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義務の果て — 暴かれた真実 老人介護が学生に義務化された世界

第一章 新政策の光と影

 朝のチャイムが鳴り響き、学校の廊下を生徒たちが行き交う中、三浦彩花(みうら・あやか)は友人たちの輪から少し離れた場所で、ホームルームの始業を静かに待っていた。
 艶やかな黒髪は肩のあたりで軽くカールし、大きな瞳と柔らかな面立ちは同年代の少女たちのなかでも際立っている。背丈は平均的だが姿勢がよく、制服姿もどこか清楚で華やかな印象を与える。その美貌とやわらかな人柄から、一部の男子や他学年の生徒たちに密かに憧れられる存在だ。本人はそれをあまり自覚していないようで、ちょっとした恥ずかしそうな笑みを浮かべるときなど、周囲の視線をさらに引きつけてしまう。

 今年から本格導入された「老人介護ボランティア義務化」制度。中学・高校の全生徒を対象に、週に数時間は高齢者の介護や生活支援に参加しなければならないという国の施策で、まるで授業の単位のように履修条件が設定されている。前から噂はあったものの、実施が決まった途端に各メディアは大きく取り上げ、SNSでは「若者への押しつけ」「財政不足の責任転嫁」など批判も噴出していた。

 朝のホームルームでは担任の佐野先生がいつにも増して真剣な表情で話をしている。
「皆さん、介護ボランティアといっても決して遊びではありません。人の命や生活に関わる大事なことです。きちんと責任を持って取り組むようにしてください」
 教室内には戸惑いの空気が漂っていたが、彩花はどこか前向きな気持ちを抱いていた。窓から差し込む春の朝日を受け、彼女の瞳が少しだけきらりと輝く。

 少し前に彩花は、友人の千夏(ちなつ)にこう打ち明けたことがある。
「うちのおばあちゃん、認知症が進んで病院に入院してるの。だから、少しでも勉強になればいいなって思うんだ」
 さらりと口にするものの、そのやわらかな声と表情には、「人のためになりたい」という純粋な意志が滲んでいる。クラスメイトから見れば、それは彼女の美しい外見以上に“彩花らしい”魅力の源といえた。

 しかし、彩花の母は当初、「子どもにそこまでの責任を負わせるのはどうなの?」と難色を示していた。
「本来なら、きちんと資格を持った大人たちがやるべき仕事でしょ。政府や自治体が予算を削らないで、ちゃんとした制度を整えてくれればいいのにね……」
 それでも世間が“高齢者と若者の交流”を称賛するムードの中では、反対意見は押し流されがちだった。結局、彩花の両親も「周囲がやるなら仕方ない」とあきらめに似た姿勢になったのだ。

 放課後、彩花が生徒玄関の下駄箱で靴を履き替えながら、担任から受け取った「ボランティア訪問先リスト」に視線を落とす。
 そこには「佐伯政弘(さえき・まさひろ) 78歳 要支援2 独居認知症」と書かれた老人宅の住所が大きく印字されている。
「認知症……」
 低くつぶやいた声に、千夏が隣で反応した。
「ねえ、無理しないように気をつけなよ。あやかは優しすぎるから……」
「うん。でも、きっと大丈夫だよ。困ってる人がいるなら、私も少しは手助けしたいし」
 彩花がそう答えると、千夏はなぜか羨ましそうに目を細めた。そして「ほんと、あんたは天使だよ」と冗談めかして言う。彩花が照れて軽く笑うと、その横顔の美しさに、通り過ぎた男子生徒が思わず立ち止まりかけるのが見えた。

 夜、彩花の家では夕食の席で父が「明日からの訪問、本当に大丈夫か?」と心配そうに尋ねる。
「大丈夫だってば。先生も気をつけるようには言ってたし、何かあればすぐ連絡できるようにしてくれるって」
 彩花は笑みを見せるが、しかしどこか肩に力が入ったような様子もある。母は「迷惑をかけるわけじゃないといいんだけど……」と微妙な表情だ。

 翌朝、通学路で千夏が彩花の肩を軽く叩いてきた。
「見て、ニュース。SNSでボランティア批判がさらに炎上してる」
「うーん……そりゃあ不満な人も多いよね。でも、高齢者を全員切り捨てるわけにもいかないし……」
 スマートフォンの画面には「#若者を労働力扱い」「#政府の怠慢」などの言葉が並ぶ。それでも彩花の表情は曇らない。きっぱりとした口調で、しかし控えめな笑みを浮かべながら、
「私にできることをやるだけだよ。せっかくおばあちゃんから学んだことを活かせるかもしれないしね」
と言う。その姿は、まだあどけなさの残る中学生の少女でありながら、どこか大人びた落ち着きを感じさせる。少し風が吹き、黒髪がふわりと揺れ、彼女の横顔を淡い朝日に照らし出した。

 金曜日、放課後のホームルーム。担任の佐野先生が最後の注意事項を読み上げる。
「来週から実際に高齢者宅を訪問するわけですが、危険を感じたら決して無理をしないでください。担当ケアマネージャーや学校へすぐに連絡を。特に認知症の重度な方は、混乱されるときがありますからね」
 教室の空気がどこか重い。それでも彩花は机の上に両手を重ね、まっすぐ前を見つめている。その瞳には強い決意とほんのわずかな不安が同居していた。

 下校時刻が近づき、校舎を出た彩花が青い空を見上げると、雲間から柔らかな夕陽が顔を出している。「始まるんだな……」と胸の中で思いながら、彼女はゆっくりと自転車にまたがった。制服のスカートが風になびき、ふわりと広がる。その姿は通り過ぎる上級生の視線をひそかに集めたが、彩花は気づいた様子もなくペダルを踏み出す。

 そのときの彼女には、「美しい少女」「誰もが憧れる同級生」という評価よりも、「困っている人を支えてあげたい」という純粋な思いが心を占めていた。老人介護ボランティアが、これほど大きな運命の歯車になるとは知る由もないまま、彩花はほんの少しの期待と不安を胸に、家へと帰っていくのだった。


第二章 ボランティア初日と違和感

 翌週の月曜日。朝から続いていた細かな雨がようやく上がったころ、三浦彩花(みうら・あやか)は学校から配られた「ボランティア記録ノート」を抱えて自転車を押していた。制服の上に薄手のパーカーを羽織り、足元には濡れないように防水スニーカーを履いている。
 目的地は、彼女が担当することになった老人・佐伯政弘(さえき・まさひろ)の自宅。ネット地図で確認したところ、自宅から10分ほどの住宅街のはずだ。
「じゃあ、行ってきます」
 母の見送りを背に、自宅前を出発してまもなく、彩花の心臓は少し早いリズムを刻み始めた。日にちが近づくにつれ、「本当に認知症の方を一人で訪問して大丈夫なのか」という不安が募ってきたからだ。それでも、祖母の入院先で見かけた看護師や介護士の姿が脳裏をよぎるたびに、「私も少しは役に立てるかもしれない」と自分を奮い立たせていた。

 住宅街の路地を曲がるたびに、道行く人々の視線が彩花をとらえては通り過ぎる。その理由のひとつは、彼女の人目を引く容姿と雰囲気だろう。雨上がりの柔らかな光を受け、カールのかかった黒髪と制服がどこか際立って見える。彼女はそんな周囲の視線にも気づかないふりで、黙々と自転車を進めた。

 やがて、地図に示された住所と同じ表札を見つける。白い塀に囲まれた古い木造家屋。玄関先の植木は伸び放題で、ポストに新聞が何部も溜まっているのが見えた。
「ここ……だよね」
 小さくつぶやいた声は、自分の耳にも少し震えて聞こえる。彩花は自転車を止めると、緑が色褪せた古い門扉の前に立った。呼び鈴は見当たらない。遠慮がちに声を掛けようか迷った末、意を決して門を少し開けて中に入る。

 玄関までは短いアプローチがあるが、雑草がところどころ生い茂り、やや荒れた印象を受ける。室内には人の気配がするのかどうか、外からは判断できない。
「失礼します、三浦です。今日からボランティアでお伺いしました」
 控えめな声で呼びかけながら、彩花は玄関ドアをノックした。反応がないため、もう一度ノックしようとしたとき、わずかにドアが内側に開く。そこから覗いたのは、やせ細った初老の男性の顔だった。
「……どなた?」
 小さくうわずった声。乱れた白髪に覇気のない瞳。だが、鼻梁は通り、若い頃の面影を残す端正な顔立ちが見て取れる。

「えっと、朝比奈中学校の三浦彩花といいます。今日から介護ボランティアでお手伝いに来ました」
 丁寧に頭を下げると、男性はしばらく不思議そうに彩花を見つめたのち、そろそろとドアを開けてくれた。
「ああ……ああ、そうか、なんか聞いたような……。ごめんね、俺、ちょっと頭がぼんやりしててさ」
 しわが深く刻まれた額に手をやりながら、男性は戸惑った様子を見せる。
「佐伯さん……ですよね?」
「うん。佐伯……です。政弘……だったよな。ごめん、名前を忘れかけてるんだ、最近は」
 彩花はぎこちなく笑ってみせる。「いえ、私がしっかり覚えていれば大丈夫です」

