#009 「木野」/村上春樹さん 読書ノート
Lectioの読書会で村上春樹さんの短編小説集『女のいない男たち』から「木野」を読みました.その感想,解釈を読書ノートとして書いておきたいと思います.
『女のいない男たち』はとても好きな短編集です.
どの作品も男から見た女性への愛情とか喪失感がじっくりと描かれています.
その中でも「木野」は不思議な印象を持つ作品でした.
初読の率直な印象は「う〜ん,難しいぞこれ」でした.
何が難しいかというと,村上春樹さんの独特なメタファ(隠喩)の描写がより一層強い感じがしたからです.
登場人物もどこか現実味を欠いたような奇妙な人たちが現れます.
主人公である木野が開店したバーの常連となった「神田(カミタ)」さんも,すごく不思議な描かれ方をしています.
坊主頭で,静かに本を読みながらウイスキーを飲んでいる.
でも別の客でダークスーツの二人組の男たちに木野が絡まれたとき,彼らを店の外へ連れ出して事態を収拾してしまう.(どういう手段を使ったのか不明です)
神田さんは木野の店についても,「残念ながら多くのものが欠けてしまった」というように,意味深な言葉で危機的状況にあると指摘し,木野に一旦店を閉めて遠くに行くことをアドバイスする.何ともスピリチュアルな感じがします.
神田さんの名前は「神の田んぼ」と書きます,古くからこのあたりに住んでいます,と自己紹介しています.
小説の読み方や解釈は人それぞれですが,僕は「神」とか「田んぼ」とかいう語感から,すごく日本的な自然信仰のようなものを連想しました.
また木野も後に,熊本のホテルの一室で謎の不吉な「ノック」に苛まれながら,じっと耐え忍んでいるとき,神田さんとバーの前庭にあった「古い柳の木」の結びつきに思いを馳せている.
こういうのが村上春樹さんの小説の魅力だなと思います.
現実的なつじつまや,いわゆる実体的な描写から離れて,非論理的なリアリティと呼びたくなるような必然性を感じさせる.
このあたりを言葉にするのは難しいし,野暮でもあるのですが,そこがやっぱり面白い.唯一無二の小説世界だなと感動してしまいます,
「木野」には他にも色々なシンボリックな描写があります.
例えば,木野の店の周辺に突如見かけるようになる三匹の蛇がいます.
褐色の蛇,青色の蛇,黒い蛇.
それぞれ,例えば,ダークスーツを着た二人連れの男の客は,褐色の蛇と重なります.片方のポニーテイルの男は「唇を長い舌でゆっくりと舐めた.獲物を前にした蛇のように」と描写されています.
青色の蛇は,不倫をしていた元妻が青いワンピースを着て店にやってきたことと被って感じられたりします.
また黒い半袖のワンピースを着た客の女と木野は一夜を共にしてしまいますが,その欲望の強さと,黒い蛇の危ない印象とが被ります.
人物が動物や植物と重ねて感じられる.
生き物たちの魂が,人の姿に形を変えて現れたのか.あるいは逆に,人物が無意識に抱えている欲望や魂の形こそが,動物の姿になって現れたのか.
そもそも,それらのことは同じことかも知れない….
そういう不思議に哲学的なことを感じさせるものがあります.
例えば,それは荘子の胡蝶の夢の話,「物化」の世界観を連想させます.
僕は,こういう不思議な描写は単に物語の面白みを演出している効果だけではないと思います.人が何か人生において危機的状況に追い込まれた時,普段は見えないものが見え,普段は思いもしない事柄がつながり,動植物などの自然が何か不思議な知性を持っているように迫って感じられる.そういうこともあるだろうなと思います.だから「木野」は妙にリアリティを持つ作品なんだと感じられました.
今回の読書会を機に本作品を読んで,最も印象に残ったテーマが「両義的」ということでした.作品でこの言葉はどのように表れているでしょうか.
突如として木野の営むバー付近に現れるようになった三匹の蛇たち.そのことを伯母に尋ねてみると,伯母は古代神話における蛇の意味について語ります.蛇は「善きものであると同時に、悪しきものでもある」,つまり両義的な存在として見なされてきたというわけです.
先ほどの三匹の蛇たちが,それぞれ木野の店に訪れた人物たちを象徴しているとしたらどのような意味を感じるでしょうか.
僕は,ダークスーツの男たちには闘争的な気分,苛立ちを感じます.青いワンピースを着て表れた元妻とのやりとりでは,裏切りと寂しさ,愛情とそのすれ違い,つかみきれない他者性を感じます.黒いワンピースを着た女性客との一夜の関係においては「癒されることのない渇き」と書かれているように,性的欲望や暴力性といった人間存在の社会性の奥底でうごめいて存在する獣じみた渇望です.
しかし一面的にはネガティブに思われるようなそれらの意味を,「良きものであると同時に,悪きものである」と捉えようとする方向性を作品の力として感じます.そこがこの作品の深みだと感じられるのです.
少し踏み込んで言い直してみますと,両義的ということは,人間存在が清濁合わせもった属性を有しているということです.愛情という感情と表裏一体のものとして,性欲もあるでしょうし,所有欲や支配欲といった暴力性もあるでしょう.そもそも生きていたいという欲望自体が,死への恐怖の裏返しとして突き動かされているだけかも知れません.
木野はどうやら,この人間存在の両義性に正面から向かい合っていたわけではないようです.
