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この世界には傘が必要であり、同様に傘を差す人も必要だ。

昨日、私のXでこんなことを記録した。

その間、激しい雷雨天候。天気マープでは埼玉県の地図は黄色の雷マークでいっぱいで、それは家に遅くなることを示していたと、なんか嫌な気分。大雨が降り、私はよろめく老人を見つけた。すると、彼女は歩いているうちに急に転んで地面に座り込んでしまった。雨は私にも大雨で足を重くし、服は濡れていた。老人は背中が曲がって前を見ることができなかったので歩きにくくも尚更だ。私は老人を支えて立ち上がらせた。御老が何か言ったそうだが、感謝の言葉だけを分かったが、意味がどうにもわからなかった。私はただ軽く頷いて返事してその場から歩き去った。

車の中でまだ老人が私の前に再び通り過ぎたのを見て、彼女が私の目の前から消えるのをじっと見つめていた。何もできず、自分でもその表情がきっと変だったと感じた。

振り返っても、依然として強い後悔の念が残る。その時、離れることをした理由は二つあった。

ひとつは、あの時彼女の言葉を理解できなかったこと。年配の方が、彼らの言葉をほとんど聞き取れないことが多い。

もうひとつは、自分の言葉や行動が彼女に自分が外国人であることを悟らせ、そのことで老人ががっかりするのではないかと恐れたからだ。

なぜ他人が自分を外国人だと知ったらがっかりすると思ってしまうのか。この思考回路は自分でも理解できない。まるで、人からの善意を無意識のうちに拒絶し、白黒に分けてすべてを否定的に捉えてしまっているように感じる。

この出来事を思い出す理由について話したい。

前話は少し長くなるが、現在の心境に繋がる話なのだ。

最近、SNSで文学作品を募集するイベントを見つけた。

主催者は熱心に活動を企画していたが、参加者がほとんどいないことにSNSで嘆いていた。情熱があっても誰にも理解されないような無念さが滲み出ていたので、同じく文学に関わる者として、どうにもその姿に共感と同情の念を抱くようになった。

そこで、私も参加することにした。

このイベントは「どんな形式、どんな作風の作品も歓迎」という触れ込みで、つまり誰でも自由に参加できると謳っていた。

主催者の熱意がどれほど見せるか、その後に私が経験することになる悲しみの深さを考えると、一層際立つものがあった。

期待を胸に、彼らに投稿メールを送った。メールには、自分が外国人であり、日本語が完璧ではないことを正直に記した。実際、私は言語に対して強いコンプレックスを抱えており、そのため、普段は黙ってしまうことが多い。しかし、今回は自分の自信を試し、挑戦してみようと考えた。

しかし、彼らからの返信は、私の作品を断ると一言だけ書いてあったが、断るの理由については全く触れられていなかった。彼らがSNSで見せた熱心な態度とは大きく異なり、その違和感を強く感じた。

それで、勇気を持って再び返信を送った。メールには、自分の作品が要件に合わないとは思っていないと書きつつ、彼らがSNSで、各作者の原稿を真剣に読んでコメントすると言っていたことを挙げたて、コメントがあれば、自分の成長とも繋がると書いた。

その後、彼らから再度返信があり、私の文章には文法の誤りが多く、非常に理解しづらいという理由を伝えられた。

この理由には、正直驚かされた。自分の日本語に文法の問題があることは認めるが、理解が困難なほどではないはずだ。それを証明するために、250文字のツイートではなく、ここで長文を書いたのだ。

その後、修正した原稿を送った上で、イベントに参加する意欲がないことを伝えた。

すると、すぐに彼らから返信があり、文章を修正してくれた。最後に残された言葉は、編集部全員が私の文学作品に対して「後味が悪い」と感じており、不快に思っているため、このような作風の作品はこれからも受け入れないというものだった。

その言葉を聞いたとき、汗がにじみ出た。

その後、他の人にこのことを話したときも、彼らの返事から自分が得体の知れない罪悪感に苛まれていると感じ、正直に言って気が滅入ってしまった。まるで、自分が魔女となって周囲に黒魔法をかけたかのように、すべてが不快な雰囲気に包まれているのは自分のせいだと、私はこういう人間ではないかと、過敏な思考が始まってしまった。

続きの返信の中でも、私は、文学創作には様々な目的があるはずだと、このようなことを書いた。人々に楽しさをもたらすためや、日記のような単純に記録するためなどがその一例だ。しかし、決してわざわざ文学創作を通じて他人に不快を与えようとしないだろう。と、私はこういう内容を返した。

