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雲を越える風の音

冷たい突風が吹きつける海沿いの崖を、一羽の渡り鳥が飛んでいた。名前のないその鳥は、強い風と荒れた空気に羽根を震わせながらも、迷わず前へと翼を広げている。

遠くに見える青黒い海原と、背後に続く広大な空は、まるで理想と現実の境界線を映しているようだった。

曇天のなかを抜けると、そこには突如として明るい陽光が差し込む空間が現れ、鳥は一瞬だけ体の力を緩める。雲間を漂う一筋の金色の光は、あらゆる生き物の心を慰めるかのように優しく輝いている。

しかし、その光の下でのんびり羽を休めていられるほど、この鳥に与えられた時間は長くない。次の嵐が来れば、また高く低く飛び続けるしかないとわかっているからだ。

ある日、鳥は海沿いの小さな町に降り立った。そこには古びた桟橋が伸び、家々の屋根が寄り添うように並んでいる。

静かな町だが、ふと耳を澄ませば、どこかから子どもの笑い声と、それを取り巻く大人たちの足音が微かに聞こえてくる。まるで楽しげな舞台裏に潜む、見えない人々の叫びや葛藤が混じり合っているかのように思えた。

桟橋に舞い降りると、漁船から大漁旗が翻り、港の人々が一斉に歓声を上げる瞬間があった。魚が豊富に獲れたのだろう。鳥はしばしその光景を見つめる。喜びに溢れる場面の裏側には、きっと海や天候といった自然との厳しい闘いがあり、そこに至るまでの苦難もあったはずだ。

それでも、人々は笑い、成功の象徴のように旗を掲げる。渡り鳥にはそれがきらびやかな世界に見えたが、同時に、その笑い声にかき消される悲鳴もどこかに潜んでいるような気がしてならない。

鳥が港町を出発しようとしたとき、一人の年老いた漁師が、不思議そうにその姿を見上げていた。鳥は思い切り翼を広げ、また空へと舞い戻ってゆく。

人々に歓迎されるでもなく、かといって追い払われるでもない。誰にも覚えられず、名も知られず、ただ風を頼りに場所を変えていくだけの存在。だが、心のどこかで、この先の空にも自分の飛ぶ理由があるはずだと信じている。

さらに荒涼とした大陸の内陸部へ向かうと、そこは乾いた平原が広がっていた。枯れ草が風に揺れて、遠くに見えるのは細い水源だけ。いつか雨が降るまで、人々は祈りを捧げながら日々を過ごしているらしい。

薄暗い小屋や割れた窓ガラスからこぼれる灯りの儚さが、この地域の厳しさと人間の強さを物語っていた。

鳥はまた、雲の切れ目から覗く空に目をやる。理想的な豊かな土地を探して飛んでいるのに、どこへ行っても必ず苦しみがあり、そしてその分だけ希望もあることを、まざまざと思い知らされる。

高く舞い上がりながら、目下に広がる大地を見渡し、自らの存在について考えた。何のために飛んでいるのだろうか。どこへ行けば、自分の旅は安らぎや確固たる答えを得られるのだろうか。

その夜、鳥は小さな湖のほとりで羽を休めた。湖面に映る月をじっと眺めていると、まるで自分の背を見ているような不思議な感覚が湧いてくる。けれども、自分の姿は揺らめく波紋に歪んで、はっきりと捉えることはできない。

鳥は心の奥で「誰かに聞いてほしい」という想いを抱えながらも、それを言葉で伝えられない歯がゆさに胸を締めつけられる。

旅は孤独なものだ。それでも、孤独を知るからこそ見えてくる光や、心を通わせる瞬間があると信じたい。

朝が来て、鳥は再びこの地を離れる。鳴き声ひとつ残さない渡り鳥の訪れに気づく者はほとんどいない。それでも湖面にひらひらと落ちた一枚の羽根が、かすかな存在証明のように漂い続けていた。

水面を漂うその羽根が、やがて地元の少年の視界に止まるかもしれない。あるいは、うっかり誰かが足で踏んでしまうかもしれない。けれど、いずれにしても、その痕跡は世界のどこかにほのかな記憶として刻まれることになるだろう。

そうして鳥は、理想と現実が交差する天空を横切り、次の場所を目指して飛び続ける。成功と挫折、喜びと悲しみの波が地上を覆い尽くしていると知りながら、それでも前へ進む理由を問いかける。

誰に呼ばれるでもなく、どこかで待たれているわけでもない。それでも翼を広げるのは、ほかでもない自分自身が、雲の向こうにきっと何かがあると信じているからなのだ。

やがて空が白んでいき、地平線の先に新しい光が射し始める。まだ見ぬ世界への期待と、それを打ち砕く現実の荒波。その狭間を渡りながら、鳥は風に逆らい、時に身を任せ、そしてまた飛んでいく。

自らの存在を確かめる術は、ただ空を渡ることだけ。それだけが、この小さな羽根を持つ渡り鳥の誇りであり、ささやかな願いでもあった。

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