見出し画像

首都高レース:成層圏への飛翔



首都高レース:成層圏への飛翔

 首都高速が放つネオンの海を、夜風を切り裂きながら駆け抜ける違法レースの軍団。その中でも群を抜く速度と存在感を誇る車がある。そのドライバーの名はハヤト。
 数年前、ハヤトの父――同じ首都高の世界で名を馳せた伝説的レーサーは、レース中の事故で帰らぬ人となった。それでもなお、ハヤトは走り続ける。そこにあるのは、消し去りたくても消えない、父の“影”と自分への問いかけ。

「こんな走り方をしていて、本当に父さんに追いつけるのか……」

 車内に響くエンジンの鼓動にかき消されそうなほどの葛藤を抱えながら、ハヤトはアクセルを踏み込む。

 その夜、舞台はレインボーブリッジ。東京湾の海風を浴び、七色の照明が浮かび上がる巨大な橋梁を、高速で攻略しようとするレース仲間たちがいる。ハヤトもその一人として先頭を走っていた。
 父が生きていた頃、ここは「死を招くカーブ」として恐れられていた。首都高にはいくつも魔のカーブが存在するが、レインボーブリッジ付近のコーナーは、特に強烈な横風とわずかな路面の傾斜が相まって危険度が高い。

 しかしハヤトはなおも挑む。父の背中を追うがごとく、高速で突っ込む先に待っていたのは、予想を超える突風だった。ステアリングをわずかに切りすぎた――その一瞬の過ちが、最悪の事態を引き起こす。
 大きなタイヤのスリップ音とともに、ハヤトの車はフェンスに激しく衝突。スパークを散らしたまま、逆さまに弧を描いてレインボーブリッジの外へ飛び出した。

「終わった……」

 車は宙を舞う。重力に引きずられながら海面へ落下する、そのはずだった。死の覚悟とともに、父の顔が脳裏をかすめる。

 だが次の瞬間、愛車はあり得ない挙動を見せる。まるでロケットブースターでも仕込まれていたかのように、車体の下から強烈な噴射音――ロケットの打ち上げを思わせるような轟音が響き渡った。
 ドン、と巨大な衝撃が背中を押し、車は垂直に上昇しはじめる。

 ハンドルを強く握りしめたまま、ハヤトはシートに押し付けられる。見慣れた東京の夜景が、数秒前とは逆向きに遠ざかっていく。

「な、なんだこれ……!?」

 外の風景は一瞬にして冷たく暗い空へ移り変わっていく。スピードメーターは限界を振り切っている。轟音はさらに増し、アポロ13の打ち上げ時の映像を想起させるような振動が車内を満たす。
 窓ガラスの外に広がる雲海をも突き抜け、車はさらに上へ、さらに上へと昇る。

 激しい揺れの中、コクピットに備え付けられたラジオが、わずかにノイズを帯びながら作動しているのをハヤトは感じた。低い唸り声のように雑音が混じる中、ふと父の声が混じったような気がした――

「おまえなら、いつか俺を越えられる……」

 そのかすれた幻聴に驚きながらも、ハヤトは必死に意識を保ち続ける。しかしアクセルを踏もうにも、もはや何も操作ができない。車自身が、あるいは何か得体の知れない“力”が、ハヤトと車を導いているようだった。

 やがて振動は次第におさまり始め、強烈だったエンジン音や轟音さえも遠ざかっていく。車体の周囲が静寂に包まれるころ、窓の外には無数の星々がきらめいていた。
 地上の灯りははるか下方に遠ざかり、闇の中に微かな都市の光が浮かんでいる。

 フロントガラス越しに見上げれば、壮大な宇宙空間の入り口が口を開けていた。月の光が青みを帯びた神秘的なグラデーションを描き、車のシルエットを浮かび上がらせる。

「まさか……成層圏まで……」

 言葉にならない驚きと恐れ、そしてわけもわからない高揚感がハヤトの胸を満たす。気づけば、息をするのも忘れていた。車がどうやって酸素を保っているのか、どうやってこの高さまで飛んできたのか――理屈など全く分からない。
 だが、ここにいる。それだけが、確かな事実だった。

 やがてゆっくりと車体が旋回を始め、フロントガラス越しに地球の姿が視界に収まる。青い丸みを帯びた地平が、薄い大気の層をまとって輝いている。
 それはハヤトが今まで想像してきたどんな景色とも違った。巨大でありながら優しく、神秘に満ちた光を放っている。その青さは、レースで見てきた東京の闇と対照的で、ハヤトの荒んだ心を吸い込むように包み込む。

