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個性や才能を無視して、無理やり型にハメようとするんはバカのやることだZE!

プロ雑用です!
キャリアプランとか言ってる奴らに向けた罵詈雑言シリーズの第三段!()


今回は前回予告した「どうしたって他人を都合のいい枠にハメたい人々」について書いていきますね。企業において、人材育成は必要だということに異論がある人は少ないでしょうが、一方で人材育成とは「組織の都合の良い人間を育てること」だと思い込んでいる人々は少なくありません。

なんでそんな事になっているんでしょうね?一つ、あげるとすれば、それは「そもそもその方法しか知らない」というのがあると思います。

そもそも我らはそう育てられた

「そもそもその方法しか知らない」というのは、自分たちもそう育てられたから、それ以外の方法があるとは思い至らないということ。目上の人間から叩かれて育った人は他人(特に自分より下の人)にナチュラルに暴力を振るうようになることは知られています。それが正解だとは思っていないけども、それしか知らないし、それを変えようとは思わない。

そのような状態を脱するには、何をおいてもそのようなバイアスが自分たちにはあることを認知しなくてはなりません。そのためには、多方面の知識をインプットし、自ら思考しなくてはならない。これができないんですね。
現状維持バイアスを初めとして、アンカリング、確証バイアス、正常性バイアス、集団同調バイアスなど様々あり、それらは複雑に絡み合っていて、認知することを妨げます。

たとえ集団の一人がバイアスを認知できたとしても、今度は別のバイアスとしてサンクコストや損失回避が働くため、組織のやり方を変化させることはできません。

❖ 教育システムの制度疲労

日本の教育システムは歴史的には明治維新以降からのもので、当時のフランスやドイツの制度を参考にして、知識伝達を重視しています。その後、戦後にはアメリカの影響で民主的価値観の形成が加わりますが、高度経済成長期には受験戦争が始まり知識詰め込み型教育が批判されるようにもなりましたが、その後に試みられたゆとり教育は基礎学力の低下の犯人(?)だとされ見直されています。

現在でもベースは知識重視の教育であることはかわりありません。知識は確かに重要なものだし、それを蔑ろに必要は無いのですが、弊害として、実社会で必要とされる問題解決能力や批判的思考、コミュニケーション能力が十分に育成されていないことも昨今は盛んに指摘されていますね。

この教育課程の影響は大きいと考えます。システムが時代に合わなくなった、制度疲労を起こしていると言えるでしょう。

❖ 知識重視教育の利点

知識詰め込み型は、かつてはたくさんの利点があり、日本を豊かにした功績もありますので、まずはその利点を挙げてみましょう。利点を知らなきゃ欠点は語れないんだぜ。

  1. 産業構造への急激な変化への適応(明治)

    1. 工業化や都市化が進む中で、労働者や管理者として基本的な読み書きや計算能力を持つ人材を迅速に育成できた。

    2. 西洋の学問や技術を学び、応用できる基礎力が身につけることに寄って、富国強兵政策や殖産興業を支えるための技術者や官僚の育成を育成できるようになった。

  2. 敗戦からの復興・国家と民衆の思惑の一致(昭和)

    1. 敗戦からの復興を目指すという国家的な思惑と、貧しさから脱却したいという民衆の思惑との幸福な一致。復興には大量の労働力と生産性の向上が必要だったので、知識を基盤にして標準化された教育は、効率的に社会的要求に応えるのに非常に都合よく機能した。

    2. 画一的な教育により、誰もが一定の基礎知識を持つ社会が実現し、試験を通じた評価で平等な競争の機会を提供されるようになった(それ以前の時代と比較して)。資産家でなくとも、頑張れば報われるということが当たり前に認知されるようになったのは、教育システムによるものと考えても差し支えない。

上記の通り、知識の詰め込みは、基礎学力の向上と労働生産力の向上にとって効率的で効果も高いものであり、昭和の時代までは理にかなった教育方法だったことは疑う余地がありません。また、教育水準が高いことによる副次効果としては、社会秩序が高まり、安心安全な社会が実現したことも重要な利点です。いま、街中で立ちションする人間が居ないのは日本人が礼儀正しいからでもなんでも無く、秩序の基本たる基礎知識が高まったからです。

❖ 利点が欠点に、悪平等と化したシステム

社会全体が貧困であり、物質的に豊かになる過程での、いわば拡大生産の時代には有効な方法でした。では、今の時代は拡大生産が続いた社会なのか?といえば、そこがまず大きく異なるわけです。
余談ですが、ほんの10年前ですら、平成の終盤、停滞期も20年以上続いたであったにもかかわらず、のほほんと「今を耐えれば再び拡大生産の時代がやってくる」と本気で信じてる経営者が多くいましたからね。我が世の春が忘れられない人が大勢居たのです。だから、変わるべきときに変われなかった。

そして、知識の詰め込みとそれに伴う受験戦争や競争がもたらした負の側面といえば、個性や多様性の喪失と、学習は苦役だ/嫌なこと・楽しくないことという刷り込みでしょう。未だ子どもに「嫌なことだけどみんなやってるんだから」ということを平気でのたまうバカが存在していることが何よりの証明です。子どもに学ぶ楽しさを教えられない大人は無用の存在、恥を知れ!と頬をひっぱたきたいです(個人の感想です

