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Mitski "Laurel Hell"
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三重出身、現在はアメリカ・ナッシュビル在住のシンガーソングライターによる、3年半ぶりフルレンス6作目。
エモーショナルな表現で心をぐちゃぐちゃにしてほしいという、ある種のマゾヒズムが自分にはある。この欲求の発端はどこだっただろうか。まず思い当たるのは中学生の時に聴いた椎名林檎だ。まあ林檎本人はあくまでも職業作家的なスタンスを目指していて、歌詞の内容と自身のパーソナリティを何かと結び付けられがちな状況に危機感を覚えていたらしいが、ともかく結果として、濃密なポップ性や過剰なアレンジ、それらと結びついた切実な情念の深さが、自分の音楽的嗜好を決定付ける大きな要因のひとつになったのは間違いない。多少露骨なくらいがちょうど良かった。その後も戸川純、五十嵐隆、峯田和伸、の子と、スタイルは人によって様々だが、踏むべきポイントはだいたい踏んできたという感じで、膿んだ瘡蓋のような痛々しい衝動をある種の美しさにまで昇華したカルトスターの表現を定期的に摂取することで、自分のマゾヒスティックな欲求を解消しては肥大化させてきた。
これらの表現者を繋いだ時にうっすら見えてくる一本の線を、Mitski にも繋げるのはいささか乱暴かもしれない。ただそれでも…自分が Mitski を初めて聴いたのは御多分に漏れず2016年作 "Puberty 2" なのだが、その中でも特に衝撃を受けたのはやはり、彼女の一番の代表曲でありテン年代屈指の名曲として名高い "Your Best American Girl" だった。90年代グランジ/オルタナティブロック直系の厳ついディストーションによってアイデンティティの軋みが壮絶なまでに露わとなる、そこで放たれる美しさと恐怖感は、自分にとっては上記のミュージシャンとかなり近似したものに感じられて、すぐさま虜にさせられたものだ。またその後の2018年作 "Be the Cowboy" では荒々しさよりも流麗さ、カラフルさに重点を置いたサウンドに変化したものの、例えば "Nobody" での、「どれだけ大きくなったり小さくなったりしても、誰も私を求めなかった」と、ディスコ風の軽快な曲調とは完全に真逆を行く孤独感の吐露に、またしてもガツンとやられてしまった。今では自分は Mitski の音楽を聴く時に少しばかりの心構えが必要になっている。もちろん今でも、彼女の音楽は聴くたびに辛辣に、なおかつフレッシュに響き、こちらの欲求を十二分に満たしてくれる。
それから3年半。Mitski はこの間に、絶え間ない長期のツアーで心身を擦り減らし続けた結果、2019年9月の公演をもって活動を休止し、各種 SNS も削除(現在は復活)。インディシーンにおいて商業的/批評的な成功を収めたがゆえの、多くの熱烈なファンからの期待も重圧となり、当時は本当に音楽を辞めるつもりでいたらしいが、紆余曲折を経て決意を新たにし、彼女は戻ってきてくれた。
昨年に先行リリースされた "Working for the Knife" の MV に含まれている暗喩は、鈍感な自分でも割とすんなり理解できた。レザーコートとテンガロンハット、すなわち "(Be the) Cowboy" の衣装を脱ぎ捨て、ただひとり暗いコンサートホールで歌い踊る。曲が終わった後には見えない観客からの大歓声が沸き起こり、その中で Mitski はパニック発作を起こしたかのように激しくもがき出し、時折垣間見える表情には何とも言えない笑みを浮かべている。ここでの "Knife" とはメンタルヘルスの失調、老化、資本主義…要するに抗いがたい暴力的な抑圧を指しているのだと。彼女が表現者として華々しく振舞う中で、"Knife" に対して終わりの見えない苦痛を感じ、その果てに輝かしい過去すらも打ち捨てようとしてしまう、そんな悲痛さがここでの MV と 歌詞にはダイレクトに表れている。この曲のみならず、今回の収録曲のほとんどは2018~2019年頃、つまり彼女の音楽活動がいよいよ激化し、やがて休止を決意した直後くらいまでの期間に書き上げられたとのことで、もしかすると過去作以上にヘヴィさを増した心境ばかりが反映されているのだが、果たしてこの歌詞をどのようなサウンドで支えるべきか。そこでまた彼女は変革を余儀なくされた。
