SASAMI "Squeeze"
アメリカ・ロサンゼルス出身のシンガーソングライターによる、約3年ぶりフルレンス2作目。
情報の整理。SASAMI こと Sasami Ashworth はイーストマン音楽学校で主にクラシック音楽を学び、2012年に卒業した後は音楽教師を務めたり CM や映画の音楽を手掛けたりと、言ってみれば由緒正しい音楽家としてのキャリアを積み重ねた後、2015年にロックバンド Cherry Glazerr に加入。その時の音楽性は The Breeders を彷彿とさせる、エネルギッシュでいて知的、なおかつユーモラスなインディ・オルタナティブロックだった。2018年にはバンドを脱退してソロ活動を開始し、翌年にデビュー作 "SASAMI" を発表。そこではシューゲイザー/ドリームポップの要素が増し、90年代フレーバーをさらに強めた幻惑的でノスタルジックなロックサウンドを披露していた。
ところが…2020年、作曲作業のためワシントンに向かった際に、友人であり創作のコラボレーターでもある Kyle Thomas (King Tuff) の誘いで、スラッジメタルバンド Barishi のライブを見ることになった彼女は、そこで発せられていた重低音の暴力的なエナジーに激しく触発され、気が付けば自ら勇んでモッシュに加わっていたという。幸か不幸か、その体験は曲作りにまで影響を及ぼし、当初はアコースティックギターを用いてクラシックの素養を元とした楽曲を制作するはずだったのが、結局は iPad でヘヴィサウンドの探求をすることになり、今回の "Squeeze" へと繋がっていったのだと。では今作から彼女が完全にヘヴィメタルのスタイルへ移行したのかと言うと、どうもそういうわけでもない。かねてから備わっていた引き出しであるクラシック、フォーク/カントリー、インディロックといったところに、メタルがほぼ同列の扱いで割り込んでくるという、もっと複雑な事態に陥っているのだ。
収録曲を順番に追っていく。まず冒頭 "Skin A Rat" 。前作からいかに彼女の嗜好が変化しているかを分かりやすく伝える早速のメタルチューン。しかもドラムを務めるのは Dirk Verbeuren (Megadeth / ex-Soilwork) 。可変速でうねるビートは体を突き上げると言うよりも、低く囁くようなボーカル、緊迫したダークな雰囲気と相まって、それこそジャケットの濡れ女のごとく鼓膜に絡みつき、聴き手の神経を強張らせる。だが次曲 "The Greatest" では一変し、歪んだギターサウンドこそ引き継がれてはいるものの、伸びやかで牧歌的なメロディが映える曲調はメタルと言うよりオルタナティブカントリーと呼んだ方がしっくりくる。また3曲目 "Say It" は Korn あたりからの影響を感じさせるインダストリアルメタル、"Call Me Home" はドリーミーな浮遊感をまとったフォークソング(ベースだけゴリゴリ)…と、トラックが進むごとに上着を変えるくらいの軽やかさでジャンルもスイッチし、もはや一枚のアルバムとしてのまとまりを最初から放棄しているかのような、とにかく雑多極まりない内容なのだ。
しかもクレジットをよくよく確認すると、上記の "Skin A Rat" を筆頭に、ラウド寄りの楽曲の多くは SASAMI と Ty Segall の共同プロデュースという形になっている。ソロ名義だったり様々なバンドを掛け持ちしたりで、グラムロックやガレージパンクに根差した泥臭い爆音を鳴らし、しかもその端々からは妙にシュールでサイケな、鼻腔をツンとつく饐えた匂いの毒気を放つ、米国アングラロックンロールの奇才であるところの Ty Segall が、何故かメタル曲のプロデュースを担当していると。それで合点がいったのだが、今作におけるメタルは本筋のメタルバンドと比べると明らかに音圧が弱く、その代わりに洗練されない粗さや生々しさが前に出て、場面によってはその垢抜けなさが転じてコミカルに映ったりもする、どこかネジの緩んだストレンジな攻撃性を放っているのだ。決して正道をなぞるだけでは終わらない、この居心地の悪い奇妙なロック感は Ty Segall 関連の諸作とも綺麗に通じる。また、そのヒネた感性は8曲目の Daniel Johnston "Sorry Entertainer" のカヴァーでも発揮されている。この曲には Ty Segall は関わっていないようだが、不協和音だらけで脱力しきりの自虐的な弾き語り怪曲という選曲にしろ、それを完全にメタル化させるという大胆な手法にしろ、根底のイズムには Ty Segall と共通する毒気のようなものを、どうしても感じ取ってしまう。
インタビューの中で彼女は今作について「怒りやフラストレーションといったネガティブな感情を深堀りするような作品にしたかった」と述べている。作曲行為が自身の鬱屈を発散・昇華させるためのセラピーの一部になるのではなく、あえてもっと混ぜっ返してカオスな状態にしたかったと。その目論見は完全に成功していると言える。どれだけやれば気が済むのかというほどにジャンル間を横断しまくり、多彩なゲスト陣をミスマッチな場面にあてがい、まるで取っ散らかっているが、アルバム全体を通して見るとポップな感触だけは一貫していて、むりやり力技でひとつの主軸を生み出しているようにも見える。このカオス度合いにはここ2年ほどのコロナ禍の状況であったり、在日コリアンだった祖母や母の抑圧的な境遇に対する思いも反映されているようだが、とどのつまり彼女は、ロックミュージックの枠組みを押し広げてやろうという野心こそを最重視し、その結果生み出されたのがコレ、ということだろう。何物にも縛られず、悪意を包み隠さず、ひたすら興味の赴くままに、しかしスマートさだけは忘れずに。結局、ここでは今作がメタルとして成か否かなどはさしたる問題ではない。自由奔放な手つきでアートフォームの更新を図る前傾姿勢に、聴き手の我々は目一杯に翻弄されるべきなのだ。ウッシッシ。ロックはまだ面白い。