「すずめの戸締り」私見 同世代から見えたもの

「すずめの戸締り」私見 同世代から見えたもの

新海誠監督の「すずめの戸締り」という映画は、東日本大震災をベースに現実に日本で起きた地震、震災を題材にしており、人によってはその記憶やトラウマを呼び起こさせる側面もあり、エンタメ作品として扱うには賛否の分かれるところだろう。
新海監督は、「君の名は」「天気の子」でも間接的に3.11を思わせるように天災、災害を描いている。「すずめの戸締り」は現実に起きた震災としてそれを直接描いた形になり、それは、反発や批判も覚悟の上での非常に攻めた選択だったのではないかと思う。
あえてその選択をとったのは、それが監督自身が向き合わなければならないテーマだったからなのではないかと思う。

この映画を「鎮魂と癒しの映画である。」という見方をする人は、多いのではないかと思う。
あるいは過去の自分との和解を描いているという解釈も散見しなるほどと首肯する。
そういった見方、解釈自体は間違っているとは思わないし、そういう風に受け取ってもらえるように映画として物語が組み立てられていると思う。

しかし、本当にそれだけなのだろうか、と疑問というか違和感を感じてしまうのだ。

後戸からもれでるミミズによって引き起こされる厄災、それを閉じ師という使命をもった人間によって封印する、という物語の根幹になるこの設定は、本来、人間にはどうしようもない自然災害を人の手で防げる、コントロールできるものとしてしまっていて、震災を主題とし鎮魂を描く物語として見るとファンタジーに寄りすぎていて、テーマをブレさせる危ういモノに思えてしまう。
ミミズや後戸に関しては、おそらく様々な解釈が成り立つと思うし、ここをどう見るかで、この映画の評価や感じ方も大きく変わってくるのではないかと思う。

ミミズに関連する設定の違和感から、自分は、この映画が必ずしも「鎮魂と癒し」のみを描いているのでないのではないかと感じるようになった。
ミミズの起こす地震、厄災は、本来の自然災害とはまたべつの災害であり、何か別のモノを象徴するメタファーなのではないだろうか、と考えると、この映画の奥底にあるものが見えてくるような気がするのだ。

新海作品の大きな特徴の一つに、過剰なまでに美化された美しい風景描写がある。
田舎や空や雲といった自然の風景にとどまらず、ありふれた街角、都会の雑踏、高層ビル群などの人工的な、ともすれば冷たい建築物を感傷的なまでに美しく描く。
その中には打ち捨てられら、朽ちた建物などの廃墟も含まれる。
「すずめの戸締り」では、その廃墟が後戸の出現する場所として、多く登場し、またそれも美しく描かれている。
過去作も含め、新海監督は、朽ちた人工物、廃墟が緑に覆われる様を描くことにこだわっているようにも思える。

作中でこんなやり取りがある。
芹澤「この辺って。こんなにきれいな場所だったんだな」
すずめ「え?ここが?きれい・・・?」
芹澤が被災して建物がなくなり、緑が回復している風景を見て、なんとなく口にする言葉に、そんな風に見えたことのないすずめが驚く。

このシーンは、直接被災を経験していないであろう芹澤の無神経な、それでいて素直な感想と、実際に被災して凄惨な現場を見てきたすずめとのギャップを描いている。
地震や津波で瓦礫になった街、復興がすすまず倒壊して打ち捨てられた民家や町が緑に覆われていく様を、「きれいだ」「美しい」というのは、そこで被災した人、亡くなった人々に対する配慮を欠いた暴言であり、例えそう思っても口にすることは憚られる不謹慎は発言、と誰しもが思うだろう。

しかし、私は芹澤の素直な感想に共感をしてしまうのだ。

自分も廃墟が昔から好きなのでわかるのだが、廃墟には人を引き付ける独特の魅力がある。遊園地や学校、病院など人の集まる施設、人の営みや幸福があったその場所が潰え、建物が朽ち、人影がなくなった後、次第に植物で覆われ緑に飲み込まれていく様は、そこにあった栄華とその崩壊、死と再生を思い起こさせ心を揺さぶる。人は廃墟にどうしようもなく美を感じてしまうのだ。

しかし、廃墟に美を感じない人間も当たり前のようにいる。
廃墟が好きだ、美しいと思う気持ちには、人の死や幸福の破壊、破滅の上に存在するものへ美を感じるという業、やましさがついて回る。
廃墟に美を感じることが時として、その背徳性に無自覚であることをこのシーンは突きつけている。

作中では、すずめの行く先々で廃墟が登場し、そこが後戸の出現場所として描かれる。打ち捨てられた温泉街や遊園地、これらは必ずしも災害によって崩壊したものとは限らず、バブル期に作られた負の遺産、過去の栄華の残滓という側面もある。そこに後戸が出現し、厄災を引き起こすミミズが漏れ出てくるのはなぜなのだろうか?