ここまで書くと、また不快な感情が込み上げてくる。

まるで、スーパーで見た目の良いイチゴを買ったものの、下のイチゴがすべて腐っていたときのように、イチゴを摘む人も、イチゴ自身も、誰も悪くないのに、腐っていたイチゴ自身が莫大な苦痛を感じているだろうかなと思うようになった。最後には、何も得られずに耐える気分で全てを飲み込むしかなかった。

後になって、彼らのSNS発言からは、少しは不安を起こそうな端緒が見えてきた。これに気づいたとき、不快をもたらすのは完全に私のせいではないと感じ、ほっとした。

例えば、彼らはイベントの締め切りを休日に設定していたが、休日には原稿を受け付けないという特別な指示はしていなかった。

それにもかかわらず、彼らはSNSで何度も、休日に多くのDMを受け取ることに対して迷惑だと感じ、対応を求める側が無礼だと苦情を言っていたらしい。

実際、対応するかどうかは彼らの判断次第であり、決して誰も休日に無理に対応するように求めたわけではない。連休明けに返信することもできたはずだ。

普通の人は、締め切り前に投稿し、返事を待っているだけのことである。

なんか、イベント参加者としても不安そう発言。

私も、週末にDMを送ったのではなく、結局彼らこそがわざわざ祝日というタイミングに返信を選んた。そのため、私の楽しい休日がその件によってまるで黙ってハエを食べたような気分になってしまった。

なぜわざわざ週末に「あなたの作品は非常に後味が悪い」と返信するのは残業で、まだSNSでその不快感を訴える一方で、他の人は沈黙を保つべくのか。そうじゃないと「作家としての意識が乏しい方」とされるのか。その中の二重基準が酷いものじゃないかと。

さらに、休み中にDMを送る人に対して「作家としての意識が乏しい方」と強い態度で言っているのもひどい。

もしSNS確認せず、不意に週末に投稿しただけで無神経な人間だとされ、作家としての意識が乏しい方とまで言われると、誰でも驚かされるだろう。

作家の資格と休日にDMを送ることには直接的な関係がない。無関係な二つの事柄を無理に結びつけ、無責任な話をしているように思えるとしか思えない。

以上のようなことからも、向こう側の対応の仕方を少し分かるようになった。他の方は同じようにひどいことを言われるかどうか、その可能性は高いと思う。

だから、私が書いたものは決して「気持ち悪い」ものではなく、むしろほっとした。

投稿そのものに対しても、向こうの態度も少し拒否な態度を取っているようだった。それは、見知らぬ人に対して疑いと距離感を持っているようなものだ。喩えの例を挙げると、誰かが私の落とし物を拾って渡してくれると、最初私の反応は防備心が強く、嫌な顔をしてしまうことがある。その後、その人が善意で助けてくれたのに、なぜそんな反応をしてしまったのかと感じることがあるだろう。それは自分も時々、他人の善意を悪意として受け取ってしまうことがある。

要するに、防備心が習慣になってしまっているからだ。もしかしたら相手は、ただ鎧をまとってるだけかもしれない。ハリネズミが出会うと、お互いに刺さってしまうように。そう考えると、気持ちは少し楽になるかも。

だからこそ、できるだけ他人にも善意があると信じるようにしよう。これが私がこの件から汲み取った感想である。

この世界には傘が必要であり、同様に傘を差す人も必要だ。

偉大な作品が生まれた後、その作品に作者の存在は必要なのだろうか。

実際には、しばしば重要視されるのは結果そのものであり、多くの場合、生活のなかで人々は他人の些細な欠点さえも耐えられないのだ。それは本来、尊重されるべき人々のその存在は軽視されているのではないか。そうであろう。

それぞれの人が持つ特性、性質、他人と違う部分、全て、尊重されるべきものである。

文学作品もそうであり、高度な技巧を駆使して作品を美しい思想の装飾品として包み込むことができる。一方、子どもっぽい口調でも、真摯な作品も必ず存在するだろう。

一度このような考えを持つと、もともと良くないと思っていたものも徐々に受け入れ始め、不条理を理解するようになる。

誰もが見ている世界はそれぞれ異なっており、美しさや醜さも存在する。書くことは、この異なる世界を記録することなのだ。悪いことではない。

これからも創作を続け、正しいと信じたことを創作上で貫いていく。

どうぞよろしくお願いいたします。




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