#017 映画「ニュー・シネマ・パラダイス」感想ノート〜映画の魅力は「言葉じゃない」んだな
映画について感想ノートを書いてみようと思います.
作品は『ニュー・シネマ・パラダイス』です.
何故,この作品かというとたまたま,Spotifyの「超相対性理論」というコンテンツを聴いていて「ニュー・シネマ・パラダイス」についてパーソナリティの深井龍之介さん,荒木博行さん,渡邉康太郎さんがそれぞれ感想を述べる回を聴いていたからです.
この回ですね.↓
僕は深井龍之介さんのCOTENラジオのファンで,そこからの流れで超相対性理論というコンテンツも知ることになり,過去から遡って聴いているのです.
毎回とっても面白いテーマについて,いろんな観点から雑談するのを聴くのですが,すごく面白いです.自分なりのアハ体験みたいなのが生じて,他の考え事も進んだりします.
そして,「ニュー・シネマ・パラダイス」の感想回をやる,という展開になった時,一度コンテンツを聴くのを停止して,僕も映画を観てから聴くことにしました.
僕はこの映画を観たことがなく,どうせだったら自分も映画を観てから聴こうと思ったからです.
結果として,観てよかったです.何というか「味わい深い映画」という印象ですね.大人の映画というか.人生観を投入できる映画ですね.
映画って色々な年齢とか経験によって意味が違って見えてくるのが魅力の一つですが,「ニュー・シネマ・パラダイス」はそういう懐の深さを持っている作品だなと感じました.
映画を観てから,さっそく超相対性理論の感想回を聴いてみました.
まず衝撃を受けたのは,僕の観たバージョンの他に「完全版」なるものがあるということを知りました.それはかなり重要な違いです.
その完全版なるものをいつか観てみたいなという気持ちが湧いてますが,とりあえずそれはまたいつかのお楽しみということになります.
超相対性理論での御三方の感想もとても興味深く感じられました.なるほどと思いながら聴いてました.やっぱり自分で観てから聴いて良かったわ,と思いました.
主人公のトトとアルフレードの友情とか,アルフレードがフィルムを編集したり,村から離れさせたことで,トトが失ってしまったこととか…
なるほど〜,そういう解釈もありだなと思ったりしました.
僕は文学作品が好きで自分で読んだり,今では読書会で感想を言ったり聴いたりしますが,映画も全く同じで,色んな解釈ができるんだなと改めて思いました.
色んな解釈ができるんだな〜,というのをポイントで表すとこんな感じです.
作品の解釈に「正解」は無い.
全ては鑑賞者の主観的な意味の現象である.
鑑賞者が観た時の「印象」としての作品がある
「印象」と別にそれを言語化しようとする時に現象してくる「作品像」がある
他人の「作品像」を聴いているうちに,影響を受けて現象する「作品像」がある
他人の「作品像」を聴いても共感しない自分の「作品像」も意識するようになる
とりえず今「作品像」を言語化しても別の機会に再度視聴すれば「印象」が変わると予感している(ネガティブケイパビリティ)
そんなことを「色んな解釈があるんだな〜」と思いつつ聴いていて,楽しかったです.
僕の「作品像」を言葉にしてみると次のようなものが記憶に残りました.
「パラダイス」という言葉が象徴的だなと思いました.
「パラダイス」の辞書的意味は,「天国。非常に楽しい世界。楽園。」です.さらに,作中の「パラダイス座」は教会とも併用の施設だったというのが示唆的でもあります.
架空の田舎の村の広場とそこにある「パラダイス座/教会」という空間は,いかにもヨーロッパらしい村の中心の在り方だなと思いました.
昔,教会がみんなに説教や絵画で見せていた「パラダイス」=「天国」が,映画の登場によって「シネマ・パラダイス」に変容していったのだなという歴史が感じられました.
そして人々が生きるのはパンや金や労働のためではなく,「パラダイス」のためなんだなという素朴な自己実現の欲求を感じました.
ただ資本主義社会の発展みたいなものが,多分,「パラダイス」自体を失わせる勢力として勃興していったんだなという印象を受けました.
構図として資本主義社会の影は,村の外にあります.最初は世界大戦の影だったのが,主人公トトも参加した兵役だったりする.また教育を十分に受けられなかった映写技師のアルフレードが,トトに「自分みたいにならず,村を出て戻ってくるな」というような主張をして彼を突き放していく態度にも感じるものがあります.
アルフレードは大人として,トトの未来が村の中には無いということを直感していたんだろうなと思います.アルフレードはトトと歳の離れた友情関係のようなところもありますが,キャリアにおいても恋愛においても年長者の立場からアドバイスする姿があります.これはトトにとって戦死した父の不在を埋める「父性」を担うキャラクターなのだなと僕は感じました.
