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優河 "言葉のない夜に"
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東京出身のシンガーソングライターによる、4年ぶりフルレンス3作目。
いきなり全然違う畑の話。南アフリカで生まれた「アマピアノ」と呼ばれるダンスミュージックがある。ハウスから派生したジャンルではあるが、ログドラム(木製パーカッション)やシェイカーを活用した、4つ打ちに囚われないリズムパターンを特徴とするもので、現在では南アを飛び越えて世界各国に影響が波及している。ここ日本でも、トラックメイカー audiot909 がジャパニーズ・アマピアノの先駆者として名乗りを上げ、先月にはあっこゴリラをフィーチャーしたシングル "RAT-TAT-TAT" をリリースし、ラジオやプレイリストで紹介されるなどで注目を集めており、少しずつ波が高まってきているのを感じさせる。
それで、audiot909 が楽曲を作る際に悩んだことのひとつに、南アの音楽であるアマピアノに、果たしてどれだけ日本的な要素を追加するべきか、というのがあったそうだ。和風の旋律、あるいは J-POP 的な旋律、いやそもそも日本語ボーカルを入れるべきかどうかも含め、国内のオーディエンスにプレゼンするために、どれだけ本来のアマピアノを希釈/改変するべきか。結果的にはあっこゴリラによるキレキレのラップを乗せることで、アマピアノならではの魅力を殺さずに日本人らしさを打ち出す最適解を導き出したわけだが、この問題はアマピアノに限らず、日本産ではない音楽ジャンルのおよそ全てにつきまとうものだろう。それこそ60~70年代に勃発した日本語ロック論争もそうだし、議論があからさまに表面化しないにしても、海外で起こった新しいムーブメントを日本に輸入する際に、単なるコピーに陥らず、それでいて現地のテイストを損なわないまま、日本人がその音楽をやる意義を付与するとなると、そこで高度なバランス感覚を要求されることは決して避けられない。
さて、今回の優河の新譜である。
聴き始めてすぐさま、歌声と演奏の両方に吸い込まれそうになる。音楽性はフォークロック。ただ音響面は非常に緻密で、各パートの鳴りの旨味を十分にパッケージし、空間的に配置して融和と分離の絶妙なバランスを保っている。この手の音楽性で自分が思い当たるのは Phoebe Bridgers や Clairo 、あるいは Bon Iver といったところか。つまりソングライティング面は素朴で親しみやすい魅力があり、なおかつサウンドプロダクションは先鋭的という、相反した要素を併せ持った内容。それで、今作のミュージシャン名義は優河だが、実質的には彼女のバックを務める魔法バンドとの共作状態で、優河本人と並んでバンドメンバーの岡田拓郎や谷口雄(どちらも ex.森は生きている)も作曲者としてクレジットされている。このコラボレーションは過去作でもすでに実践されていたので、共同での経験を重ねてさらに親密な関係性が築かれ、充実度を増したチーム体制で今回の制作に臨めたのだろう。海外のインディフォークロックにおける現在進行形の潮流をいち早くキャッチするべしという鋭敏なセンスが活かされた、たおやかで深遠な奥行きのある音世界がアルバム全編で展開されている。
オープナー "やわらかな夜" からして文句のつけようがないほどに美しい。最小限の音数と豊かな残響音が静謐の情景を織り成し、そこから音が膨張して満天の星空のごとくパノラミックに音が開けていく様は、フォーク調でありながら Television が "Marquee Moon" で10分近くかけて辿り着いた極致にわずか2分半でひらりと舞い降りてしまったようで、この時点でどっぷり没入せざるを得ない。続く "WATER" では生演奏の中にエレクトロニックな感触が散りばめられ、目一杯にタメを効かせたリズムがトラップ調のヒップホップトラックのようにも感じられる。また "fifteen" は一転してブルースの渋味がジワリと五臓六腑に染み渡り、"夏の窓" ではラテン/トロピカルテイストの甘酸っぱさが上品に弾け、そこから "loose" のワルツ調へと移る流れは昼から夜への時間軸がコンセプチュアルに紡がれているようで、没入度合いは弥増すばかりだ。大まかにはフォークの範疇にまとめられる楽曲ばかりだが、その細部には多彩な趣向、エッセンスが効かされており、曲の隅々に意識を向けていくほどに、その味わい深さに唸らされる。
ただ、サウンド面で言えば上に連ねた昨今の、主に米国の先進的なフォークシンガーを連想するのだが、アルバムを聴き終えた後に残る印象は、むしろ日本国内の、それも古き良き昭和時代の歌い手と近いものだった。具体的には金延幸子と五輪真弓。いずれも Joni Mitchell や Carole King といった70年代当時の新星からリアルタイムで影響を受けつつ、日本語の歌詞、日本的な叙情性を交えて消化することで代替の効かないオリジナリティを提示し、国内の音楽シーンを演歌/歌謡曲からひとつ次のステップへと推進させた功労者と言えるであろう存在だ。歌唱法や歌詞表現など細かい部分の差異はもちろんあれども、今作での優河の佇まいはそれらの先達とかなり近似しているように自分には思える(Carole King については優河自身も "It's Too Late" をカヴァーしたり、多大な影響を受けているという共通項もある)。常に音節の中に母音が存在し、英語のように流麗とはいかない日本語ならではの音の響き、そんなある種の「訛り」を自らの強みとして重んじ、海外の流行を他のどこにもない個性へと転化させ、日本という国での可能性を模索する表現者の頼もしさが、今作には感じられるのだ。
よく謳い文句で「(任意のジャンル/ミュージシャン名)に対する(任意の国名)からの回答」というのを見かけるが、「回答」するからには当人なりの機転や解釈が必要であり、単なるオウム返しでは意味を成さない。遠い地で巻き起こる新しい波と、生まれた地で連綿と受け継がれる味わい。双方のルーツをはっきりと感じさせ、その両者が曲の中にすっかり溶け切っているこの作品は、それこそ "み空" や "少女" といった、イノベーティブであると同時に長い月日の経年劣化に耐えて今なお広く愛される国産フォークの名作たち、その系譜にきっと連なるものになるだろうと、自分は仄かな確信を抱いている。