そう、"Working for the Knife" のみならず、今作の音は全般的にバンド演奏よりもエレクトロニクスの比重がずっと高く、シンセポップ、それも80年代のノスタルジックなテイストがかなり強い作風で、これまでにパンクやオルタナ、フォーク、チェンバーポップと、作品毎に方向性をシフトし続けてきた彼女の中でも特にチャレンジングと言える内容になっている。楽曲を順に追っていくと、冒頭 "Valentine, Texas" では空間的で優美な、しかし厳かで微妙にゴス風にも受け取れるシンセサウンドが拡散し、ゆらりと水の中を漂うような歌声は、その柔らかさとは裏腹の凄みを感じさせる(この感覚は昨年の SPELLLING にも通じる気がする)。また "Stay Soft" は洒脱で落ち着いたビートが Blondie を思わせるディスコポップ。"The Only Heartbreaker" はロック色の強いシリアスな疾走感がほとんど a-ha な仕上がり。そこから続けざまのアップリフティングな "Love Me More" で情感がドラマチックに火花を散らし、シャッフル調の華やかさに悲哀が滲む "Should've Been Me" に至ってはダメ押しのようなものだ。洗練されたスウィートさの中に翳りが差し込まれるメロディセンスは従来の Mitski ならではと言えるものだが、そのメロディの質感がこれまでとは別種の形で、時には切迫感を一層増したり、時には幻惑的なダークネスを湛えたりと、ダイナミックな抑揚をつけながら展開されている。
ただ、例えば昨今の Dua Lipa や The Weeknd といったスーパースターがあえて80年代のマナーに回帰しているのとは、今作は様相が全く違って見える。それらのアクトが作る楽曲は80年代風であるとは言っても、ミックスやプロダクションはやはりトップチャート最前線のそれであり、極めてハイファイで艶やかな張りを持つ R&B ポップという土台の上に成り立っている。それに対して Mitski の鳴らす80年代は、インディシーンに身を置く彼女の血がどうしてもそうさせるのか、音の輪郭はファジーに処理されており、各パートが柔和に馴染んで大きなひとつの塊を成す、ある種のサイケ感、またはロック感に裏付けされた音像なのだ。"The Only Heartbreaker" などは特に分かりやすい例で、この曲は Taylor Swift や Adele などの楽曲制作にも携わっている Dan Wilson との共作だが、いかにもスターダム対応といった作りは目指していない。間奏では空気を切り裂くように鳴らされるノイジーなギターとシンセが渾然一体となり、駆け足で音階を登り詰めていく様はこの上なくスリリングだが、その音はオープンに開かれていると言うよりは内的世界の奥底へとアクセルベタ踏みで突っ走っていくようで、エレクトロニックでありつつも全体の感触はいなたく、ある意味でひどくインディ的な印象がある。
この判断については聴き手によって好みは分かれるだろうが、個人的には大正解だったと言い切りたい。このサウンドには良い意味での軽さがあり、しなやかでダンサブルで、何処かユーモラスですらあるのだ。本当に重たく仕上げたいのならば、わざわざ曲調をディスコや a-ha に寄せたりはしないだろう。シリアスさをシリアスな方向ばかりに助長せず、なおかつ単純な流行への迎合にも陥らず、従来の Mitski らしさを守った上で新境地に達し、躍動し耽溺するポップミュージックに内面の暗部を投影する。あれもこれもを両立した複雑なバランスを構築するには、この歌詞に対してこの質感のサウンドこそが最も適切だったのだ。上に貼り付けた4つの MV 、その全てにおいて Mitski は全身を大きく振り乱すコンテンポラリーダンスで感情を思うさま爆発させている。レトロな意匠で、牧歌的な丸みを帯び、この世から隔絶されたような浮遊感を醸し、しかしその内側には泥臭く鋭利な人間味が宿された、Mitski による Mistki のためのシンセポップ。このメロディとビートで彼女の舞踏は以前よりも加速度を増し、我々にこれまで以上の深い引っかき傷を残そうとしている。喪失や渇望を歌いながら全霊で生命力を振り撒き、鮮やかに希望を勝ち取るための舞踏。
このパフォーマンスはいずれ来たる新たなステージでも目視できるのだろうか。そのステップで、表情で、早く自分をぐちゃぐちゃにしてほしい。