個性や多様性の喪失という点については、教育課程が全国一律であるために、多様な個性や興味に応じた柔軟な学びが提供されにくいという現状があります。そろそろ変わり始めている部分もありますが、まだまだ十分とは言えません。結果として、創造性や自己主導性が育ちにくい環境となっていることは様々なところで指摘されている通りだと思います。これも個性もクソもない、貧しい時代、教育水準が低い時代なら効果はあったのです。しかし、それが行き渡った現在では、逆にこれが足を引っ張るカタチになっている。同調圧力が強く耐え忍ぶことが美徳とされている文化が根強いというのもあるのでしょが、それにしたってねぇ。教師側も教員の心得として「周囲と合わせて独断専行はいけない」と徹底されるという話も聞いたことがあるので、さもありなんという感じではありますが。

機会の平等が、育成方法の悪平等になってしまっているのは換骨奪胎というか形骸化というかなんとも言えないですが、結局のところ、そう育てられた側は、それしか方法を知らないからこそ、ということなのですね。

人を交換可能な部品だと思っている人々に欠けているもの

これまでの解説からも分かる通り、人間は平等であり機会も平等に与えられるべき、という考えの平等だけが強調され、悪平等が広がったことで人間は全て同じであるという思い違いが蔓延しています。学びや労働は苦役であるという考えに染まりきって、自分らしさは悪・わがままだとされた人々は、他人にもそれを強いることが正しいことだと思っているわけです。

そのような正しさの範囲は狭く、そしてそれは正義たり得ない。
人の個性や才能を無視した人々には「義」が欠けているのです。

義とは簡単に言えば公正、誠実、利他の精神とその行動。自己の利益に溺れず、悪意に惑わされず、勇気と覚悟を持って責任から逃げないこと。というと大分大層な感じもしますが、要は「何のためにそれをするのか、それは他者のためになるのか考え抜いて行動する」ということ。

自分たちもそうされてきたから、そういうものだから、それ以外のやり方は知らない(知ろうとしない)から、という考えは「自分さえ良ければ」という考えが根底に横たわっています。真剣さが足りない。

ウラを返せば、これは本質的な目的に向き合えば打破することもできるということ。組織のために人が居るのではなく、社会のために組織があり、社会とはコミュニティであり人の生きる場です。

「組織に都合のいい人材を育てる」ではなく、「人の才能が伸びる組織づくり」へのシフトする必要があります。

これは綺麗事ですが、綺麗事が眩しくて直視できない自身の品性を恥じるべきでしょう。そして惰性で生きてきた不誠実さを。

❖ もはや拡大生産期ではない

敗戦から約10年後の1956年、「もはや戦後ではない」と経済白書の序文に記され、一斉を風靡しました。希望の言葉として受け取られたこの一文の本来の趣旨は「戦後からしばらくたち、日本は復興需要が落ち着いた、これからは復興需要による経済成長は望めない厳しい時代を迎える」ということで、一般的な受け止め方とは真逆の意味だったようです。しかし、結論から言うと57年の「なべ底不況」の後に訪れた「岩戸景気」によって、好景気がもたらされ、その時代の実質GDP成長率は現在に至るまで最も高い割合となっています。

景気というものは不況と好景気を繰り返すのが一般的で、それは現在に至るまで変わりありません。景気循環サイクルで言えば、バブル経済後も2度の好景気が訪れています(今も数字上は好景気)。しかし、過去との大きな違いは2010年代になって総人口が減少に転じたこと、想定よりも減少スピードが早いこと。

そもそも、人口減少はすでに1974年には指摘されています(厚生白書)。今から50年も前にすでに現状は予見されていたにもかかわらず、何も対策ができなかったのは、先に指摘した各種バイアス(現状維持バイアスを初めとして、アンカリング、確証バイアス、正常性バイアス、集団同調バイアスなど)のなせる技でしょう。茹でガエル一丁上がり!

❖ 現実を認める勇気を持て

人口減少は止まりません。少子高齢化は解決できません。なぜならそれらは全て結果だから。計算が終わった結果を捻じ曲げることはできないのです。

だから、もう認めなくてはいけないのです。理想論から目をそむけている間に、現実も直視できなくなっている。これをまず認めましょう。あなたが見ていた現実はもう過去に去った。

知識重視教育で育ったあなたは、その方法しか知らない。知らなかった。他を認めてこなかった。自分もそうされたから他人にそうしているだけだった。それが正しいことだとは思わないが惰性でやっていた。ただそれだけのことを認める勇気を持つ。

あなたが育てたい超人は、あなたが関与しなくても超人に育ちます。そしてそういう超人は、あなたの元には現れません。なぜなら我々は凡人で、凡人にとって超人の存在は、受け入れがたい苦痛だからです。だから、超人が現れても気づかないし、超人がいると気づいてしまったら寄って集ってこれを殺します。

と、ここまでで「じゃぁどうやって育てればいいんだ」っていう話はあるでしょう。それについては…また別のnoteで!(今年中には出すよ)

ということで、今回はここまで。
それじゃ、また👋

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