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もののけ姫と縄文ナショナリズム
序論
スタジオジブリによるアニメーション作品『もののけ姫』は、自然と人間の対立や、中央と辺境の軋轢を軸に描かれる物語でありながら、実はその背景に「縄文ナショナリズム」と「皇国史観」という、ある種の対立する歴史観が見え隠れしている。皇国史観は天皇を中心に据えた日本史観であり、明治以降の国家主義的枠組みを支えてきた。一方、縄文ナショナリズムはそれ以前の“原始日本”や“自然との共生”を理想視する、いわば皇国史観の反対方向を向いた歴史・文化ロマンだとされる。本稿では、『もののけ姫』の物語や主人公の設定が、どのようにこの二つの歴史観を対比させているかを論じたい。
皇国史観とは何か
皇国史観とは、明治政府以降に形成された天皇中心の国家主義的歴史観を指す。神武天皇による東征神話(西から東へ進軍して大和の地に都を開く)を、日本史の正統な起点として扱い、そこに連なる形で天皇制の正統性を強調する。この史観では、中央集権的な政治権力と、そこから見た辺境の征服・同化の過程が正史として語られ、江戸時代まで続く藩制の枠組みや、その後の近代化政策をも一連の必然的な流れとして正当化する働きを担った。
縄文ナショナリズムの台頭
一方、縄文ナショナリズムは、戦後の日本において高まった“原初的な日本文化”への憧れや、自然と共生するユートピア像への思いを背景としている。戦前の皇国史観が大日本帝国の崩壊とともに否定された後、人々は別のかたちで愛国心や共同体意識を模索した。その結果、天皇中心の国家観から大きく離れた「縄文的自然観」や「権力の階層性が希薄な社会」を日本の理想として描き出すロマンが生まれた。これは、敗戦後のニヒリズム的状況で、失われた国家意識を取り戻すための新たな物語ともいえる。
『もののけ姫』の構図と神武東征パロディ説
『もののけ姫』では、主人公アシタカが東北蝦夷(エミシ)の王子として“呪い”を負い、西方へと旅立つ筋立てが重要な要素となっている。ここで注目されるのが、神武天皇は九州から東征を行ったのに対し、アシタカは東北から中央へ向かうという、まさに皇国史観の大筋を逆転させるような設定だという点である。
皇国史観においては、中央(大和朝廷)が辺境(蝦夷)を征服し支配する構図が正史とされてきた。それに対して『もののけ姫』は、辺境に属する者が中央へ乗り込み、自然と人間の対立を仲裁しようとする物語を展開する。これは神武東征を反転させる一種のパロディでもあり、皇国史観が想定する秩序を相対化する視点を提供していると見ることができる。
自然との共生という縄文的感性
作品内では、自然の神々や森そのものが巨大な力をもって描かれ、人間の文明はそれを破壊しながらも利用しようと試みる。アシタカがまるで“自然との共生”を体現する存在であるかのように描かれ、さらには古来からの民族や神秘との関わりが強調される点は、まさに縄文ナショナリズム的な発想を色濃く示唆している。中央集権的な権力や武力による開拓・支配を否定し、自然と調和しながら人々が暮らすあり方を「本来の日本の姿」として提示しているとも言えるだろう。
ニヒリズム的愛国心の行き場
皇国史観が敗戦によって大きく否定されてから、いわゆる“愛国心”や“国体”に対する明確な拠り所を失った日本人社会が、新たに作り上げたのが縄文ナショナリズムと捉えられる。実証的な歴史研究とはやや離れたロマンの領域で、原初の日本、自然と融和する共同体といった理想像が膨らみ、その結果として『もののけ姫』のような物語が人気を博す土壌が生まれた。かつては“天皇を頂点とする強力な中央国家”を称揚した史観が支配的だったのに対し、今や“中央の枠外にある自然的・非階層的共同体”を日本らしさの源泉と位置づける考え方が一定の支持を得ている。
結論
『もののけ姫』に描かれるアシタカの旅は、皇国史観における神武天皇の東征神話を反転させ、外部者(蝦夷)が中央へ乗り込む物語として理解される。その根底には、戦前の皇国史観と決別した戦後日本人が抱いた“縄文ナショナリズム”のロマンがある。皇国史観も縄文ナショナリズムも、それぞれに日本を強力に象徴化・神話化するという点で共通しつつも、目指す歴史像や価値観は大きく異なっている。すなわち、中央集権を正統とする皇国史観と、自然との共生に理想を見いだす縄文ナショナリズムの対比が、『もののけ姫』という物語の中に明確に投影されているのである。