは,神奈川に帰ってからサイクルセンターナガノで交換をしてもらった.
お金がなかったので,一番安いやつにしてもらった.
そしたら,ロードレーサー用のものではなく,ロードマンと同じタイプのダイナモ直付台座の付いたカッコ悪いメッキフォークになってしまい,とても悲しかった…
僕はこのときのサイクリングで,
走行中は横着をしてはならないこと
回転しているホイールはたいへんな危険物であること
を学んだのでした.
このとき以降,走りながらのライトの操作はもちろんしなくなったし,より一層安全運転を心がけるようになった.
僕にとって,これまでに「自転車+体」へのダメージが最も大きかったのが,この酒田の跨線橋での転倒である.その後,ロードバイクに乗っていて大きな怪我に繋がる様な転倒はしていない.
それはこの酒田での経験が大きいと自分では思っている.
一旦終わり
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