 玄関を上がると、古い畳敷きの居間が広がる。家具は少なく、生活感が薄いわりに、部屋の隅には未整理の段ボールや古い雑誌が積まれていた。空気は少し重く、長らく換気されていないような匂いが漂っている。
「そこ、好きに座って。俺は……コーヒーでも淹れて……」
 佐伯が台所へ向かおうとしたので、彩花は慌てて立ち上がる。
「あ、私がやりますよ。お湯を沸かすだけですから、座っていてください」
「そうかい? 悪いね……」
 そう言いつつも、佐伯はどこか落ち着かない様子で部屋の中をうろうろし始める。彩花は何とか台所に回り込んで急須やポットを探すが、食器の場所や調理器具がバラバラで、探すだけでも一苦労だった。

「昔は、ちゃんと片付けてたんだけどね……最近は何もかも面倒でね」
 佐伯がぽつりと呟くように言った。その声音には無力感と、自分でもどうしようもできない苛立ちがにじんでいる。彩花はなるべく表情を明るく保とうと心がけながら、
「一緒に少しずつ片付けていきましょう。私も来るたびにお手伝いしますね」
と返す。その笑顔は、若者特有の純粋さと、彼女自身がもつ優雅な雰囲気をまとっていた。

 しばらくして、彩花が淹れたお茶を二人で飲んだ。しかし、それも落ち着いて味わうという感じではなかった。佐伯は急に立ち上がっては何かを探し、また座るを繰り返す。
「大丈夫ですか? 何か必要なものがあるなら、一緒に探しますけど……」
 彩花がそう尋ねると、佐伯は一瞬迷うような顔をした。口を開こうとした矢先、「いや、なんでもない」と言葉をのみ込む。そして居心地悪そうに視線をさまよわせる。
 落ち着きのない所作に加え、どこかしら焦燥感のようなものが伝わってきて、彩花も少し不安になる。

 そのとき、床の上に置いてあった新聞の束が視界に入った。何日分もの朝刊やチラシが無造作に折り重なっている。
「あとで片付けさせてもらっていいですか?」
「え、ああ……まあ……」
 佐伯が曖昧に首を縦に振る。彩花は安心したように小さく笑みをこぼし、新聞の束を手に取った。
 すると、一番上の紙面の端にマーカーで線が引かれた記事が目に入る。記事には“政府、介護義務化を正式決定”という見出しがあり、その下には「認知症患者数、推計800万人超」という文字が大きく印刷されていた。

「読みかけだったかもしれないから、無理には捨てないほうが……」
 何気なく声をかけると、佐伯はぎょっとしたように顔を上げる。
「捨てないで……残しておいてくれ……」
「はい、わかりました。じゃあ、別の場所にまとめておきますね」
 妙な緊迫感を感じた彩花は、余計な詮索はしないでおこうと心に決め、手早く新聞を積み直した。

 ふと気づくと、佐伯がこちらをじっと見つめていた。その視線はどこか不安定で、認知症特有の焦点の定まらなさがある。だが、それだけではない。どこか遠い過去を思い出すような……あるいは目の前の少女に対する戸惑いのような感情が混ざっているように見えた。
「なにか、私……変ですか?」
 彩花が恥ずかしそうに問いかけると、佐伯は首を振ってから小さく笑みをつくる。
「いや、きみ……どこかで会った気がしてね……いや、気のせいかな」
「そう、ですか? 私は初めてお会いするはずなんですけど……」
 佐伯は何かを言いかけて、またやめる。もしかすると、記憶があいまいになっているだけかもしれない。彩花は不必要に刺激しないよう、そっと話題を変えた。

 そうこうしているうちに、あっという間に訪問予定の時間が過ぎる。彩花はその日は、ゴミの分別や簡単な掃除をして終わった。佐伯は何度も落ち着きなく立ち上がったり、探し物をしたりしたが、決定的に荒れた様子にはならなかった。
「それじゃあ、今日はこの辺で。また明日、学校が終わってから来ますね」
 そう告げると、佐伯は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「ああ……そうか。悪いね、なんにももてなせなくて……」
「いえ、また明日、お茶を飲みましょう」
 彩花が微笑むと、佐伯も口の端をわずかにほころばせる。わざわざ玄関先まで見送ってくれようとするが、足元がおぼつかないので彩花が支えた。

 外に出ると、空にはいつの間にか灰色の雲が戻っていて、今にも小雨が降り出しそうだった。
「それでは、お邪魔しました。失礼します」
 門扉を閉め、彩花が自転車にまたがる。家の中から佐伯がこちらを覗いているのが窓越しに見えた。その姿は、独りぼっちの子どもが誰かを引き止めたいようにも映る。彩花は胸の奥がほんのり痛むのを感じながら、その場を離れた。

 帰り道、彩花はどうにも言えないモヤモヤとした違和感を抱えていた。
 ――何だろう、あの空気。特に危険な様子はなかったけど、胸の奥がざわつくような……。
 認知症だからこそ落ち着かない部分もあるのだろうけれど、佐伯政弘という人物が抱えている何か重くて暗いもの。それをほんの少し感じ取った気がした。
 だが、それでも初日は何事もなく終わったと言える。じきに彼の生活スタイルに慣れ、支え方を学んでいけば、いずれうまく回るはず。そう自分に言い聞かせて、彩花はペダルを踏み込む。

 雨粒がぽつり、ぽつりと頬に当たる。彼女は慌ててペダルをさらに速めた。制服のリボンが揺れ、黒髪がしっとりと湿り始める。その姿を見かけた近所の人々は、雨の中を急ぎ帰る「美しい少女」の残像に、思わず目を留めた。
 彩花は気づかない。これが、ほんの小さな始まりに過ぎず、やがて大きな波紋へとつながっていくことを。自転車のタイヤが水たまりを跳ね上げるたびに、胸の奥の違和感がふくらんでいくような気がした。



第三章 揺れる心と小さな軋み

 翌日、朝からどんよりとした曇り空が広がり、雨が降りそうで降らないまま気温だけがじわりと上がっていた。湿度のせいか髪が少し広がり気味になりながらも、三浦彩花(みうら・あやか)は自転車を押して佐伯政弘(さえき・まさひろ)の家へと向かっていた。
 初めての訪問から一夜明けたものの、胸の奥にわだかまった違和感は消えない。何かが起こるわけではないけれど、ひたひたと忍び寄るような重苦しさがある。それでも――と自分に言い聞かせる。認知症の高齢者とのコミュニケーションは簡単ではないし、むしろこうした違和感を少しずつ慣らしていくのがボランティアの役目なのだと。

 前日と同じように古い門扉を開け、玄関へと続くアプローチを進む。伸び放題の雑草の向こうに見える家屋の古びた外壁が、今日はやけに色褪せて見えた。インターホンがないため、玄関ドアをノックしてみるが反応がない。
「佐伯さん、三浦です。お邪魔します」
 恐る恐る声をかけながらドアを開けると、鍵はかかっていなかった。昨日、帰るときもそうだった。防犯意識はほとんどないらしい。
 だが、今日は室内に人の気配がまるで感じられない。
「佐伯さん?」
 廊下を抜けて居間に足を踏み入れる。畳敷きの空間には、昨日のまま散乱した雑紙や洗われていない茶碗が残っていた。佐伯の姿はない。台所を覗いても、どこにも見当たらない。

 胸がざわつき始める。外出したのだろうか。それにしても、何も言わずにフラッと出かけるような人なのか? 昨日の様子では、あまり遠出できそうにも見えなかったが……。
 ふと、床にうっすらと靴の跡が続いていることに気づく。居間から廊下を経て、縁側へ向かうかのように足跡がある。縁側のガラス戸を開けると、湿った空気が一気に流れ込んできた。庭には雑草と雑木が混然と生え、一見したところ人の立ち入る隙もなさそうだ。

「佐伯さん?」
 彩花は庭に降りようと試みたが、土がぬかるんでいるのか足元が少し沈む。靴を汚してまで奥へ行く勇気は出ず、「もしかしたら買い物にでも出ているのかな」と思い直して縁側を閉じた。
 居間に戻り、机の上に置かれた固定電話の子機を見つめる。とりあえず担当ケアマネージャーの連絡先を確認しておこうか。学校からも「何かあればケアマネに連絡を」と言われている。
 しかし、まだ何も“事故”が起きたわけではないのだ。ただの買い物外出なら大騒ぎするほどでもない。彩花は少し迷った末、ひとまず部屋の片付けを始めることにした。

 わずかに湿気を含んだ空気の中、新聞とチラシの山をまとめ、茶碗を台所で軽く洗う。水の音がやけに響き、寂しさが一層際立つ。昨日も感じたように、ここには“人と暮らしの温もり”がほとんど感じられない。
 ――この家、ずっと独りで過ごしてきたのかな。施設に入るのは嫌だったんだろうか……。
 そう考えながら彩花はぼんやりと居間を見渡す。すると、壁際に立てかけられた古いタンスの扉が少しだけ開いているのに気がついた。中には書類や写真らしきものが乱雑に詰まっているのが見える。

