現代アートなんて「アイドルの引き立て役」でイイ
美術館連絡協議会と読売新聞オンラインによる「美術館女子」が、ネット上の批判を受けて公開中止となった。
「〇〇女子」というネーミングの是非、アート作品ではなくモデルである小栗有以にフォーカスが向いていること、美術館を単なる「映えスポット」として扱っていることなどが主な批判だ。
時代遅れ感が否めない「美術館女子」というネーミングについてはともかく、現代アートがアイドルの引き立て役になることについてはなんの問題もないと自分は考える。
美術手帖の記事“「美術館女子」は何が問題だったのか。「美術界のジェンダー格差を強化」「無知な観客の役割を女性に」”内での識者の発言を引用しつつ、この件について思うことをまとめてみた。
「感動」をやたらありがたがる風習
以上はキュレーター小勝禮子氏の発言だが、近年、業界内外を問わずやたらと多用されている「アートの力」なるフレーズ。これはアートの価値を「実用性という側面」だけで測ろうとするアート観だ。アートの実用性を否定するつもりはないが、人に対して、社会に対してなんの効能を持たなくても、それがアートであるという理由のみで存立できるのが優れたアートだろう。アートがアイドルの背景になったところで、なんら作品の価値が損なわれることはない。
そして、「美術を観る者の感動や思索が、まったく伝わってきません」という発言に如実に表れている、「アート鑑賞には感動や深い思索が必要」という感動至上主義な発想もイマイチ理解しがたい。アートってそんな窮屈なものなのか。
上記ツイートは本件とはまったく関係ないたまたまバズっていたツイートだが、ここにある「読書感想文にことさら感動や教訓を求める態度」は、「アートにことさら感動や実用性を求める態度」とまるっきり被る。義務教育の悪しき風習がアート鑑賞のマナーにおいても連綿と受け継がれているのを感じる。
主体と客体の関係を一方的な「優劣」で語ることの愚
同じくキュレーター小勝禮子氏の発言をもうひとつ引用する。
ここでは「創造の主体」と「撮影の対象」が対比されていて、前者は後者よりも優れているというロジックが見てとれる。この「作品を0から生み出す主体」と、「作品を受容する、消費する客体」のような二項対立を優劣の関係で捉える視点は正しいのか。
「ラルフ・ローレンのシャツを手がけたファクトリーブランド」として有名なアイクベーハー、「ラルフ・ローレンが履き心地を絶賛した」ニューバランスの1300。ここでのラルフ・ローレンは客体に当たるが、主体であるアイクベーハーと1300いずれの価値向上にも大きく寄与している。
近年のヨウジヤマモトは乃木坂46とのコラボをはじめ、数々の女性芸能人を起用したキャンペーンを展開している。2018年の「ヨウジヤマモト×ニューエラ×乃木坂46」のコラボは、単に「人気アイドルがヨウジヤマモトを着てみました」というキャンペーンではない。ざっくり説明すると、ヨウジは1981年のパリコレデビュー以来、「黒の衝撃」、「反骨精神」、「日本を代表するモードブランド」などのイメージで何十年と語られ続けてきたブランドだ。その長い歴史の中で多くのファンを獲得し、今はブランドとして不動の地位を獲得しているが、どこか「熱狂的なファンのみに着ることが許される孤高のブランド」的なイメージをまとってしまったのも事実。
そんな中で「乃木坂46がヨウジヤマモトを着た」という既製事実は、それらの因習(あえて因習という言葉を使う)をあっさりと断ち切ってしまった。「黒の衝撃」という表現を借りるまでもなく、「ああ、乃木坂が着てたブランドね」の一言でヨウジヤマモトをライトに語れるようになった。おそらく今のヨウジがどんな斬新なクリエイティブを打ち出したところで、ムダに高くなってしまった初心者の参入障壁を下げることは容易ではないはず。ここでも、創造の主体であるブランドよりもそれらを身にまとう客体の方が、ブランドイメージに大きな影響を与えている。
今やファッションの世界において、デザイナーは唯一無二の創造主ではないし、モデルは単なる被写体ではない。主体と客体の間に絶対的な優劣は存在せず、そこには流動的な関係があるだけだ。アートも同じこと。