downy "第二作品集「無題」"
日本のロックバンドによる、2002年発表のフルレンス2作目。
20年前の日本のロックシーンはどんなものだったか。自分はあまり雑誌を読み込んでいないので曖昧ではあるが、MONGOL800 や GOING STEADY のような青春パンクが活気を見せる一方、ART-SCHOOL や syrup16g といった内省的なバンドも台頭したり、MO'SOME TONEBENDER や THE BACK HORN などはそれらよりもさらに激しく剝き出しの衝動をぶつけてくるスタイルで聴き手を震撼させたりと、様々な次元で新しい波が起こっていた、という具合だろうか。ただこれらはいずれも、基本的にはアグレッシブな勢いであったり歌詞のメッセージ性であったり、良くも悪くもトラディショナルな歌モノロックとしての形式を、そのまま真っ当なベクトルでアップデートしたと言えるものだったと思う。それに対して、前述のバンドよりも少し先輩に当たるくるり、NUMBER GIRL 、スーパーカー…俗に言う「98年の世代」だが、これらはみな2002年に新作をリリースしており、そのどれもがロックの範囲外にある音楽要素を取り入れることで旧来のロック像にメスを入れ、各自なりの実験的な手法で再構築しようという野心に満ちた作品ばかりだった。
それで、その98年の世代が発揮していた野心に(意識的にであれ結果的にであれ)いち早くシンクロしていた同時代のロックバンド、その中で代表的なものと言えば、 実際に向井秀徳とも交流の深い 54-71 と、この downy だろう。今回取り上げる "第二" は、前年リリースの "第一" で見せていたポストロック/マスロック的な作風を踏襲しながら、曲構成やサウンドプロダクションなど全ての面においてグレードアップを果たし、唯一無二の downy スタイルを確立したゼロ年代アンダーグラウンドの大傑作である。
ただ、2004年の活動休止より前にリリースしていたアルバムをまとめて再発した際に、ボーカルを務める青木ロビンのインタビューがレーベル公式サイトにアップされており、これを読んでから "第二" を聴くと以前とは少し印象が違ってくる。と言うのも、自分は昔のブログでも "第二" の感想を書いていたのだが、その時の自分はどうもこの作品の轟音、アグレッションといった部分にばかり耳が行っていた節がある。ところが青木ロビン本人は "第二" を振り返った時に「音をもっと抜きたい、もっと音を減らしたいと考えて」いたと発言している。それであるならば、個々の音は確かに衝動的で迫力があるのだが、大事なのはむしろその音の隙間に潜む無音、空気感なのではないかと。
また、そもそも青木ロビンの音楽的嗜好はエレクトロニカやヒップホップが主とのことだし、downy 本隊もライブの対バン相手が THA BLUE HERB だったりもしたので、オルタナティブロック方面のみならず、そういったエレクトロニック方面への目配せが downy の音楽性を構成する重要なエッセンスなのは間違いない。そこに着目してみると、先述の無音と並び、ループを基調とした曲構成にこそこのアルバムの最たるキモがあるのではと、リリースから20年目にしてようやく気付く。
例えばオープナー "葵" 。これは downy の中ではロック的なダイナミズムが比較的わかりやすく表れている類ではある。しかし今更言うまでもないことだが、downy のロック的ダイナミズムとはAメロBメロサビ間奏…といった定型をなぞって発生するものでは全くない。基本的に downy の曲はイントロ頭4小節の時点で強烈なのだ。ドラムは変則的なリズムパターンでぎこちないうねりを生み出し、ギターはエフェクターをフル活用して空間を捻じ曲げる勢いの険しい音を放つ。ただそこから必要以上には展開せず、変則リズムをストイックにループし続けるリズム隊を軸に、上モノを抜き差ししながら緊張感を持続させ、慎重に曲が紡がれていく。これはロックバンドであることを前提とすれば呼称は「ポストロック」や「マスロック」に落ち着くだろうが、明らかにエレクトロニカ、もしくはヒップホップの作法を人力アンサンブルにトレースしたものだ。バンド全体が一丸となるのではなく、プレイヤー四人の鳴らす音に確固たる輪郭があり、それらが反復を繰り返しながら立体的に共存することで総体を成すという作曲方法。ならば音の間を強く意識したという青木ロビンの発言にも合点がいく。シューゲイザーよろしく全ての音が完全に融和してしまえば、このエレクトロニカ/ヒップホップ的な冷ややかな感触は希薄になってしまうからだ。隙間の静寂を含めた個々の音をどのように連結/解体していくか、この妙技にこそ downy の個性の核があるのだろう。
そういった観点から言えば、このアルバムの中枢を担っているのは "無空" だと思う。この曲こそ特に展開が絞られており、ほとんど人力ミニマルテクノ状態である。ただし聴き手を踊らせることはない。延々とループするブレイクビーツはむしろ意識を微睡へと向かわせ、冷たい風のごとく突き刺さるギターサウンドは逆に覚醒を促す。茫洋とした冬の曇り空を眺めるような、寂寥そのもののサウンドスケープ。「隙間」と「ループ」によって醸し出される抒情性が特に味わい深く表れている秀曲だ。アルバム前半には真っ当にロックバンドらしい激しさを持った楽曲が多く並び、もちろんそちらはそちらで絶品なのだが、後半パートにはこの "無空" を含め、青木ロビンの持つ哲学により近いと言える楽曲が揃っている。とぼとぼと幻惑、幽玄の世界へ足を踏み入れていく "三月" 、殺伐とした音が幾何学的に連結していく様がインダストリアル的ですらあり、思わず固唾を飲んでしまう "犬枯れる" 、そして最終曲にしてようやく仄かに柔らかな表情が見られる "月が見ている" 。この後半部における実験性は、現在のドラマーである秋山タカヒコが新加入し、より一層エレクトロニックな音像と化した翌年の "第三" とも地続きのものとなっている。
さすがに現時点での最新作 "第七" を聴いた後だと、いくら手法がエレクトロニカ/ヒップホップ的だと言っても、音作りやミキシング的にはあくまでもオルタナティブロックの範疇に留まるものであり、それが良くも悪くも時代を感じさせる部分はある。ただそれでも、ここでの静と動を見極めたバランス感覚は現在でもバンドの主幹であり、初期の段階で downy と言うバンドの音楽性がすでに完成の域まで達していたことが手に取るようにわかる。日本産ロックの特異点として今なお鈍い光を放ち続ける重要作であることに変わりはない。
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