「……見ちゃいけないよね」
 呟きながらも、風に煽られて扉ががたつくたびに、中身の端がちらりと覗く。よく見ると、封筒に役所の名前が印字されているようだった。厚生労働省、という文字が薄く見える。それを見た途端、彩花はなぜか背筋がうすら寒くなった。
 厚労省――まさに、この介護ボランティア義務化を推進した省庁だ。書類を見ただけで何かが分かるわけではないが、なぜこんなところに厚労省の封筒が挟まっているのだろう。

 と、そのとき、玄関のほうで物音がした。急いで居間から顔を出すと、佐伯がゆっくりとドアを開けて中に入ってくる。無造作に鍵もかけず出ていったのだろうか、傘も持たずに出かけていたのか、肩口や髪の先が少し濡れている。
「あ……お帰りなさい」
 彩花が声をかけると、佐伯は「……ああ」とだけ言って居間のほうへ歩み寄ってきた。その足取りは昨日よりずいぶん力がないように見える。
「ごめんね、勝手に出てて。なんか、気が散って落ち着かないから外を歩いてた。すぐ疲れちゃうんだけどね」

 そして机の脇に腰を下ろすと、彩花がまとめておいた新聞の束に目を留めた。
「あ……新聞、まとめて置いておきました。捨てるのか分からなかったので」
「うん、ありがとう。でも……もう少し置いておきたいんだ」
 そう言って無造作に新聞を抱え上げる。すると、さっき彩花が見かけたタンスの扉に視線を移し、何かを思い出すように小さくうめいた。
「たしか……しまっておくはずだったのに……どこいったかな……」

「お探し物ですか?」
 恐る恐る問いかける彩花に、佐伯は「ああ……いや」と首を振る。ただ、その動作に微かな苛立ちが混ざっているようだ。
「いろいろ……必要なものがあるはずで……でも、なくしてしまったんだ……」
 佐伯は自分の頭をかきむしるようにして、呟く。昨日も何かを探している様子を繰り返していたっけ。おそらく“必要なもの”の存在は覚えているが、具体的には思い出せないのかもしれない。

 彩花は少し迷ったが、「私も探すのをお手伝いしていいですか?」と声をかける。何かを手伝うことがボランティアの本分だという思いがあるからだ。
「探すのを一緒にやれば、少しは早いかもしれないですよ」
 佐伯はしばし無言だったが、やがて溜め息のように「……頼むよ」と応じる。

 しかし実際に探し始めても、何をどうすればいいのかさっぱり分からない。佐伯は「いや、ここじゃない」「違う……」と言いながらタンスを開けたり締めたりするが、結局何が欲しいのかはっきりしない。
 途中、古いアルバムらしきものが出てきたが、中には若い頃のスーツ姿の佐伯や、見知らぬ女性、子どもが写っている写真があった。彩花は「家族の思い出なのかな?」と興味をそそられたが、見つめていると佐伯の表情がみるみる曇るので、すぐ閉じて元に戻した。

 やがて、探し物が見つからないまま時間だけが過ぎる。佐伯の顔には苛立ちが増し、彩花に対しても無意識に冷たい声が混ざり始めていた。
「もういい。きみが見つけられないなら意味がない」
 投げやりな口調に、彩花は少し傷つく。それでも笑顔を絶やさないよう努めるが、軽い頭痛のような疲労感が押し寄せてくる。

「……すみません。また明日、時間があるときに探しましょう。私も片付けついでに探してみますから」
 そう提案すると、佐伯は何とか納得したのか「うん……」とうなずいた。

 帰り支度を整えて靴を履こうとするとき、彩花は振り返って佐伯を見た。そこには、やるせない表情で天井を見つめる老いた男の姿がある。言葉をかけようとしても何が正解か分からず、結局黙ったまま玄関のドアを開けた。
「お疲れさまでした。また明日……来ますね」
 小さく別れのあいさつをしたが、佐伯は振り向きもしなかった。

 外に出ると、湿気を含んだ空気がどっと胸に入り、彩花は大きく深呼吸する。肩の力が抜け、思わず背中が丸くなった。今日の訪問は正直言って、気疲れした。ほんの少し言葉を交わすだけで、相手の不満や苛立ちが自分に突き刺さる感じがする。
「……はあ。こんなんで続くのかな」
 けれど、彩花は自分を叱咤するように小さくつぶやいた。「これはボランティアとはいえ大事な役目なんだから、私がめげちゃだめ」と。義務とはいえ、やると決めた以上は途中で投げ出したくない。

 自転車にまたがり、ペダルを踏む。いつもなら爽快感を伴う帰り道だが、今日は妙に重い。街は相変わらずどんよりとした天気で、人々の姿もまばらだ。ふとスマートフォンをチェックすると、クラスのグループチャットには「うちの担当のおばあちゃん、普通にいい人でホッとした」というメッセージや、「先輩ボランティアから引き継ぎ受けたけど大変すぎ……」といった声が飛び交っている。

 彩花は“今日の訪問記録”をどう書こうか迷いながら、胸に重くのしかかる違和感を抱き続けた。佐伯という人物には何かがある。見えない問題を隠し持っているように思える。でも、具体的には分からない。
 ――ただ、私はできる限りのことをするしかないよね。
 そう自分に言い聞かせ、彩花はハンドルをぎゅっと握り直した。道端の電柱に貼られた「高齢者介護に力を!」というポスターが、雨風で色褪せているのを横目に見ながら、彼女はペダルを踏んで家へと急ぐ。
 大きな事件の予兆など、まだ思いもよらないまま――。


第四章 見えない壁と濃い影

 翌日、灰色の空にはわずかな陽射しすらなく、まるで街全体を薄暗いベールが覆っているかのようだった。午前中の授業を終えた三浦彩花(みうら・あやか)は、友人の千夏(ちなつ)と一緒に昼食をとりながら、昨日の佐伯政弘(さえき・まさひろ)の様子をぼんやりと思い返していた。

「昨日はね、何を探してるのか分からないのにイライラしてる感じで……ちょっと言い方がきつかったんだ。私もどう接していいか分からなくて……」
 教室の片隅、窓際の机をくっつけて弁当を広げながら、彩花は声を落として話す。千夏は卵焼きを口に運びつつ、難しい顔をした。
「そっか……。私の担当のおじいちゃんは歩行が少し不自由なだけで話はほとんど普通だから、そこまで大変じゃないよ。あやかが大変そうで心配だな」
「ううん、ありがとう。でも、慣れれば大丈夫かも。まだ始まったばかりだし……」
 そう言うものの、口元はほとんど笑っていない。言葉以上の重さが、彩花の瞳にちらついていた。

 午後になると、学校では“ボランティア活動の近況報告”として各クラスから数名ずつ選ばれ、様子を発表する機会があった。彩花のクラス代表は彩花自身に打診があったが、まだ具体的に語れるほどの成果もなく、彼女は遠慮して辞退した。
 発表に立った別のクラスメイトは「お年寄りがとても優しくて、昔話をたくさん聞けた」と楽しそうに話している。それを聞きながら、彩花は小さく胸をかきむしられる思いを抱く。彼女も本当は、微笑ましい会話や温かい交流を思い描いていたのだが、現実はそう単純ではないらしい。

 放課後、いつものように自転車に乗って佐伯宅を訪れる。昨日と同じく古びた門扉を開けると、足元の雑草にほんの少し水滴がついている。さほど雨は降っていないはずだが、空気が冷たく肌を刺すようだ。
「佐伯さん、こんにちは。今日もお邪魔しますね」
 ノックをしながら声をかけると、玄関の奥からはかすかな物音がした。今度はドアが少し開き、佐伯が昨日とは打って変わった落ち着いた顔で立っている。
「いらっしゃい。……悪かったね、昨日は」
 ぼそりとそう言われ、彩花は少し意外に思いながらも「あ、いえ」と頭を下げた。昨日の険が取れたように見えるのは安心だ。

 居間に入り、彩花は手際よく台所へ向かう。洗われていない食器や散らばっている新聞を片付けながら、「今日は探し物をする雰囲気じゃないかな」と心の中でそっと思う。何より佐伯の様子が前日と違い、落ち着いている。
「お茶、淹れますね。ゆっくり飲みましょう」
「……ああ、頼むよ」
 佐伯は畳に腰を下ろして新聞を広げている。彩花が茶を淹れて戻ると、その新聞には相変わらず介護問題や高齢化社会についての記事が多く載っているらしい。見出しをチラリと目にすると、「義務化で現場は混乱か」「厚労省は追加予算を検討」などの文字が踊っていた。

