映画感想:シン・ウルトラマン(ネタバレ有り)
とりあえず、シン・ウルトラマンを面白いと思った方はこの記事を読まない方がいいです。ウルトラマンという文化に、大して熱量のない人間が偉そうに書いている駄文に過ぎないので。
上記した通り、僕はウルトラマンという文化は好きだが、そこまで熱量はない。世代的に言うと平成三部作直撃の人間なのだが、どちらかというと思い出深いのは両親から与えられていた昭和ウルトラマンシリーズのビデオ(それも一話ではなく、怪獣との戦いをダイジェストで繋いでいるごった煮のもの)という、ヘンテコな触れ方をしてきた人間である。
与えられて遊んでいたソフビも、知り合いから貰ってきたという昭和シリーズのウルトラマンや怪獣超獣宇宙人ばかりで、平成で育った人間なのにあまり平成三部作のことを覚えていない。それもあってか、マックスやコスモスも噛り付いて見たことはなく、ぼんやりといくつかのエピソードを見た記憶があるくらい。
ゼロの登場時は一連の映画を観たりしていたが、ギンガからなるいわゆるニュージェネレーションも、通して全話見たのはZくらいで、残りは気になるエピソードをちょこちょこつまみ食いしていた程度。
要らない知恵を付けてからは、WOWOWでやっていたウルトラマン、ウルトラセブン一挙放送や、ウルトラQ、ネオ・ウルトラQを見ていたが、全部を全部、覚えているわけでもない。
ようするに、僕はふんわりとウルトラマンという文化に触れてきた人間だ。ずっと近くにあったから、視界には入るが、そこまで熱を持っていない。かといって、嫌いなわけではないし、今でも怪獣のソフビをちょこちょこ買い集めているくらいには好きである。
うだうだと前置きが長くなったので本題に入るが、シン・ウルトラマン、僕はつまんないと感じてしまいました。感じたくは無かったけれど。
まず、僕はシン・ゴジラも最初、受け入れられなかった。劇場を出た際に、良かったのは熱線のシーンくらいだったなあと感じた記憶が残っている。僕が親しんできたゴジラ映画とは、あまりに違う映画だったからだ。
ちなみに今は考えを改めて、受け入れている。311を経験した日本で、経験した日本だからこそ、ああいった形になったのだろうと。それを考えれば、この現代にゴジラをやるとなると、ああするべきだったんだろうと。
で、シン・ウルトラマンが作られると聞き、情報が次々に公開されていく中、僕はずっと不安に駆られていた。
シン・ゴジラは、ゴジラという文化だからこそ、この現代に成り立った映画だ。しかし、ウルトラマンをやるとなると、一体どうなる?
ウルトラマンはヒーロー。ゴジラとは違う。シン・ゴジラの路線でウルトラマンをやったら、それはヒーローものではなくなってしまうのではないか。
そんな不安は日に日に大きくなっていった。予告に映る、シン・ゴジラのルックに似た登場人物たちや画角に、ヒロイックというよりは異質さを第一にしたウルトラマンの姿。
原点へのリスペクトは感じるが、ヒーローのウルトラマンとして成り立つのだろうかと、気が気ではなかった。
また前置きした。それで肝心の本編だが、リスペクトこそ多量に感じられるものの、とにかくそれ以外のノイズが多い。ウルトラマンとしても、映画としても、日本の誇るヒーローとしても。
冒頭、シン・ウルトラQとでもいうべき世界観説明がパパパッと始まり、おおおおっという映像的な引き込みはあったが、そこから始まる一連の話と、動き出していく登場人物たちの魅力の無さに、どんどんゲッソリしていくのだ。
第一に、長澤まさみ演じる浅見弘子の造形と映し方が本当に酷い。自分の尻を叩くダサさはまだしも、他人の尻を叩くな。(これは本当に嫌だった。個人的に、前職にもこういう奴いたなあとか思い出してしまい、最終決戦どころの話ではなくなってしまった)あと、一々映す度に、画角がなんだかセクハラおやじの目線みたいで気持ち悪い。というより、このキャラ自体が、セクハラおやじに創られてセクハラおやじに撮られているようで、怖いまであるのだ。他の映画ならなんてことないが、ウルトラマンなんだぞ!そんな目線は要らん!メフィラス星人を出すから巨大フジ隊員をやりたかったんだろうが、フジ隊員は決してそんな目線で撮られていなかった。パシリムを彷彿とさせたかったのか知らないが、気持ち悪すぎるし、よりにもよってウルトラマンに匂いを嗅がせるな。あの場面、作劇上必要な展開だったのかも疑問だし、セクハラする為の口実みたいに感じられてしまう。
他の禍特対メンバーも、役者陣は凄くいい人ばかりなのに、セリフや造形が見ていて小っ恥ずかしくなってくる。いい演技をしたかと思えば、直後のセリフが鼻について台無しになるのだ。電話で、「何!?○○に○○!?」とか繰り返すのもダサいし、「○○へようこそ~」とか、ボケたつもりのVR会議とかで、すぐに白けてしまう。ついでに言うと、変わった画角から登場人物たちの顔を映すのも、終盤になるとクドくなってくる。全体的に顔のアップが多いのもそれを助長している気がする。
そんな中、斎藤工演じる神永新二とメフィラス山本耕史だけは、本当に素晴らしかった。斎藤工の、ウルトラマンという異質な存在が憑依している人間、という説得力を持たせる演技。ある意味ウルトラマンの顔そのままともいえる、何か神々しい仏のような、それでいて異星の未知なる存在というイメージが汲み取れる、あの無表情。佇まいからして半端ではなかった。それが何より際立つのが、反対に表情も感情表現も言語表現も豊かな山本耕史のメフィラス星人との対峙の場面。
あの一連だけは、唯一面白かった。二人の、立場は似ているようで根本の考え方は対極に位置する異星人という対比にもなっているし、この映画で終始描かれる、異星人との外交というテーマとも、いい対立の構図を作り出していたと思う。メフィラスの登場~コンビナートの戦い~決着。この一連だけが、面白いウルトラマンの映画を観ている!と感じた。この一連と、山本耕史の生き生きとした演技が、この映画の白眉だと思う。仕事人ザラブ星人も、コピー能力しかできない空っぽさを表現したであろうペラペラな造形や津田健次郎の声は良かったが、色々器用にやっていたメフィラスが印象を持って行ってしまった。夜戦で街に被害を出さないように戦うウルトラマン(ガボラ戦もそうだが)を描写したのは良かったけれど。
しかし、登場人物の文句は以上として、許せないのはウルトラマンと怪獣たちの造形である。禍威獣?
