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万民に通じる普遍的な幸せや平和は実在し得るのだろうか?

例えば動物の猫は、人によっては人以上に好かれ愛されもする一方で、人によっては忌み嫌われもする。

益虫と害虫も観る人の主観で評価は真逆に変わりもするし、人が人を評価する場合も特徴の長短のどちらを重視して観るかで評価が真逆に変わる事もある。また、その主観も観る人にとって都合が良いか悪いかの投影が多分に働いている場合が多い。


幸せや平和というものは相対的であり、不幸があるから幸せが成立する、飢餓病魔戦争天災があるから平和が成立する。

相対という比較があるから成立する。となれば善悪も禍福も飢餓病魔戦争天災と平和があるのも、全てをひっくるめたあるがままが幸せや平和という事なのだろうか?

そもそも幸せや平和という概念に囚われる事自体がおかしいのだろうか?つまりはそれに囚われれば、何かを悪や不幸と分類判断し差別区別をしていく事となる。またそこに自己犠牲が孕むと自己犠牲ギバーとなる。けれども当人がそれで本心から幸せであれば自己犠牲ギバーもおかしな事ではない。

古くは、刎頸之交(刎頚の交わり)
士為知己者死(士は己を知る者の為に死す)
といった故事成語もあった。

自己犠牲については、それを費やすに値する対象の選別が大切といったところか。


ムーンショット計画や人間拡張技術やコンパクトシティに対する様々な批判はあるけれども、現実問題として人口過多や環境問題や絶滅種の急増があるのも事実。

また仮想空間を主としての生活は電気の問題くらいで、総合的には環境に優しい社会が見込めるし、仮想空間で済まして満足出来れば現実的な害は意図的事故的にも起こりにくい、仮想空間は無数に造れるから不快や合わない人との棲み分けもしやすい。これらの点は実際にオンラインゲームで実施されている。

https://x.com/silber_gift/status/1855522019242357215


ただ新しい世界を創るにあたって、穏健派と急進派がおり、

急進派には、シャア(逆襲のシャア)、カロッゾ(ガンダムF91)みたいなのもいたということ。

ただ上位の存在には精神性がトレーズ(ガンダムW)のような人物も見受けられた。

銀河英雄伝説で例えるならばオーベルシュタインなども。


結論らしい結論は述べられないけれども、普遍的な善、正義、愛、幸せ、平和というものは実在せず、人の数だけ、生物の数だけ無数にあるといったところで。

それらを何とか折り合いをつけて束ねて取り敢えずの平和なり治世なりといった労力は、気が遠くなるほど困難な労力だろう。



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水銀真人
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