 湯飲みを渡すと、佐伯はどこか昔を思い出すような遠い目をして、静かに一口飲む。
「こうしてお茶を飲むのも……久しぶりだな。いつも独りだから」
「そう……なんですね」
「昔はね、うちにも家族がいて……。でも、皆どこかに行っちまった。俺が……嫌で離れていったのかもしれないが」
 ぽつりぽつりと漏れる言葉に、彩花は表情を強張らせる。どんな経緯があったのかは分からないが、佐伯が深い孤独を抱えていることだけは伝わる。

 ただ、今日の佐伯は昨日までとは違って自分から話してくれる。それは彩花にとって少し救いでもあった。
「ご家族は……今はどちらに住んでるんですか?」
 そう尋ねると、佐伯は苦笑するように眉をひそめた。
「さあ……どこにいるんだろうな。まったく音沙汰がないから、何年も前に会ったきりで……。手紙も電話も来ないよ。もう俺のことなんか忘れちまったかもしれん」
 その言葉には怒りや嘆きよりも、底知れない寂寞感が漂っている。彩花は何と返していいか分からず、黙って湯飲みを握った。

 しんとした空気の中、ふいに玄関のほうで声が聞こえた。
「ごめんくださーい、佐伯さん、いますかー?」
 男性の声だ。彩花は「はい、どうぞ」と立ち上がる。見ると、三十代後半くらいのスーツ姿の男性が玄関に立っていた。名札には「地域包括支援センター・田口」と書かれている。どうやら佐伯を担当するケアマネージャーらしい。
「ああ、佐伯さん……今日はお変わりないですか?」
 田口は慣れた様子で奥へ進み、彩花に会釈して名刺を差し出す。彩花も「お世話になってます、朝比奈中学校の三浦です」と頭を下げた。

「いつもありがとうございます。佐伯さん、何か不自由はありませんか?」
 田口が声をかけると、佐伯は少し不満げに首を左右に振った。
「別に。ここにお嬢ちゃんが来てくれてるし、問題ないよ。……なんだ、どこかに連れていこうって話じゃあるまいな」
「いえ、そういうわけではないんですが、先日から佐伯さんが受け取るはずの資料をまだ確認していただいてなくて。厚労省の補助金申請の書類もあるんですけど」
 田口が鞄から封筒を取り出しながら説明する。佐伯は露骨に嫌そうな顔をした。

「厚労省……か。あそこは何でもかんでも書類書類で、偉そうに人を振り回すだけだろうが……」
 小さく吐き捨てるように言う佐伯を見て、田口は困ったように目を伏せる。どうやら以前から役所とのやりとりに不信感があるらしい。彩花は少し胸が痛んだ。自分が参加しているボランティア制度も、まさに厚労省が主導しているのだ。
「でも、これを出していただかないと、在宅サービスの追加が受けられないので……」
「追加のサービスなんぞ要らん。勝手に人が家に上がり込むのも迷惑だ」
「でも、三浦さんがいない時には、誰かが必要になるかもしれませんよ」
「いいんだ。放っておいてくれ」

 佐伯の態度が急に硬化したことで、居間の空気がぴんと張り詰める。彩花は田口の手元を見て、地味な封筒と資料の束を確認した。そこには「在宅介護・補助金申請書類」といった文字が並んでいる。
 ――これ、もしかしてタンスの中にも同じような書類があったのかな……?
 彩花は昨日、タンスの扉の隙間から「厚労省」の文字を見たのを思い出す。何か、佐伯が隠したい事情があるのかもしれない。

「まぁ……今日はいったん持ち帰ります。もう少し整ったら、またお伺いさせてください。三浦さん、佐伯さんの様子、何か気になることはありませんか?」
 急に振られて彩花は少しうろたえる。学校の指示では「問題があればケアマネに伝えて」と言われているが、どこまで正直に言えばいいのか分からない。
「ええと、まだ始めたばかりなので……とりあえず、お茶を飲んだり、ちょっと片付けをしたりしてます。大きな問題は、今のところ……」
 曖昧な返答しかできず、田口も「わかりました。また何かあればすぐ連絡くださいね」と気を利かせるように笑う。だが、佐伯の頑なな態度は変わらず、軽く頭を下げただけだった。

 田口が帰ると、居間には沈んだ静けさが戻る。佐伯は苦い顔のまま、しばらく無言で新聞を見つめていた。彩花も黙って掃除の続きに取りかかるが、どこか落ち着かない。
「……あの人は悪い人じゃないと思います。何か困ったことがあったら、相談してみるのもいいかも」
 思い切ってそう声をかけるが、佐伯はぶっきらぼうに「フン」と鼻を鳴らすだけだった。

 やがて、時計を見て帰る時間が近づいてきた。彩花が玄関へ向かおうと腰を上げると、佐伯がぽつりと言った。
「……きみ、どうしてそんなに熱心に世話をしてくれるんだ? 学校の課題だからか? いい子ぶりっ子したいのか?」
 突き刺すような皮肉まじりの言葉に、彩花はドキリとする。無意識に美少女だの優等生だの言われるせいで、そう見られることもあるのかもしれない。それでも真正面から言われると傷つくものだ。
「……そんなつもりじゃないです。ただ、やってみたいと思ったからやってます。家族のこともあって、高齢者をもっと知りたいというか……」
 彩花は少し唇を引き結んだあと、「明日もまた来ますね」と言い残して足早に玄関へ向かった。佐伯は特に引き止めもせず、冷めた視線を送るだけだった。

 外に出ると、曇天の空気が少し肌寒い。彩花は自転車にまたがりながら、目頭に熱いものが滲むのを感じた。どこかに苛立ちをぶつけないと前に進めない、そんな気持ちだ。
 ――あんな言い方、ひどい。でも、誰も信じられないのかな……。
 ペダルを踏み出そうとしたとき、玄関のドアがかすかに開き、佐伯がこっちを覗いているのが見えた。だが、その視線は何か言いたげでもあり、言葉にならないままドアが閉まる。彩花は何も言わずに振り返らず、坂道を一気に駆け下りた。

 帰り道、冷たい風を頬に受けながら、彩花の思考はぐるぐるとまわる。人との距離がつかめない認知症のつらさと、それに伴う不信感や孤独。自分が義務とはいえ受け負ったこのボランティアは、果たしてどこまで踏み込めるものなのか。
 同時に脳裏には、田口が持ってきた厚労省の書類と、タンスの中に隠された書類がちらつく。なぜ佐伯はそんなに拒絶反応を示すのだろう。何か重大な過去があるのか――。
「介護ボランティアって、こんなに心が揺さぶられるものだったんだ……」
 つぶやいてみても、答えなど返ってこない。ただ、うっすらと雨が降り出した路面にタイヤが滑る感触があり、彩花は転ばないように慎重にハンドルを握った。
 家までの帰路は、いつも以上に長く感じられ、胸の奥には言いようのないもどかしさが溜まっていくばかりだった。


第五章 不穏な噂と動き出す影

 翌朝、窓の外から差し込むわずかな陽射しを浴びながら、三浦彩花(みうら・あやか)は眠い目をこすって起き上がった。昨日は帰宅してからも、佐伯政弘(さえき・まさひろ)の冷たい言葉が頭を離れず、なかなか眠れなかったのだ。
 「どうしてそんなに熱心に世話をしてくれるんだ?」――その問い自体には正当な疑問がある。けれど、「いい子ぶりっ子したいのか?」という言い方は、彩花の心に小さな傷を残した。

 朝食の席で、母が心配そうに「大丈夫? 顔色が悪いわよ」と声をかける。彩花は曖昧に笑みをつくって「ちょっと寝不足なだけ」とごまかした。それでも母は納得がいかない様子で、
「ほんとに無理しすぎないで。ボランティアだって言っても、一人で抱え込むものじゃないのよ」
と念を押す。父も気にはなっているようだが、会社に行く支度で慌ただしく、深く立ち入ることなく家を出ていった。

 学校ではいつも通りの朝のホームルーム。担任の佐野先生が「介護ボランティアに関して困ったことがあればすぐに相談するように」と繰り返す。周囲のクラスメイトを見ると、「特に大事はない」と気楽そうな者もいれば、「うちは一人暮らしのばあちゃんが耳が遠くて、コミュニケーションが大変」とこぼす者もいた。彩花はうつむきがちにノートをめくりながら、胸の奥でつぶやく――“こんなの、誰に言えばいいんだろう”。

 その日の昼休み、彩花が廊下の自販機で水を買おうとしたとき、クラスメイトの一人が駆け寄ってきた。小柄な女子生徒――菜々子(ななこ)だ。やや興奮気味に早口で言う。
「ねえ、あやか。聞いた? 他の地区で老人の暴言や介護トラブルがあったのに、それが学校にちゃんと伝わってなかったって噂……」
「え……? それって、どういうこと?」
 驚いて聞き返す彩花に、菜々子はスマートフォンの画面を見せながら続ける。
「ほら、ここ。SNSで誰かが書き込んでるんだけど、『認知症のおじいさんに押し倒されそうになった』とか『ご飯を作らされて、失敗したら怒鳴られた』とか。先生に相談しても『できる範囲で頑張って』って言われるだけだったって……」