「本当に……青いんだ……」

 かつて父が口にしていた言葉が、ハヤトの脳裏をよぎる。いや、父自身が宇宙に行ったわけではない。だけど、レースの興奮に取り憑かれた父はしばしばこう言っていた。

「いつか、お前と一緒にこの地球を丸ごと見てみたい。きっと、地球は青いんだぜ」

 父の死後、それは実現不可能な夢として心の奥にしまい込んでいた。けれど今、あり得ない形でその光景を目にしている。まるでガガーリンの言葉を追体験するかのようだ。

「地球は……青かった……」

 雑音の混じるラジオが、再び何かを囁いている。車内の計器は狂ったように振れているが、ハヤトは目を閉じ、父の面影を思い浮かべた。
 そう、父さんが夢見たものは、究極の速さだけじゃない。遥か高みから、自分たちが暮らす星を見つめたいという想い、そして人の命の尊さを知ること――そこに父の“本当の夢”があったのかもしれない。

 成層圏の薄い空気を突き抜けて、車はなおも高く昇る。背後で再び、ゴォォォッというロケットの噴射音のようなものが聞こえるが、ハヤトには恐怖がなかった。それどころか、限りなく澄んだ静寂の中で、自分の鼓動だけがはっきりと耳に届く。
 あの夜、レインボーブリッジで死を覚悟したはずなのに、今は信じられないほど安らかな心地がする。

 ゆっくりと車の姿勢が安定し、ふわりと浮き上がるような感覚に包まれていく。そのままハヤトは、重力の鎖から解放されたかのように、ハンドルからそっと手を離す。
 シートベルトに拘束された身体はまだ車内にあるものの、精神はもう少しで父がいる場所まで行けそうな錯覚さえ感じられる。

「父さん……あなたは、こんな景色を見たかったんだね……」

 過去の記憶がこぼれ出す。最後に交わした会話は、口論だった。父が危険だからと走りを止めようとするのを、ハヤトは強く拒んだ。
 しかし今、初めて分かる。父が本当に伝えたかったのは、「速さの先」にあるもの。「いのち」の輝きを守り抜くこと。

 青い地球が目の前に広がり、その美しさに胸を打たれていると、突然、車体全体が大きく揺れた。まるでロケットの逆噴射でも始まったかのような衝撃が背中を押し、車は今度はゆっくりと下降に転じた。
 再びあの低い振動音が響き、車内は激しい揺れに見舞われる。濃密な大気圏への再突入を思わせるかのように、車窓にオレンジ色の光がチラつく。

 ハヤトは咄嗟にハンドルを掴むが、コントロールは効かない。悲鳴を上げるような風切り音と、何かが燃える匂いが車内まで届く。
 アポロ13で見たような、映像の中の再突入シーンが脳裏を過るが、これが現実だということに身震いする。

 だが不思議と、怖くなかった。父の手がいつの間にか自分の肩に触れている気がする。

「……待ってるぞ、地上で……」

 耳鳴りと共にかき消えたその声を最後に、意識がふっと闇へ吸い込まれる――。

エピローグ

 目を覚ましたとき、ハヤトはレインボーブリッジの脇、ガードレールのそばに愛車を停めていた。フロントガラスはひび割れ、ボンネットには焦げた跡のようなものが残っている。
 東京の夜は、相変わらずネオンの光に満ちていた。どこかでサイレンが鳴り響く。事故を目撃した誰かが通報したのだろうか。

 あの成層圏へ飛び上がった体験は、いったい何だったのか。夢か幻か、あるいは奇跡か――それすら定かではない。
 しかし、ハヤトの胸には確かに、父が遺したメッセージが宿っていた。

「地球は……青かった」

 アスファルトの上、ひんやりとした空気を吸い込みながら、ハヤトはそっと呟く。そこには、あの暗い闇に追われた恐怖も迷いもない。
 いつの日か、本当に父を越える走りができる。そのときには、この星を守り、この星で走る人々の命を大切にしたい。――そんな気持ちが、息づいていた。

 見上げれば、夜空に輝く月。その青白い光に照らされながら、ハヤトはハンドルを握り直す。夢と現実の境目に立ちながら、アクセルを静かに踏み込んだ。
 次に走るときは、父が見たかった“本当の速さ”を追い求めるために。

いいなと思ったら応援しよう!