これは全体に言えるが、原点やシリーズのリスペクトばかりに気が回って、肝心の絵面というものを、置き去りにしていないだろうか?
確かに、ウルトラマンの造形は成田亨なくしてあり得なかっただろうけど、あのヌルッとした体型である必要は、果たしてあったのだろうか?カラータイマーという、ウルトラマンのアイデンティティともいえるものを、容易く排除して良かったのだろうか?
これは完全に好みの問題なのかもしれないが、僕は2015年に突然公開された謎のPV、ULTRAMAN n/aに出てくるウルトラマンの造形が、実写版ウルトラマンの造形の最適解だと感じているので、今回の成田亨リスペクトのウルトラマンの造形が最後まで受け入れられなかった。あの短時間のフッテージと長時間の画を持たせる映画で比べてしまっては酷かもしれないが、同じCGのウルトラマンとして、雲泥の差だと感じた。質感が一昔前のゲーム映像みたいだし。ちょこっとしかでないが、ビル破壊映像は海外に負けないくらいのクオリティだったのに。
戦いの場面でも、スイングやチョップなど再現をやってくれるのは嬉しいが、一番疑問に感じたのは、何度も繰り返される、飛行時のあの姿勢のままのアクション。いや、それは元の特撮のリスペクトなのは分かるけど、絵面としては間抜けだろ。シュールさ含めて再現を狙ったのか知らないが、リスペクトより先に絵面の問題だろうに。最後のゾーフィの場面にも言えるけど。
あと、星人系は成田亨をリスペクトしている割に、他の怪獣はがっつり使徒風に改造しているのはいいの?ガボラもネロンガも。それがもろなゼットンの解釈に文句はないが、あそこまで使徒風に改造するならピポポポ音はそれっぽくていいけど、ゼットォン……て喋らせなければいいのに。
ここまで書いてきてとても辛くなってきたが、まとめてしまうと、とにかくリスペクトが前に前に出ていて、肝心の物語や絵面がヘンテコになってしまっているのだ。いい所もあるだけに、なんだか悔しくなってくる。
そりゃあ、冒頭のゴメスがシン・ゴジラの着ぐるみ(CG)流用っぽくしているとか、電話系のSEや音楽があの時のあの音とか、ザラブ戦でチョップした時にイタッみたいなリアクションを取るとか、最後宇宙に行く時に変身時の再現をするとか、飛行時の姿勢がずっと硬直したままとか、最後のゾーフィの空間や手の仕草とか、そういうのは特撮ファンのツボを突いてくるだろうよ。だけど、それがアクションのシーンとして、日本を代表する大作ヒーロー映画の一場面として、面白いかどうか、見るに堪えるものかどうかは別の問題でしょうよ。
現行のシリーズをポツポツとしか追っていない僕が言うとおこがましいかもしれないが、現行のシリーズは地上で逃げ惑う人間目線で画角に工夫を凝らしたり、疑似的に長回しを取り入れた対怪獣アクションをしていたり、巨大物が動いて振動し、破壊される都市という画を追及したりして、映像表現に志高く挑戦しているのに、邦画の規模と言えど仮にも大作として作られた映画の映像がこれって、失礼なのではないか。これだったら、現行のシリーズに真摯に取り組んでいる坂本浩一監督に撮ってもらった方が、よっぽど志の高いものが観れたのではないか。
これ、本当にこんな風に感じたくないのだが、かつてウルトラマンというヒーローにリアルタイムで熱狂した少年たちが、成長していい歳の大人になり、原体験である特撮愛も忘れなかったが、ご時世柄をまるで読み取れないセクハラおやじになってしまい、その人たちがニヤニヤしながら作った映画、みたいに思えてしまうのだ。
僕の世代というか個人的な事柄も関係しているのだが、僕の父親がちょうどウルトラマンを少年時にリアルタイムで観ていた世代で(そのせいで僕は昭和シリーズのビデオやソフビばかりを与えられたのだと思う。父親はセブンが一番好きらしいが)、なんだか父親、ひいてはその世代がそんな風になってしまったかと思うと、本当にやりきれない気持ちになる。抱きたくない嫌悪感を抱いてしまって、悲しくなるのだ。
……言いたいことをほとんどそのまま書いてきた。昨日観たばかりだから、これが直後の感想ということになるが、今後この気持ちが変わるのかは分からない。シン・ゴジラみたいに、後々理解が変わるかもしれない。
でも、今はそんな気はしないでいる。シン・ウルトラマンには、僕がとても好きなもの、酷く嫌悪するもの、どちらもあるが、割合としては嫌悪する、嫌悪すべきものの方が多いから。