 彩花は思わず息を呑む。自分のケースと全く同じではないが、“高齢者とのトラブル”や“苦情をうまく共有できない”という構図は一致しているように感じられる。
「それ、本当なのかな……」
「わかんない。でも、私たちって中学生でしょ? 本来なら、ちゃんと大人の介護職がやるべきことじゃない? 危険があるなら早く言ってほしいのにさ」
 菜々子は苛立ちを隠せない様子で言い放つ。彩花もまた、返す言葉が見つからないまま、購入した水のペットボトルを握りしめた。

 放課後、彩花はいつものように自転車を漕ぎ出す前に、職員室へ寄るべきか一瞬迷った。“佐伯さんに冷たくされた”とか“詳しい事情は分からないけれど、不安を感じる”と正直に話すべきか――。
 だが、思い直す。佐伯宅の様子を詳しく聞いてもらうには、自分自身も何を問題と感じているのか、はっきり整理できていない。万一、大騒ぎになれば「彼が望んでいない外部からの介入」をさらに招き、佐伯との関係は決定的に悪化するかもしれない。
 ――もう少し様子を見よう。困ったときにすぐ助けを呼ぶのは当然だけど、まだまだ私ができることがあるはず。
 そう自分に言い聞かせ、彩花はハンドルを握りしめた。

 佐伯宅に到着したとき、門の前に見覚えのあるスーツ姿が立っているのに気づく。昨日も来ていたケアマネージャーの田口だ。
「あれ、また来てるんですか?」
 彩花が声をかけると、田口は苦笑いして「どうも、三浦さん。実は昨夜、佐伯さんから少し心配な電話があって……」と切り出した。
「心配、ですか?」
「ええ、内容は支離滅裂だったんですが、『勝手に他人が家に入って探し回っている』『大事な書類が盗まれそうだ』みたいなことを言ってまして。もしかすると、三浦さんのことを疑っているんじゃ……」

 思わず「そんな……」と彩花は肩をすくめる。掃除や片付け、書類探しを手伝おうとしたのはすべて好意からだ。それが“盗まれるかもしれない”なんて言われたら、胸に鋭い痛みが走る。
「もちろん僕も、三浦さんがそんなことをするはずないって分かってます。でも、認知症が進むと妄想がちになるケースもあるので、あんまり奥の物に触らないほうがいいかもしれませんね」
「……はい、わかりました」
 彩花の声は自然と弱々しくなる。田口は「もし何かあったら、すぐ連絡を」と念を押し、帰っていった。

 玄関を開けると、すぐに居間から佐伯の低い声が聞こえる。
「おまえか……やけに遅かったな」
 見ると、佐伯は新聞を畳の上に広げ、ペンで何か印をつけている。彩花が「すみません、放課後に少し用事があって」と答えると、彼は返事をしないまま印をつける作業を続けた。
 その横顔に目をやると、眉間に深い皺が寄り、以前にも増してやつれたように見える。彩花は押し殺した声で「お疲れさまです。今日はどんなことを手伝いましょうか?」と声をかけたが、佐伯は渋い表情を浮かべるだけだった。

 仕方なく、彩花は茶碗を片付けたり、部屋を掃除したりして過ごす。テーブルの隅には昨日と同じ封筒があり、「在宅介護・補助金申請書類」の文字がはみ出して見えている。佐伯はそれに一切触れないまま、新聞のマーカー作業に没頭していた。
 ちらりと紙面を覗くと、どうやら高齢化社会や認知症ケア、義務ボランティアに関するニュースを片っ端からチェックしているらしい。ところが、それをどう読み解いているのかは分からない。時折、ペン先で紙面をぐいっとなぞり、ひとりごとのように「馬鹿らしい……」「嘘ばっかりだ」と呟く。その姿は、ただの情報収集というよりは、何か“証拠”を探しているようにも見えた。

 時間が過ぎ、彩花がそろそろ帰ろうと腰を上げたとき、佐伯が唐突に口を開く。
「……おまえさん、厚労省の回し者じゃないか」
 低く沈んだ声に、彩花は思わず身をこわばらせる。
「え……? そんな、私はただの中学生ですよ。学校に言われて……」
「知ってる。だけど、その学校ってやつが、結局は政府や役所の都合で動かされてるんじゃないのか? 俺には分かってる。やつらは、年寄りなんざ厄介者だと思ってる」

 佐伯の目には怒りと疑心が混ざり合っていた。彩花は言い返せないまま、ただ首を振るしかない。昨日から感じていた佐伯の不信感が、ここではっきりと言語化されたように思える。
「そうじゃないって分かってほしいんです。私は……ただ、おじいちゃんと話したかった。少しでも力になれればって……」
「ふん……。いずれ分かるさ……」
 佐伯はそれ以上何も言わず、また新聞に目を戻した。

 外へ出ると、日が沈み始めた空に一筋の細い月が浮かんでいる。彩花は自転車にまたがり、胸に残る痛みと不安を振り払うようにハンドルを握った。
 走り出して少しすると、スマートフォンが振動する。メッセージの相手は、ボランティアで同じ地区を担当しているという二年先輩の女子生徒――顔見知り程度の先輩だ。
「聞いた? この辺りで老人介護に行った子がひどい目に遭ったって……」
 その一文に、彩花の鼓動が高鳴る。「ひどい目」という言葉が胸を締め付けるように重い。例のSNSの噂と同じ話なのか。もしかすると、事態はすでに大きな火種を孕んでいるのかもしれない。

 空を見上げると、夜の帳が下り始めている。街路灯に照らされたアスファルトが、どこか冷たい光を放つ中、彩花はただ懸命にペダルを踏み続けた。
 ――佐伯さんの不信と孤独に、どう寄り添えばいいのか。周囲の「危険があるかもしれない」という噂は本当なのか。
 どこへ向かうか分からない不安定な道を、まるで彷徨うように走る彩花の背後で、風が低く唸りをあげる。まだ見ぬ闇が、ゆっくりとその輪郭を浮かび上がらせているような気がしてならなかった。


第六章 悲劇の瞬間

 翌日、薄曇りの空の下、三浦彩花(みうら・あやか)は少し重い足取りで自転車を漕いでいた。佐伯政弘(さえき・まさひろ)の家へ向かう道は、いつもより静かに感じられる。最近は佐伯の疑い深い言葉や、噂で聞く“老人介護の危険”が胸を圧迫しており、気持ちは晴れないままだ。それでも、「私にしかできない何かがあるかもしれない」と言い聞かせるように、彩花は門扉を開けた。

 古びた玄関ドアをノックする。内側から聞こえてくるかすかな動きに、彩花は緊張で心臓が高鳴るのを自覚した。
「佐伯さん、こんにちは。三浦です……」
 ドアを開けると、部屋の中には独特の沈黙が漂っていた。いつものように散らかった新聞や書類、古い雑誌が無造作に置かれている。しかし、佐伯の姿が見当たらない。

「失礼します。お邪魔しますね……」
 居間へ足を踏み入れると、襖のほうからふらりと人影が現れた。佐伯だ。見るなり、彩花の胸に一瞬、嫌な予感が走る。彼の目の焦点が定まっていない――まるで何かに怯えているような、あるいは別の世界を見ているような表情。

「佐伯さん……?」
 彩花が問いかけると、佐伯は低く唸るような声を上げた。
「誰だ……どうして勝手に入ってきた……?」
「三浦です。学校のボランティアで――」
「ああ、ボランティア、ボランティア……うるさいんだよ、勝手に人ん家に入って! おまえもあいつらの仲間なんだろう!」

 その言い方は今までの不機嫌さや苛立ちを超え、明確な敵意を含んでいた。彩花は思わず一歩後ずさる。佐伯の目が血走っているのを見て、息が苦しくなるほどの恐怖が込み上げる。

「佐伯さん、落ち着いて。私は……」
「嘘を言うな! やっぱり俺をどうにかしようってんだろう? ここから追い出して、どこかに閉じ込めるつもりなんだろ!」
「そ、そんな……違います!」

 彩花が必死に弁解しても、佐伯にはまったく届かないようだ。彼は突如、襖を大きく蹴飛ばし、激しく叩きつけるように閉める。その衝撃で家全体がきしんだように揺れ、彩花は「まずい、このままでは……」と悲鳴を飲み込む。

 次の瞬間、佐伯の手が彩花の肩を乱暴につかんだ。
「やめてくださいっ……!」
 なんとか振りほどこうとするが、予想以上の力で押さえつけられる。痩せていると思っていたが、錯乱した佐伯の力は常識では考えられないほど強い。

 彩花は床に押し倒され、必死にもがく。頭がじんと痛む。佐伯の荒い呼吸が耳元に聞こえ、次いで首もとに強い圧迫感がのしかかる。
「苦……しい……っ」
「出ていけ、出ていけ! 俺の家に勝手に入ってくるな!」
 佐伯の怒声が上ずり、理性を失ったように響く。その手は彩花の首に回り、ぐいと締め上げようとしていた。彩花は涙目になりながら必死でその腕を掴み、抵抗しようと試みる。

