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コーヒー豆が香る頃

カップを落とさないように慎重に運びながら、恵太(けいた)はふと店内の鏡越しに自分の姿を見つめた。

もうすぐ卒業だというのに、この先どうするかは決められずにいる。実家は「大学行くんだろう?」と当然のように言うし、先生も「成績的に進学が妥当だ」と口をそろえる。

「でも、本当にそれしか選択肢はないのかな」

恵太が今バイトしているのは、街角の小さなカフェ。昼間は学生や主婦でにぎわうが、夕方になると一気に落ち着き、店じまいまでの数時間は静かな空気が流れる。

閉店直前のこの時間帯、カウンター内にはスタッフの自分と先輩の仁科(にしな)さんしかいない。

仁科さんは二つ年上で、フリーターをしながら将来は自分の店を持ちたいと話していた。まだ二十歳そこそことは思えないほどキビキビ働き、コーヒーの豆知識をさらりと語る姿は、どこか“大人の余裕”を感じさせる。恵太は密かに、その姿に憧れていた。

ただ、最近はなぜか彼女の表情が曇りがちだ。どうも「掛け持ちしている夜の仕事」を続けるかどうかで悩んでいるらしい。仁科さんが「どうしようかな…」とため息をつくとき、恵太は気軽に声をかけられなかった。

ある日の閉店作業中、ふいに仁科さんが口を開く。

「実はさ、今働いてるもう一つのバル(小さな飲み屋)で、正社員にしてもらえる話が出てるんだ」

バリスタの勉強はしたい、けれどバルのオーナーは料理の腕も買ってくれていて、将来的には店を任せたいらしい。

「…でも今のカフェも捨てがたいし、思い入れもあるし。どうしたらいいのかな」

彼女の言葉はまるで、“どっちの道を選ぶかで人生が変わってしまう”という重みを帯びていた。小さなため息のあと、仁科さんは恵太の目をまっすぐ見てつづける。

「恵太は、卒業後どうするつもり?大学行って、それから?」

返事に詰まり、恵太は一瞬うつむいた。

「先生は“行ける大学に行っておけ”って言うし、親も“それが当たり前”って言う。でも…よくわからないんです。自分が本当に何をやりたいか、まだ何も見つかってなくて」

そのとき、店の奥の厨房で軽い物音がした。誰もいないはずなのに、と互いに顔を見合わせ、仁科さんが「ちょっと見てくる」と向かう。恵太はカウンターに立ち尽くしたまま、コーヒーマシンのステンレス面に映り込む厨房の入り口をなんとなく見つめた。

すると、そこに得体の知れない揺らぎが映ったような気がして、背筋がぞくりとする。

「…なんだろう、今の」

ほんの一瞬、厨房の奥が見慣れない空間に続いているかのような錯覚――まるで扉が開いたかのようだった。

仁科さんは「何もなかったよ」と戻ってきたが、どこか浮かない顔をしている。「何か変なものでも見た?」と問う余地もなく、そのまま二人は仕込みの続きを始めた。

「この先どうするんだろう、俺も、仁科さんも…」

そんな思いを抱えたまま、恵太は遅くまで働き、店を閉めた。

翌週、仁科さんは珍しくバイトを休んだ。店長からは「もうバルのほうに行くかもしれない」とだけ告げられる。そう聞くと、恵太の胸は締め付けられるように苦しくなった。

店が忙しいとかではない。なぜか心にぽっかり穴が空いたような、喪失感に襲われるのだ。

次の日、ようやく店に出てきた仁科さんを見つけたとき、恵太は思わず「おかえり」と言いそうになった。彼女は困ったように微笑むと、話しづらそうに切り出す。

「突然ごめんね。バルのほうで正社員になる話、決めようかなって思ってる。応援してくれる?」

やはり――と心の中で呟きながら、恵太はぎこちなくうなずいた。

「そう…ですか。もちろん、応援しますよ」

でも、言葉の裏にある寂しさを拭えない。自分のほうは何も決まっていないのに、仁科さんはどんどん前に進んでいくように感じる。

その夜。閉店作業を終えた恵太は、ふと厨房の奥に足を踏み入れた。先日見た不思議な“揺らぎ”が、まだどこかに残っている気がして。

薄暗い照明の下、食器がきちんと片付いた棚を覗(のぞ)きこむ。どこにも扉なんてない。だけど、それでも恵太は、明かりの当たり方ひとつで見慣れた厨房がまるで“別の空間”に通じるような感覚を覚える。

「もしかして、あのとき見えたのは、こういうものだったのかな」

何かが“こっち”を誘っているような不思議な気配。でも、はっきりとはわからない。サッと電気を消すと、暗い店内にコーヒー豆のほのかな香りだけが漂った。

結局、仁科さんはバルのほうへ移り、カフェには来なくなった。彼女がいなくなっただけで、店の雰囲気も変わった気がする。

バリスタを目指す彼女の姿が好きだったのに――そう思いながら、恵太は相変わらず進路を決められないまま卒業間近を迎えた。

ある日の閉店後、恵太は一人でカウンターを拭いていた。もう慣れたはずの作業なのに、気持ちは落ち着かない。店の外の通りでは、早咲きの桜が街灯に照らされている。

ふと、雑巾がけをする手が止まる。――ステンレスのマシンに映った自分の姿が、なぜかいつもと違って見えたからだ。

そこに映っているのは、疲れた表情の高校生ではなく、少しだけ背筋を伸ばした“自分”のような気がする。

「…俺も変わりたいのかな」

その瞬間、あの“揺らぎ”がまた視界に入った。今度は明確に、マシンの奥の金属面が“扉”のように見える。

薄く光がにじむ先に、知らない町並みがぼんやり浮かんでいるような…いや、気のせいかもしれない。でも、恵太は怖くなかった。

「この先に、何かあるなら…俺だって、踏み出してみたい」

気がつくと扉は消えて、いつものカフェの夜の光景がそこに戻っていた。胸が高鳴っている。これが何だったのか、説明はできない。だが、恵太は小さく笑みを浮かべ、カウンター越しにマシンを見つめ直す。

「仁科さんが行く道も、俺の道も、結局は自分で選ぶしかないんだよな」

どうやって生きるかの“正解”はない。大学進学か就職か、それとも別の何か――先が見えなくても、自分が本当に踏み込みたい方へ進むしかない。きっとそれは、別の世界に飛び込むくらい大変なことだけれど。

夜風が吹き込んできて、店先の看板を軽く揺らした。今日も一日が終わる。明日にはもう、仁科さんの姿はない。でも、彼女が残してくれたものは、確かに恵太の胸に息づいている気がする。

カギをかけたシャッターを下ろし、恵太は深呼吸した。コーヒーと夜風が混ざり合った香りが、いつもより少しだけ新鮮に感じる。

「もしあの光の先に“異世界”が広がってたとしても、きっと俺は今の世界で踏ん張ってみるよ」

頭の中でそうつぶやいて、恵太は足早に帰路についた。自分の進む先に扉があるのなら、いつか自分で開けるために――そして、その扉の先には“自分だけの物語”が待っていると信じたくて。

桜の花びらが夜道を舞うなか、シャッターの向こうのカフェでは、まだかすかにコーヒー豆の香りが残っていた。まるで、いつかまた“扉”を開くための合図であるかのように。

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