ラストシーンでの衝撃は流石だなと感じました.
アルフレードが亡くなって,立派な映画監督となったトトへ,形見としてフィルムを託します.
(これも資本主義的な象徴ですが)飛行機で村を離れローマに戻ったトトは,その形見のフィルムを映写して観る.するとそのフィルムはかつて神父さんがキリスト教的価値観から検閲してカットした「キスシーン」をつなぎ合わせた映像となっていました.
この「キスシーン」の連続を眺めながら,トトは涙する.そういうシーンで締めくくられています.とても感動的でしたし,そうきたか〜って感じでびっくりしました.赤ワインを飲みながらほろ酔いで見ていた僕も目が覚めた感じですw
このシーンをあえて言語化するなら,アルフレードからトトへの「贈与」がこの形見のフィルムだなと感じました.
当時,キリスト教の価値観からカットせざるを得なかった「キスシーン」は,いわば映画作品の中の「ハイライト」です.作品の核みたいなシーンですね.
当時の村人たちもそのシーンをまさに見ようという瞬間こそ,ボルテージが上がるわけです.熱烈な気持ちでそれを見ようとするが,隠されてしまう.
今の僕らにとっては日常的な記号に成り下がってしまったかもしれない「キスシーン」や「ラブシーン」は,当時の村の「パラダイス座」の空間においては,単なるポルノ的な欲望を超えて,非日常な「真実」を見ることに近い対象だったんじゃ無いでしょうか.
でも「真実」は隠されてしまった.
なんですけど,「真実」はアルフレードが保管して繋ぎ合わせてくれていた.切って捨てられ,失われたのではなかたったんだと思いました.
それを象徴的な言い方をすれば,村を捨ててローマに行って資本主義社会の競争の中で,商品としての映画作品を作るプロとなり成功したトトが,おそらく見失っているものだったんじゃないかなと思いました.
トトは今でも独身です.母親が電話をするたびに違う女性が出る.そして母曰くその女性たちの声を聞くと「トトを愛していないと分かる」というのです.このフレーズから,トトが成功の裏に,愛情によって人と深く繋がる心を失っていることが読み取れます.
その孤独な寂しさを生きるトトの元に,アルフレードのフィルムが届くという出来事が最後のシーンになります.フィルムを再生すると,濃密な記憶が再生され目の前に映写されていきます.
村人が皆んな,こぞって映画を愛していたこと.その中心に「キスシーン」が象徴するような人間関係の本質=「愛」を見たがっていたこと.熱中していたこと.少年のトトも,恋に熱中した青年時代のトトも,ずっとその「愛」に憧れていたこと.でも「愛」が挫折して隠されてしまう.そしてそれを忘れ去って強くなろうとして,自分も強くなったと思い込むようになってしまったこと.
その記憶と現在に至る自分への気づきが,怒涛のように押し寄せて来たのがラストシーンのトトの心境かなと思いました.アルフレードによって思いもかけない「贈与」が成就した瞬間です.
これを言ってしまうと野暮なのですが…
パラダイス(天国)とシネマパラダイス(映画)が隠し持っていた「真実」とは,「汝隣人を愛せ」というフレーズなんだと思いました.
このイタリア映画を観て強く感じたのは,最初から最後までイタリアらしいキリスト教の文化と類型が語られているということです.それは皮肉ではなく,ものすごい物語の力だなと感じます.
資本主義社会は全てを飲み込んでしまったかも知れないんだけど,けれども神話的な物語の類型は全くタフに何度でも再生産されるのだなと感じました.
最後に,文学作品と映画の魅力の違いについて感じるところがありました.
今まで言語化した僕の解釈は,ある意味で映画の中の文学的要素だなと思いました.言語化することで浮かび上がる意味とか,象徴性があります.それも確かな魅力になる.言葉にすることでスッキリする快感もあります.哲学的に思索する契機にもなります.
でも映画の最も映画らしい魅力は,「言葉じゃないところ」だと感じました.圧倒的に映像であること,そしてタイムリーな音楽が聴こえることだと.
あえて言葉にする必要はないなと思いました.映像を見れば良いと.村人の表情とか,恋人の美しさとか,トトの表情や動きの機微,目が見えなくなったアルフレードの歩き方,話す声,そういうのを唯々感じれば良いのだと思いました.
映画や音楽や演劇や写真の魅力は,総じて「言葉じゃないところ」だと今回感じましたねえ.(と言いつつ感想ノートを書いてしまう…)