「……やめて……」
 声にならない声が喉から漏れる。意識が遠のきそうになる瞬間、なんとか腕を伸ばして居間の机をかき乱すように叩き、茶碗を床に落とした。
 がしゃん――。
 陶器の壊れる音が鳴り響く。その音に気づいた近所の住民が、外から「どうした!」と声をかけたのが遠くに聞こえた。だが佐伯はまったく動じない。

「もう嫌なんだ……うるさいやつらばかりだ……俺を追い出そうとして……!」
 彩花は目の前が暗くなっていくのを感じる。意識は断続的に途切れそうになりながらも、「誰か……助けて……」と心の中で必死に叫ぶしかない。

 ――時間にして数十秒ほどだったかもしれない。その間、彩花には永遠のように感じられた。突然、玄関のほうから大きな物音と声がした。
「大丈夫か! 開けるぞ!」
 近所の男性が、鍵のかかっていないドアを強引に開け、居間へ駆け込んできたのだ。彼は状況を見て驚愕の声をあげる。

「おい、おまえ! やめろ!」
 佐伯はその男性を一瞥したあと、糸が切れたように力を緩める。彩花の首から手が離れ、彼女は床の上に崩れ落ちるように倒れ込んだ。呼吸を取り戻すために喉が激しく痙攣し、肺に空気を送り込もうとするが、意識は急速に遠ざかっていく。

 「三浦さん、しっかり……」
 男性が名前を呼んでいるのか、それとも誰かが救急車を呼んでいるのか――周囲の声が遠のいていき、彩花は視界の隅で佐伯の虚ろな目を見た。彼はただぼう然と立ち尽くしている。
 ――佐伯さん、どうして……。
 彩花の意識は、そのまま暗闇へと沈んでいった。


そして、悲報

 病院へ搬送された三浦彩花は、首への強い圧迫と頭部への衝撃により、重篤な状態に陥っていた。医師たちが必死に蘇生を試みるも、間もなく心肺停止を迎え、そのまま息を引き取る。わずかに残っていた脈も、やがて途切れて二度と戻らなかった。

 夕刻、病院の廊下に立ち尽くす彩花の両親は、言葉を失い、ただ泣き崩れる。絶え間ない嗚咽の合間に「信じられない……」「彩花が……」という声がかすかに聞こえるだけ。通報を受けて駆けつけた警察官と救急隊員、そして医師たちも、この結果に重い沈黙を落としたまま動かない。

 佐伯を見つけた近所の男性が通報した段階では、「大変なことになってる!」と騒ぎになり、何人もの近隣住民が集まっていた。しかし、彩花が心肺停止状態だったと知らされるや否や、全員が息を呑み、病院行きの救急車を見送るしかなかったのだ。

 佐伯本人は虚ろなまなざしのまま、警察官の問いかけにもはっきりとした答えを出せずにいた。「どうしてこんなことを」「暴行の事実を認めるか」と聞かれても、わけの分からない言葉を口走り、しきりに自分の頭を抱えている。
 「俺は……追い出される……こんなの嘘だ……」
 誰に向けてのものか分からないつぶやきが、虚空に消えていく。警察官は混乱を極める現場で、佐伯の状態を把握できないまま、ただ「事件として捜査せざるを得ない」と上司に連絡を取っていた。


喪失の衝撃

 翌日、朝比奈中学校には重苦しい空気が漂っていた。朝のSHR(ショートホームルーム)で、担任の佐野先生が声を詰まらせながら事態を説明する。
「昨日、介護ボランティア先で……三浦彩花さんが……。大変残念なことに、お亡くなりになりました……」

 教室は一瞬、時間が止まったようになり、続いて悲鳴にも似たざわめきが広がる。信じられないという表情で顔を覆う生徒、涙をこぼす者、ただ呆然とする者――誰もが彩花の死を受け入れられずにいた。
 千夏(ちなつ)は机に突っ伏しながら「嘘……嘘でしょ……」と繰り返している。隣のクラスでも同じようにショックと動揺が伝わり、教師たちも明確な言葉を持たずに廊下を行き来していた。

 さらに、地域全体に広がる動揺は大きかった。“中学生が義務ボランティア中に亡くなった”という衝撃的な事実が瞬く間に噂となり、マスコミが嗅ぎつけ始める。学校の正門近くには取材陣らしき車が停まり始め、カメラを構える姿も見えた。

 夕方のニュースでは「介護ボランティア先で女子中学生が事故死か」「認知症老人とのトラブルか」といったヘッドラインが踊る。SNSでは「殺されたのでは?」「国や厚労省の責任は?」と憶測が飛び交い、一部では過激な言葉が飛び交い始める。
 ――今まではどこか他人事のように思われていた“介護の危険”が、誰もが知る現実の悲劇として突きつけられたのだ。


 こうして、三浦彩花はわずか十四年の人生を終えた。あまりにも突然、あまりにも悲惨なかたちで。
 彼女が最後に見たのは、混乱と怒り、そして深い孤独に囚われた老いた男の姿だった。周囲の人々は、彼女の死をどのように受け止め、何を思うのか。
 介護ボランティア制度、認知症ケア、高齢者と若者の共生――これまで曖昧に語られてきたあらゆる問題が、一気に露わになろうとしていた。街には重苦しい沈黙と、やるせない思いが漂うばかりで、やがてこれが社会全体を大きく揺るがす引き金となることを、まだ多くの人々は知らないままでいる。


第七章 余波のはじまり

 春のはずなのに、まるで冬の名残のように肌寒い風が吹きすさぶ朝。朝比奈中学校の正門前には、前日とはまるで違う雰囲気が漂っていた。校門の外側には取材陣の車がいくつも停まり、リポーターらしき人物がカメラに向かって話している姿が見える。彼らは「女子中学生の死亡」「義務ボランティアにおける事故」などの言葉を口々に発し、重苦しい空気を周囲へ伝播させていた。

 校内に足を踏み入れた生徒たちは、まるで見えない霧の中を歩いているかのように沈んだ表情をしている。誰もが昨日の悲報――三浦彩花(みうら・あやか)の死を受け止めきれず、言葉を失っていた。普段なら元気に挨拶を交わす生徒も、今日はただうつむいたまま、足音すら控えめに昇降口へと消えていく。

 彩花のクラスでは、担任の佐野先生が気丈に振る舞おうとしながらも、その目は泣き腫らしたように赤い。ホームルームが始まると、先生は深く息をつき、「きょうは、三浦さんのことについて皆さんと話し合いたいと思います」と声を震わせながら切り出した。
「警察からの正式な発表はまだですが……残念ながら、彩花さんは……」
 そこまで言うと、言葉が途切れ、先生は目頭を押さえて机に視線を落とす。教室にはすでに周知の事実とはいえ、改めて声にされると生徒たちの胸に重く突き刺さる。涙をこらえる者、唇を噛みしめて耐える者、嗚咽を抑えきれず小さく肩を震わせる者――誰もが悲しみと動揺の中でもがいていた。

 同級生の千夏(ちなつ)は、つい昨日まで隣の席で笑い合っていた友人の死をどう受け止めればいいのか分からず、ただ机に額をつけていた。背中から小さな啜り泣きが聞こえ、隣に座る生徒がそっと肩に手を置いてあげる。黒板に書かれた「介護ボランティア報告」の文字が、今は皮肉なほど空虚な響きにしか思えない。

 一方、職員室では校長や教頭をはじめ、主要な教師たちが集まり、緊急対策会議を開いていた。廊下にまで聞こえる大きな声が飛び交っている。
「どう説明するんだ? 大人が監督していない場所で、こんな悲劇が起きたのは事実だろう」
「でも、これは国の方針で決まったボランティア制度なんですよ。学校だけの責任にされても……」
「そんなことを言っている場合じゃない。保護者説明会も急いで設定しろ。マスコミにも何らかのコメントを出さないと……」

 教師たちはそれぞれ責任の所在や対応策をめぐって意見が錯綜し、誰もが疲れ果てた顔をしている。やがて校長は苦悩の表情を浮かべながら、「とにかく、まずは生徒たちの心のケアを最優先にしよう。あとで遺族のもとへ弔問に伺う」と告げ、会議は一時中断となった。

 その日の午後、三浦家の前には花束を手にした生徒や保護者が訪れ、深い悲しみを表しながら頭を下げている。彩花の両親はまだショックから立ち直れず、リビングのテーブルに飾られた娘の写真を見つめては涙を流すばかり。
「どうして……どうしてこんなことに……」
 母は嗚咽とともに繰り返し、父はこぶしを握り締めて俯く。彼らにとって唯一の救いは、何が起きたのかを知ろうとしてくれる人々が絶えず訪れてくれていることだった。しかし、その“何が起きたのか”が一向に定まらないまま時間だけが過ぎていく。

