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推しが分からないのですよ

推しが分からない。

いや、「私の推し!何考えてるか分かんないんですよ!」みたいな話ではない。
どんなに好きであろうとも直接知っている人でない限り見えているのはほんの一部だし
直接知っている人(例えば友人や家族や恋人)だって何考えてるのかなんて本当には分からない。
何なら自分のことだってろくすっぽ分からんと思って生きている。

そういうことではなく
「推し」という感覚が分からないのである。

ものすごく好きな有名人はいる。
私はその人のファンである。
「え、ファンを名乗るならその好きな人は「推し」じゃないの?」
と知人にも言われたことがあるのだけれど
どうも「推し」と言うには座りが悪い。

なんでこう座りが悪いのだろうと考えてみた。
多分「ものすごく好き」だけど「推し」ていないのだと思う。

「推し」というのは推薦の推の字を使っているので
多分「人に薦めたい」という気持ちが込められているのだと思う。

私がこの「推し」という言葉を聞くようになったのは
某大人数アイドルが流行った時期だと記憶しているのだけれど
その時グループの中の特定の個人を「推し」ている人たちは
「あの子素敵でしょ!こんなにいいところがあるんだよ!!」
と文字通り「推し」ていた気がする。

その子のことを全く(もしくはほとんど)知らない人に向かって
「推し」のことを伝え、その人とその人の良さを知ってもらう。
「推し」を好きな人が増えれば
「推し」はどんどんファンを獲得してスターになっていくことができる。
だからまだその魅力を知らない人に向かって推す。
という構造があったように思う。

この構造はアイドルだけでなく
例えばバンドだったり作家だったりも同じで
「新しいCD出たから聞かない?」と貸し出したり
「今度サイン会あるんだよ。どう?」と誘ったりして
知人友人の傍に自分の「推し」を置くことで触れる回数を増やし
好きになってもらうきっかけを散りばめることがある。
いわゆる布教活動というやつである。

夫の人にこの話をしてみたら
「推し」って課金してるかどうかという側面もある気がする。
と言う。

CDを自分が聞くだけでなく貸し出し用とか保存用とか買ったり
ファンクラブが存在するなら入ったり
グッズを全部買う!みたいなのも推し活なのでは?と。

なるほど、一理ある。

「推し」に課金することで推しを支持していると表現して
推しの生活を支える。
こう表現すると若干パトロン味が出てくるけれどまぁあながち間違ってないだろう。

と思うけれどこの課金については結構昔からヲタクと呼ばれる人たちがやってきたことだし
パトロンの話になるとラファエロの時代だってメジャーな行為なので
「推し」という比較的新しい言葉で表現されることなのかと問われると
個人的には「うーん・・・?」というところ。

どちらかというとSNSのアカウントで拡散したり
いいねを付けるとかの方がしっくりくる気がする。
えぇ、個人の感想です。

で、私にはその「推す」感覚がほぼないのである。

私が推さずとも素晴らしいので。
という感覚なのである。

「この人、好きだな」と思う人というのは沢山いる。
良い作品を生む人であればその作品をお勧めしたい気持ちというものもある。
が、どうも熱量が弱い。

「今悩んでるんだったらこの本読んだら響くかもよ」
と小説をお勧めしたり
「前に行きたいって言ってたライブチケット取るけど取れたら一緒に行く?」
と誘ったり
「あのラジオの最新回聞いた?」
と笑いあうこともある。

でもこう内包しているエネルギーが「推し」を推している人に比べて
圧倒的に少ないように感じるのだ。
「是が非でも!!!」みたいな圧が自分の中から湧いてこない。

そう言うと
「え、それはその人のことそんなに好きじゃないんじゃない?」
と言われるかもしれないがそんなことはない。

発売日にその人の作品を買うし(何なら予約する)
生でお見かけできるイベントは行ける限り行きたいと行動する。
そのためにお金を稼ごう!休みを調整しよう!と思う。
が、推してない感じがするのだ。
とっても自己完結。

そして書いていて気付いたのだけれど多分使命感も不足している。

例えば推しのアイドル(推しってアイドルに対する言葉が最初だと思っているのでどうも例えがアイドルになる)
の誕生日ライブがあるとする。

そうすると推し活をしている人たちは
「お誕生日に空席なんて作りたくない!!」
と思うようである。

そして自分が行くのは勿論、ほかの人も誘って席を埋めたい!と考えるものらしい。
(なお、私もそういうのに誘われたことがある)

逆に、とってもチケットの取りにくい推しだったりすると
「本気で好きな人だけで祝いたい!
 誰かに連れてこられたファンじゃない人は今日は遠慮してほしい!」
みたいにもなるらしい。

なるほど、その感情は分かるぞ!!
と思う。
自分が好きな人(推し)には素敵な想いをしてほしい!
ということの表れだもの。
席が埋まっていたら嬉しいだろう。
席を埋めるのは「推し」のことを本当に好きな人だけである方が喜ぶだろう。
そう思ってきっと行動しているのだ。

が、私は気持ちは分かるし完全同意できるのだけれど
そのために奔走しようとは思えないのである。

分からないなら分からないでいいじゃん。
なにをひとりでぐじゃぐじゃ言っているのか?
とここまで読んでいたら思うかもしれない。
何でぐじゃぐじゃ言っているのかというとですね。

私は「推し」を体感してみたいのだ。

「推し」を持っている人ってキラキラしているし楽しそうだし
何なら「推しは健康にいい」って言う人だっている。
私も体験してみたい・・・健康にいい「推し」・・・(動機が不純)

くそぅ・・・なんで私は「推せ」ないのか・・・。
布教活動すれば「推し」になるのか・・・?
でも布教せずとも届く人には届くしなぁ・・・。

と思い続けていたんだけどふと思った。
「私、なんで布教活動しようと思わないんだろうか」
と。

先にも述べた通り
私が推さずとも素晴らしいので。
という気持ちがある。
それは間違いない。

が、加えてこんな気持ちがあることも気付いた。

告知や宣伝はそれを売る人たちの仕事で
どの層にどうやってアプローチするのかを決めるのはマーケティングだ。
と私は思っているのだと思う。

私のリツイートや友人へのお勧めは
純度が下がる。
私の言葉や私という人がお勧めしているとフィルターがかかることで
その素晴らしさが下がる。
と思っているのだと。

「私を介すと素晴らしさが減る」
言語化するとなんて悲しい・・・(笑)

こう考えると私に「推し」はできそうにない。
けれど「推し」が突然にできるという噂も聞く。

「そんなにハマると思わなかったのにもう夢中!!」
とキラキラ推しの話をする人に出会ったのは1度や2度じゃない。
期待を棄てないで今後も
「推し・・現れないかなぁ・・・」
とぼんやり生きていきたい所存である。


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