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星空に描く はじまりの歌
夜風がやけに冷たく感じられる季節だった。高校二年生の奏太は、いつも放課後に部室へ向かう途中で視線を落とし、壁の模様を数える癖があった。
退屈と孤独を紛らわすように、ただ黙々と通り過ぎる毎日。どんなに熱心に部活に打ち込もうとしても、心の奥底には何も満たされない空虚が巣食っている気がしてならなかった。
ある日の夜、弾きかけのギターを抱えて校庭の隅でぼんやりしていると、ふと上空に目が留まった。満天の星。それまで存在すら意識しなかった輝きに、鼓動が少しだけ早まる。
すると、誰かの足音が背後で止まった。振り返ると、同じクラスの陽奈がいた。いつも明るい彼女が、なぜか瞳を伏せたまま、そっと涙を浮かべている。
「……ごめん、夜風が気持ちよかったから散歩してたら、ここに来ちゃったの」
そう言って笑った顔は、いつもよりも少しだけ寂しげだった。瞬間、何かが胸を打つ。言葉にするより早く、奏太は譜面台に置いてあった上着を陽奈に差し出していた。
その夜から、二人はときどき校庭で一緒に星を眺めるようになった。唄いかけのメロディを奏太がつぶやくと、陽奈が「それ、すごくいいね」と微笑んでくれる。
どちらからともなく、ささやかに言葉を紡ぎ合う時間が増えていった。いつのまにか、互いの存在が日常の風景に溶け込んでいく。
そして不思議と、胸の奥にあった“枯れ果てたもの”が少しずつ潤っていくのを、奏太ははっきりと感じていた。
ところがある夕暮れ、陽奈の姿が校庭に見えなくなった。彼女は突然、休みがちになり、噂によれば家庭の事情で転校するかもしれないという。確かめようにも、直接会えないまま数日が過ぎる。
沈む気持ちを抱えたまま部活に身が入らない奏太は、自分がいかに陽奈を必要としていたかを痛感した。失って初めて気づく思いに、どうしようもなく胸が締めつけられる。
焦燥感に背中を押されるようにして、奏太は夜の学校へ忍び込んだ。校庭でまばらに瞬く星を見上げながら、必死に陽奈の名前を呼んだ。そこへ、かすかに聞き覚えのある足音が近づいてくる。
「……ごめんね。しばらく学校に来られなかったの。もしかしたら、もう離れ離れになるかもって思ったら……どうしていいか、わからなくて」
うつむく陽奈を見て、奏太は決心したようにギターの弦を爪弾く。思いをそのままメロディに乗せて、拙い言葉で一つずつ紡いでいく。何度も作りかけては挫折していた曲が、いつのまにか完成形に近づいていた。
今この瞬間、思い切り声を震わせながら歌う奏太を、陽奈はじっと見つめている。
やがて、陽奈の頬を伝う涙が星明かりに照らされた。奏太はそっと彼女の手を取り、言葉よりも強い気持ちで握りしめる。
「君が世界でいちばん大事なんだ。どこへ行ったって、この気持ちは変わらない。だから……これからも、僕は君を守りたいと思ってる。」
そのとき、かすかな風が二人の間を包み、夜空のどこか遠い場所で星が瞬いたように感じられた。いつか離れ離れになるかもしれない。
それでも、この瞬間に芽生えた一歩は決して嘘ではない。その事実を胸に刻みながら、二人はそっと寄り添う。
数日後、陽奈は転校せずに同じクラスへ戻ってきた。事情はすべて解決したわけではない。それでも、大切な人とこの街で日常を重ねていく道を選んだのだ。
いつもの校庭で、星がにじむような夜に二人並んで立つ。その足元には、また新しい一歩が刻まれているかのように感じられた。
長い時間をかけて固く結ばれた絆は、ふとした日常のなかに光をともす。朝の昇降口でおはようを交わすたびに、放課後に校庭を駆けていくたびに、あの満天の星空の下で交わした歌と誓いが二人を支えてくれる。
もう何度生まれ変わったって、その輝きは変わらないだろう。そんな確信が、奏太と陽奈の心を今も満たしている。
ギターから生まれる旋律は、あの夜を思い出すように響き続ける。そして二人は、これからの日常の中で、また新しい曲を紡いでいく。枯れていた場所にこそ芽吹く花があるのだと教えてくれた、その星空の下で。