新海監督は1973年生まれで、私は、新海監督と一年違いの同世代だ。なので、ほぼ同じ年齢で、阪神淡路大震災も東日本大震災も体験したことになる。
同世代だからこそ、過去に見てきたであろう作品の影響や、作品に込められたメッセージやモチーフに勝手に共感し読み込んでしまうところがある。
そんな自分が「すずめの戸締り」で勝手に読み込んでしまったのが、阪神淡路大震災での体験というよりその時、沸き起こった感情だ。

阪神淡路大震災が起きた1995年、この年はもう一つ同世代の心理や思想に大きな転換点となる事件が起こる。
それがオウム真理教による地下鉄サリン事件だ。

1980年代末から1990年代初頭、日本はバブルによる好景気で栄華を誇っていた。
そんな時代に中学、高校を学生と過ごした同世代はこの時、最も幸福だったかもしれない。
しかし、社会的には、オカルトブームがあり、ノストラダムスの予言が流行り、終末論や核戦争の危機、環境問題などが叫ばれていた。
そいうった時代の空気も反映し、アニメや漫画の世界でも終末論や核戦争後の世界を描いた作品が多くつくられ、AKIRAや北斗の拳のように、高層ビル群が破壊され、繁栄した人類が滅亡する様が繰り返し描かれた。
この頃の少年少女の中には、退屈で幸福なそれでいて親や社会に縛られた鬱屈とした世界の崩壊や破滅を待ち望む傾向がたしかにあった。

その願望が、いびつな形で現実として形になったのが、阪神淡路大震災であり、地下鉄サリン事件だったのだ。
この二つの出来事は、幸福な日常が全く予期しない自然災害、そして人の欲望と悪意で簡単に瓦解することを突き付けた。
そして、その記憶が風化し記憶の底に沈み始めたころ、再び、東日本大震災でその記憶を呼び起こされる。
この体験は、新海監督とその同世代の人生観や思想に大きな影響をもたらしていることは間違いない。

それを踏まえて上で、もう一度、後戸とミミズのもたらす厄災が何を象徴しているのかを考えると、それが単純な地震や災害の原因として描かれていないことが見えてくる。
温泉街や遊園地などのかつての人の幸福や栄華を誇った場所からミミズが漏れ出るのは、なぜか?
それはミミズが、豊かさや幸福、栄華の裏で見て見ぬふりをして、心の奥底に封印してきた仄暗い人の抱える破滅願望や破壊願望のメタファーだからなのではないだろうか。

ミミズが東京上空に出現しそれが地上に落ちれば、何十万という人が死傷するかもしれないというシーン、アラート音とともにすさまじい恐怖を感じさせるシーンであるが、同時に東京が破壊されるという漫画やアニメで描かれてきた破壊シーンを想像してハラハラとドキドキが同時に押し寄せてこないだろうか?
「天気の子」で東京という豊かさの象徴のような都市が、水没し自然に飲みこまれていく様に、美しさを感じないだろうか?
隕石が落ちて、鬱屈とした今の自分の日常や現実がぶち壊され、無にかえることを夢想したことはないか?

心の扉の奥底に封印した、かつての仄暗い欲望が、時として作品に表出する。
「君の名は」「天気の子」で天災や災害、そして世界の崩壊をモチーフとして作品を作ってきたことの意味を自らに問い、心の奥の扉を開き、自分と正面から向き合い、ふたたびその扉を閉じていく。「すずめの戸締り」とは、そういう映画なのではないだろうか。
表面的には、震災をテーマにした「鎮魂と癒し」を描いた映画であるという体裁を整えながら、その奥で、監督が自分の内面と向き合った至極個人的なテーマが隠されているような気がしてならないのだ。

以上、新海監督と同世代であることを根拠に、非常に私的な思いを込めた、勝手な解釈を書き上げてみました。
きっかけとしては、廃墟好きとして、廃墟好きの人間が廃墟を美しく描けば描くほど、被災地のあの景色は、罪悪感とやましさで、とてもじゃないけど無神経に描けるものじゃないだろうなあ、という率直な感想を起点に、新海監督がなぜあえて東日本大震災を正面から取り扱ったのか、その心理を同世代の視点で推し量ったみたものです。
まったく、的外れな解釈かもしれないですし、何言ってんだこいつ?となるかもしれんせんが、御笑読いただければ幸いです。

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