 その頃、市内の病院では、加害者となった佐伯政弘(さえき・まさひろ)が緊急の精神鑑定のために検査を受けていた。警察は当初、取り調べを行おうとしたが、佐伯の錯乱状態がひどく、まともに言葉を交わせる状況にない。担当医は「認知症が著しく進行している可能性がある」と診断し、佐伯は保護の名目で病室に隔離されているという。
「……俺は……追い出される……押し付けられる……」
 佐伯はうわごとのように繰り返しながら、天井を見上げ、時折震える手を伸ばす。彼が果たして何をどこまで理解しているのか、医師にも判別しきれない。

 一方、社会は急速にこの事件に注目し始めた。ワイドショーでは「認知症による暴力か」「中学生の介護ボランティアの是非」「制度が招いた悲劇」と、さまざまな角度から論争が沸き起こっている。SNSでも「#義務ボランティア廃止しろ」「#高齢者排斥」などの過激なハッシュタグが飛び交い、見る間に拡散される。
 多くの人が怒りや不安を抱える一方で、「だからと言って高齢者を排除していいのか」と冷静に訴える声もある。しかし、極端な意見ばかりが目立つネットの世界では、批判とデマが入り混じったカオス状態になりつつあった。

 その日、放課後になっても学校は騒然としたまま。昇降口にはメディア関係者が張り込んでおり、「三浦さんのクラスメイトの方ですか? 事件当日の様子を聞かせてもらえませんか?」などと声をかけてくる。ほとんどの生徒は無視を貫き、教師や警備員が制止に入るものの、カメラのフラッシュだけが無遠慮にたかれる。
 千夏はショックと恐怖で逃げるように下校しながら、彩花の笑顔を何度も思い出していた。「あやかがやらなきゃ、私がやるよ」といつでも助けてくれた優しい友人。そんな彼女が、“義務”として行った先で命を落とすなんて――。千夏はこみ上げる悔しさに唇を噛み、涙をこぼすまいと必死だった。

 週末、町の一角では早くも過激な抗議デモの動きが始まったらしい。主催団体がSNSで呼びかけているのは「高齢者を優遇しすぎる政府は許せない」というスローガン。若者を中心に、ネット上で「#老人排斥」という過激な言葉が使われ始めており、当局も警戒を強めているという。
 しかし、その一方で「認知症を一括りにすべきではない」「ボランティア制度は失敗だが、高齢者を敵視するのは違う」という反対意見も少なくない。社会は一気に分断へ向かい、テレビでは識者同士の激しい口論が繰り返され始めた。

 ――中学生ひとりの死が、ここまで社会を揺さぶることになるとは、誰も想像していなかった。
 近隣の住民にとっても、悲しみと戸惑いばかりが募る毎日が始まる。彩花がいつも自転車で走り抜けた通学路を見れば、彼女の面影がよみがえり、胸が締めつけられる。
 しかし、それと同時に人々の心には「高齢者への怖さ」や「システムへの怒り」が強く芽生え始めていた。学校は否が応でも国や自治体への説明を求められ、厚生労働省はメディアの問いかけに対して早急な見解を示すよう迫られている。だが、関係者らは互いに責任を押し付け合うばかりで、進展は遅々として見えない。

 その晩、彩花の家のリビングでは、小さな祭壇がこじんまりと設けられ、彼女の写真の前に花と供物が置かれていた。写真の中の彩花は、まっすぐな瞳をたたえて微笑んでいる。それはまだ幼さを残しながらも、どこか大人びた美しい少女の面影。まるで今にも声をかけてきそうなほど生気に満ちている。
 しかし、その息遣いはもうここにはない。机の上には愛用していたノートやリボンが整えられ、母がハンカチを握りしめながらそれを見つめていた。父は言葉少なに一日中外を駆け回っていたが、戻ってくるなり、彩花の祭壇の前で膝をつき、声を殺して泣き崩れた。

 こうして、周囲の人々が悲しみに沈む中、すでに事件は「社会問題」として膨れ上がろうとしている。義務化された介護ボランティアの是非、認知症の高齢者を地域で支える仕組み、若年層の犠牲と政府の責任――あらゆる論点が渦を巻き始めた。
 そして、これが単なる哀しみだけで終わらず、多くの人々の怒りや恐怖を煽る契機となることを、当の学校や行政関係者たちですら察し始めていた。果たしてこの大きな波はどこへ向かい、何を壊してしまうのか。
 美しく未来にあふれていたはずの少女の死は、あまりにも重い問いを、社会全体に突きつけていた。


第八章 揺れる真実

 悲劇のあと数日が経過し、街にはいまだ悲痛と混乱の空気が立ちこめていた。三浦彩花(みうら・あやか)の死が新聞やテレビの見出しを飾るたび、人々の視線は当事者たちに注がれる。朝比奈中学校では、生徒が校門を出入りするたびに取材陣からフラッシュがたかれ、生徒たちはおびえた表情で逃げるように校舎へ駆け込んだ。

 彩花の教室では、担任の佐野先生が心のケアに努めようと懸命だった。だが、晴れやかな顔を見せる生徒は一人もいない。休み時間になると、あちらこちらで嗚咽を抑える気配が漂い、誰もが暗い影を落としている。同級生の千夏(ちなつ)は授業中でもふと涙がこみ上げ、「ごめん、ちょっと……」と席を立つことが多くなった。先生たちも無理に叱れず、ただそっと見守るしかない。

 そんな中、学校には保護者や地域住民からの問い合わせと抗議の電話が相次いでいた。
「どうして子どもに危ないことをさせたのか」
「学校と行政のどちらが責任を負うつもりなのか」
 電話越しの声には怒りだけでなく、不安や悲しみ、混乱が色濃くにじんでいる。職員室に篭もったまま応対に追われる教師たちは、疲労で顔色を悪くしていたが、通話を終えるたびにさらに深いため息をつく。

 同時に、SNSでは加速する過激な言論が社会を分断し始めていた。「#高齢者を減らせ」「#認知症は排除すべきだ」など、見るに堪えない言葉まで飛び交い、その一方で「#ボランティアは若者の犠牲か」「#政府は何をしている」といった矛先が政治や行政に向けられた批判も沸点を超えつつある。
 やがてその怒りは「安楽死」や「強制隔離」の導入を求める極端な運動として具現化し始め、街頭では、まだ小規模ながらも高齢者福祉の削減を主張する若者グループのデモ行進が見られるようになった。彼らは「認知症患者を放置するな」「無責任に若者に押しつけるな」と声を張り上げ、プラカードを掲げている。


父の問いかけ

 一方、彩花の父・三浦慎一(みうら・しんいち)は娘の遺影の前で身を固める日々を過ごしていた。妻は衝撃から立ち直れず、部屋にこもっていることが多い。彩花の机やベッドには生前のままの物がそのままに残され、そこへ視線を向けるたびに胸がえぐられる思いだった。
「彩花……なんで、こんなことに……」
 言葉を絞り出すようにつぶやいても、返事があるはずもない。外からは記者やワイドショーのスタッフが「インタビューさせてください」と押しかけてくるが、慎一はすべて断っていた。娘を失った悲しみを安易に切り売りされたくはないという思いが強い。

 だが、同時に父として問いただしたいことが山ほどあった。学校はどう対応していたのか。行政は、厚生労働省は、なぜこんな無謀な制度を強行したのか。
 ある夜、慎一はリビングのテーブルの上に散乱している新聞記事を睨みつけるように読み返していた。そこには「中学生少女の死」「介護ボランティアの安全管理」「佐伯政弘容疑者・認知症」といった見出しが並ぶ。
 ――佐伯政弘は、本当に“容疑者”と呼ぶべきなのか? 認知症という病気が原因なら、彼に悪意や計画性はなかったのではないか。ならば、誰が娘を死に追いやったのか。そう考えると、やはりシステムそのものの問題にたどり着く。

 翌朝、慎一は意を決したようにスーツに着替え、妻を見やって小さく頷いた。
「しばらく留守にするけど、何かあったら連絡してくれ。必ず……真実を突き止める」
 そう言い残し、重々しい足取りで家を出る。向かう先は、市役所の福祉課だ。


動き出す捜査

 一方、警察は「中学生少女死亡事件」として佐伯政弘の取り調べを進めようとしていたが、佐伯は相変わらず入院先で意識が朦朧としており、まともな供述が得られない。担当の刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)は病室で佐伯の様子を観察しながら、
「これじゃあ取り調べも何もあったもんじゃない。責任能力はどうなるんだ……」
と独りごちる。そもそも、認知症で殺意が立証できるのか、事故か事件かの境界さえ明確にならない。医療チームも「今の状態では精神鑑定も難しい」と頭を抱える。

 その日は、厚生労働省からも“視察”と称して担当者が病院へやって来た。彼らはスーツ姿で手みやげさえ持参しているが、その実、事件の進展状況を探っているだけに見える。
「認知症患者の保護と加害責任について、今後の対応を検討したく……」
と口では丁寧に言うが、蒲田は“制度を推進した側の保身ではないのか”という疑念が拭えない。
「これ以上、大きく騒がれるのは避けたいんでしょうね……」
 同僚刑事がこっそり耳打ちしてきて、蒲田は小さく苦笑する。確かに、政府は今回の事件の社会的インパクトを一番恐れているのだろう。

