お久しぶりです。
最近は更新をサボっていてすいません。
今回は、「一切の感受は苦である」という仏陀の言葉をテーマに解説していきたいと思います。
この言葉は「一切の感覚は苦痛である」などと間違った形で解説がされて誤解されやすい言葉なので、パーリ経典の中から該当する経典を引用しながら仏陀がどのような意図で「一切の感受は苦である」という教えを説いたのか解説していきたいと思います。
光明寺経蔵様のHPからこのテーマに該当するパーリ経典の経文を引用させていただきます。
引用元https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
「一切の感受は苦である」という仏陀の言葉の意味
このテーマは様々な経典の中で扱われているのですが、相応部経典に収録されている独処経で仏陀と弟子の比丘がこのテーマについて問答をしているやり取りがあるので一部を引用したいと思います。
光明寺経蔵様のHPのリンクを貼っておきますので、全文を読みたい方はそちらまでどうぞ。
引用元https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
このように「一切の感受は苦である」という言葉の意味は、苦痛や苦しみという意味ではなく無常性を意図して語られた言葉であると仏陀が説明しています。
仏教での苦(ドゥッカ)という言葉は多義性があり無常や無我と同義語として使われる場合もあるので、必ずしも苦しみや苦痛という意味だけを表す言葉ではない場合があるということに注意しましょう。
基本的に感受(感覚)は三種類に分類しよう
仏教の瞑想実践での感覚(受)の観察は、様々な分類方法がありますが、基本的には苦・楽・不苦不楽(中性)の三種類に分類するように説かれているのでその通りに実践することが重要だと思います。
どのような感覚も、因縁によって生じて(無我)、変化して(無常)、消えていく(苦)性質であると観察することが瞑想実践の基本的な取り組み方だと理解した方がよいと思います。
「一切の感受は苦である」を誤用して失敗したサミッディ比丘の事例
このテーマに関連した経典はたくさんありますので、「一切の感受は苦である」を誤用して他宗教の行者との問答に失敗して仏陀に叱られた比丘の経典も紹介したいと思います。
中部経典に収録されている「大業分別経」という経典ですが長いので同じく光明寺経蔵様のHPから一部を引用させていただいて簡単に紹介します。
以下に引用元のリンクを貼っておきますので全文を読みたい方はそちらまでどうぞ。
引用元https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
この経典の話の粗筋は、サミッディという比丘とポータリプッタという他宗教の行者が出会い問答するところから始まります。
ポータリプッタ行者の質問に対して、出家して三年程しか経っていないサミッディ比丘は仏陀の教えについてよく理解していなかったので「身口意によって意図的な業をなしたならば、その者は苦を感受します」という不適切な返答をしてしまったのです。
ポータリプッタ行者は、納得できるような答えを得られなかったので失望して去って行ってしまったのです。
そこにアーナンダ尊者が現れてサミッディ比丘からことの次第を聞いて「これはまずいな」と思って仏陀に報告しに行くのです。
これは少し分かりにくいので意訳すると、「適切な返答ができないのならば、なぜ私(仏陀)のところにポータリプッタ行者を連れて来なかったのか?」という意味でしょう。
サミッディ比丘が「私には分からないので師匠に聞いてみましょう」と仏陀のところにポータリプッタ行者を案内していれば仏陀が自ら教えを正しく分別して説法してポータリプッタ行者は仏教に帰依していたかもしれないのにという意味の叱責も含まれているかもしれません。
そこに尊者ウダーインが乱入して「およそ何であれ感受されたもの、それは苦に含まれる(一切の感受は苦である)」という仏陀の言葉について触れます。
しかし、仏陀もアーナンダ尊者もウダーイン尊者を愚か者だとあしらって相手にしません。
そして、仏陀はポータリプッタ行者の質問に対してサミッディ比丘が答えるべきだった適切な返答は「三受を受ける」という答えであると説いたのです。
この経典は長いのでまだまだ続きますが、この後は業論の話になるのでここまでにしたいと思います。
三受は苦であるという意味
仏陀の教えには、「一切の感受は苦である」という言葉と「感受は苦・楽・不苦不楽の三受である」という言葉の両方があるので混乱する人がいると思うので説明したいと思います。
先ほども相応部の「独処経」で仏陀の「一切の感受は苦である」という言葉の文脈での苦の意味は苦しみや苦痛という意味ではなく壊れる性質や無常性についてであるという説明を思い出してみましょう。
一切の感覚とは、苦・楽・不苦不楽(苦でも楽でもない感覚)の三種類(三受)です。
この三種類の感覚(三受)は、それぞれ因縁によって生じて(無我)、変化して(無常)、消えていく(苦)性質であるので苦(壊れる・無常性)であると理解すれば矛盾は生じないのです。
まとめ
この辺の解釈や理解については、当時から仏弟子の間ではよく論争になっていたようで経典でもよく出てくるテーマなのです。
現代でも、この辺の理解で混乱してよく分からないまま誤解している方や間違った解説をしている方が多いと思ったのでテーマとして解説させていただきました。
教えについてきちんと調べて理解しないまま受け売りの知識で話してしまうと仏陀の教えは極端な悲観主義であると誤解される原因にもなりかねません。
瞑想実践の場面では「一切の感覚は苦痛である」などと仏陀の意図とは違う極端な解釈で追い込むような指導してしまうと、実践者に悲観的な先入観(バイアス)を植え付けてしまってネガティブな感覚や感情を増幅させてしまうなどの悪い影響を与えて瞑想難民にしてしまうことにも繋がりかねない危険性があると思います。
終わり
今回は難しいテーマだったので長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございます。
いつも引用させていただいているパーリ経典の和訳を公開して下さっている光明寺経蔵様にも感謝いたします。
生きとし生けるものが幸せでありますように🙏