女性客と一夜を共にした後も,木野は「女はまたいつか,おそらくは静かな雨の降る夜に,一人でこの店を訪れるだろう」と思います.それは「いくら水を飲んでも癒されることのない渇き」だという認識を持ち,それを恐れながらも「心の奥でそれを密かに求めてもいた」とあります.ついに木野自身の経験として自らの両義性に不安を感じるようになって来たわけです.
この両義性こそ妻が生きていた実存的な現実だったのではないでしょうか.決して嘘偽りのない在り方がそこにあって,でも木野はそれを見ようとしなかった.妻に対しても彼自身も愛情深く平和な一面性しか見ようとしなかったのではないでしょうか.それを妻が言葉にすると「ボタンの掛け違いみたいなものがあったのよ」ということになった.
木野にとって辛い経験になったかも知れませんが,妻にとっても彼女の存在の全体性をぶつけることが出来なかったという意味で寂しいことだったのでしょう.
では,木野はどうするべきだったのでしょうか.
この問いが一番難しい問題だなという気がします.そのことは神田さんにも問題提起されます.
「正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです」
難しい言い回しだなと思います.
この問題を自分なりに言い換えると,次のような問いが浮かびます.
正しいことを行う、ということと、正しくないことを行わないでいる、という二つの行動様式は同じことでしょうか.それとも違いがありますか?
ここでいう「正しいこと」とは単純に正義なこととか,善悪の価値判断を主体的に行うことというニュアンスとも少し違うように思います.
逆に「正しくないことを行わないでいること」とは,おそらく防衛的な態度に終始することです.本質的な問題から目を逸らし,対立を避け,自分も相手も傷つくことから距離を取ろうとする姿勢です.おそらく対立や傷つくことが「正しくないこと」だと感じられるのでしょう.しかしこの姿勢には成長できないというデメリットがあります.
そう考えると,「正しいことを行う」とは,対立や傷つくことを恐れずに,自分と相手の関係を変えることになっても,それを成長することと捉えてぶつかっていく姿勢かなと思います.夫婦関係の維持のためではありません.ただ人間存在の両義性の問題に向き合うことです.あるいは人間存在の本質的な渇愛や寂しさの闇に二人で向き合おうとすることです.
ずっと防衛的な姿勢のまま本質的な問題から目を逸らしてきた木野の元に,何者かがノックをして訪れます.熊本のビジネスホテルの深夜の出来事です.もちろんノックとは象徴的な現象ということになります.
このノックは木野自身のの心の闇のようなものです.傷つくことや対立することを避けるために妻や自分自身の両義性から目を逸らしてきた.それは一方で平和で居心地の良い場所をもたらした.けれども同時に「中身のない虚ろな心」を抱き続けることになった.本当に生き続ける力を生み出すことはできませんでした.
「いちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別のところに隠しておくの」
伯母が言ういちばん大きくて賢い蛇とは,木野自身を内側から食い破る負の欲望に他なりません.この時,本質的な意味での魂の生き死にがかかっているのです.そういう時,人の命を繋ぎ止めるために一体何ができるのでしょうか,作品がそう問いかけてきます.
今回,僕が作品から読みとったのは,「記憶」「瞑想」「受容」「慈悲」と言う要素です.
木野は「記憶は何かと力になります」と言うカミタさんの言葉を思い出します.そして前庭の古い柳の木のことを思い出し,その豊かで生命力と平和な姿を頭に思い浮かべていきます.なぜ柳の木なのかというと,木野にとって柳の木は自分を保護してくれていたと感じられていたからです.そこに理屈はありません.けれどもそれを信じて頼りにするということは信仰心と言っても過言ではないように思います.
そのように木野は布団の中で身体を虫のように丸め,「ただ柳の木のことをおもった」とあります.柳の木に続けて,灰色の雌猫を思い,若い中距離ランナーを思い,『マイ・ロマンス』の美しいソロを思います.そして新しい青いワンピースを着たかつての妻を思い浮かべ,彼女の幸福で健康な生活を願います.
これらの自分の幸福感を支えていたものたちの記憶を手繰り寄せる思念は,ほとんど瞑想的だと感じられます.そこから木野はかすかな力を得ていく.妻に対しても「赦すことを覚えなくてはならない」とまで感じ始めます.そこには深い受容が見出されていきます.
「私をまっすぐ見なさい」と耳元で囁く存在とは何者か.「これがおまえの心の姿」なのだからという呼び声は,まさに一番大きくて賢い蛇である存在,心臓の鼓動のようにノックを続けていた自分自身の闇に他なりません.木野はここで自らの心の姿を受容していきます.もう逃げることを止めたのです.
「誰かの温かい手」が木野の手に向かって伸ばされていきます.その手はかつての妻の記憶の影です.木野の愛情は傷ついたかもしれません.けれども少なくともそこには確かな慈悲心のようなものの温もりが残っている.僕にはそのように感じられました.
今回の読書会で読んだ「木野」という作品は,人間存在の本質的な愛情と渇愛や寂しさの両義性に向かい合うことで妻を赦し,自己を深く受容する主人公を描いていました.彼は記憶の中の善きものを,まるで聖なる瞑想を行うように手繰り寄せることで生命を繋いだ.そんなふうに読むことができました.
とっても楽しい読書体験となりました.文学作品と読書会の皆さまに感謝です!
ではまた!