 佐伯は虚ろな目で天井を見つめながら、「俺の家に勝手に……」と繰り返すだけ。病室には昔の写真や書類が置かれているが、まともな形で整理されていない。蒲田はチラリと目をやりながら、“何か事件の背景を示す手がかりがあるのではないか”と胸の奥で引っかかるものを感じていた。
 ――もし、佐伯自身が政府や厚労省に深く関わる過去があったとしたら? あるいは、彼が抱えていた絶望や疑心暗鬼が、彩花さんの死に繋がるきっかけとなったのか。
 蒲田は捜査上の許可を得られれば、佐伯の家をもう一度徹底的に調べるつもりでいた。


学校・行政の板挟み

 一方、朝比奈中学校では、本来“義務ボランティア”を続ける予定だった生徒たちが、次々と活動を休止している。保護者から「二度と子どもを行かせない」「学校で責任を持てるのか」と厳しく詰問されるケースが後を絶たないのだ。教師たちも生徒の安全を第一に考えれば止めざるを得ず、事実上“ボランティア”はほとんど凍結状態と化していた。

 だが、そのことで困っているのは高齢者の側でもあった。すでに在宅での生活が限界に近い独居老人や、若者との交流を楽しみにしていた人々もいる。
「おかしいよ。いまさら中止なんて、私みたいに本当に困ってる人はどうなるの……」
 メディアの取材を受けた女性がそう訴えていたが、世論の大勢は「今はそんなこと言っている場合か」という空気で、聞く耳を持たない雰囲気がある。人手不足の介護現場には何ら新しい支援策が提示されず、ただ混乱だけが広がっていた。

 市役所の福祉課には連日苦情や問い合わせが殺到し、担当者たちは総出で電話に応対している。そこへ足を運んだのが、彩花の父・慎一だった。来庁者用の椅子に腰掛け、受付の職員に「担当責任者を呼んでほしい」と静かに告げる。最初は断られかけたが、「どうしても話したいことがある。娘の命の問題だ」と言うと、職員は押し黙り、奥へ引っ込んだ。

 しばらくして姿を見せたのは、課長らしき壮年の男性と、二十代後半くらいの女性職員。課長は申し訳なさそうに頭を下げつつ、「この度は誠に……」と陳謝の言葉を口にする。
 慎一は目を伏せて、低く静かな声で言った。
「謝罪はいりません。私が知りたいのは、なぜ娘が一人であの家を訪問しなければならなかったのか。なぜ、リスクがある認知症患者を中学生に任せられるような体制になっていたのか。それを教えてほしいんです」

 課長も女性職員も口ごもる。結局、制度上の書類やマニュアルを示す以外に明確な答えを持っていないのだ。「ケアマネさんや、包括支援センターとの連携が不十分だったかもしれません」とは言うが、具体的な責任の所在については言葉を濁す。
「……わかりました。これ以上お話をしても時間の無駄かもしれませんね」
 慎一は立ち上がり、軽く頭を下げて去ろうとする。しかし、その背中を見つめる女性職員の表情には、何か言いたげな迷いが浮かんでいた。


真実の入り口

 町全体が悲しみと怒りを抱え、SNSやメディアでは過熱する議論が渦を巻く中、あるフリージャーナリストの存在が徐々に注目を集め始めた。名前は滝沢冴子(たきざわ・さえこ)。彼女は独自に事件の現場や周辺を取材し、ネットメディアで鋭い記事を発信している。
《制度の破綻と官僚組織の闇――少女の死が照らす日本社会の盲点》
 そう題された記事では、厚生労働省が推し進める「老人介護ボランティア義務化」の経緯に疑惑の余地があること、そして佐伯政弘と政府・省庁との不透明な繋がりを示唆する内容が書かれていた。

 滝沢は記事の中で、佐伯政弘がかつて官公庁関連の職に就いていたらしい事実を匂わせ、「認知症発症前後に何があったのかを探るべきだ」と主張している。さらに、「佐伯の記憶の断片には、制度の根幹を揺るがす秘密があるかもしれない」という仮説まで提示していた。
 当然、それに対して「憶測だ」「煽り記事だ」という批判も少なくない。だが、事件の捜査も進展せず、厚労省が頑なに沈黙を続ける状況下では、彼女の情報が一筋の光を放つように感じる者も多い。

 滝沢は警察関係者への接触を試みたり、佐伯の近隣住民や市役所関係者にインタビューを重ねたりして、さらに裏を取ろうと躍起になっていた。取材メモには「過去の省令改訂」「予算の付け替え」「認知症データの操作」など、怪しげなキーワードが乱雑に書き込まれ、彼女は事務所でそれらをにらみつけながら考え込む。
「この事件、ただの不幸な事故では終わらない。きっと大きな闇がある――」
 そう確信めいた口調でつぶやく滝沢の瞳には、真実を暴こうとする意志の炎が宿っていた。


 こうして、それぞれが異なる立場で“真実”を追い求め始める。父・三浦慎一は娘の死を無駄にしないために行動を起こし、刑事の蒲田修二は認知症老人の家に潜む書類や痕跡を探ろうとし、ジャーナリストの滝沢冴子は政府や役所の闇をえぐり出そうとする。
 けれど、その先にあるのは絶望か、それとも微かな希望か――。
 朝比奈中学校では、生徒と教師が依然として喪失感と罪悪感に苛まれていた。街ではデモや過激な言説がさらに勢いを増し、高齢者と若年世代の溝が深まるばかり。息苦しいほどに緊張が高まるなか、この国はどこへ向かっていくのか。
 誰もが答えを知らないまま、それぞれの思惑と疑念が交錯し、やがてさらに大きな波紋となって社会をのみ込もうとしていた。


第九章 散らばる糸口

 冷たい春の雨がしとしとと降る昼下がり。薄暗い雲に覆われた空の下、市役所の駐車場で一人の男が車から降り、灰色のスーツの襟を正すように肩を上げた。三浦慎一(みうら・しんいち)――三浦彩花(みうら・あやか)の父親だ。
 前日、福祉課を訪ねた際には何の収穫も得られなかった。しかし、それでも引き下がるわけにはいかない。再び足を運んだのは「誰か、真実を教えてくれる人がいるかもしれない」という一縷の望みにすがるためだった。

 役所の受付に行き、「福祉課の課長さんはご在席でしょうか」と穏やかな口調で尋ねる。職員は戸惑い気味に「少しお待ちください」と奥へ入っていった。
 しばらくして現れたのは、昨日も会った課長の風間(かざま)だった。緊張を帯びた表情で慎一を応対室へ案内する。応対室は小さな会議テーブルが置かれた質素な部屋で、扉を閉めると役所特有の乾いた空気が薄く漂っている。
「昨日は何もお力になれず、申し訳ありませんでした……」
 頭を下げる風間の横には、同じく昨日姿を見せた若い女性職員――中沢(なかざわ)が立っていた。彼女はどこか居心地悪そうに俯き、慎一との視線を合わせようとはしない。

「わざわざお時間を頂いてすみません。正直、役所を責めるつもりで来たわけではないんです。ただ、あの制度がどうしてあんな形で強行されたのか……誰が責任を持っていたのかを知りたいだけなんです」
 慎一は声を低く抑え、しかし言葉には明確な意志がこもっていた。
 風間は申し訳なさそうに唇を噛んだあと、テーブルの上に数枚の資料を広げる。
「これが、私ども市役所と厚生労働省、そして学校との間で取り交わした“老人介護ボランティア義務化”に関する協定書です。市としては国の方針を受け、独自に補助金の枠を設けることで対応してきましたが……」

 資料には細かな文字がぎっしり並び、ところどころに赤字や付箋が残っている。
「当然ながら、私たちも“危険リスク”や“現場サポート”の不足は把握していました。しかし、厚労省の担当部署からは、十分な人員や専門職を配置する予算がなかなか下りなかった。結局、『地域包括支援センターと連携して行う』という建前だけが先行し、現場は苦しいままだったんです」
 風間の言葉は打ち明け話のようでもあり、どこか弁解じみてもいる。慎一は紙面を睨みながら、奥歯を噛み締める。娘の命を奪ったのは、こうした「建前」と「予算不足」の隙間ではないのか。

 すると、横にいた女性職員の中沢が、意を決したように口を開いた。
「課長、私……正直にお話ししたほうがいいと思います」
「中沢君、それは……」
 風間が制止しかけるが、中沢は慎一のほうをまっすぐ見て言葉を続ける。
「実は、佐伯政弘さんのケースについては、市役所内でも問題視されていたんです。要支援2どころか、もっと重度の認知症が疑われる状態だった。それでも、補助金の取り扱い上“在宅継続”を前提にしたままで……」

 彼女の言葉に慎一は思わず身を乗り出す。
「詳しく聞かせてください」
「本来なら、佐伯さんは施設入所や専門ケアを受ける必要があったんです。でも、認知症を重度に設定すると、予算や制度の問題が増えて手続きが煩雑になる。それで担当部署は“まだ独居でいける”と判断したまま……」
 中沢がそう言葉を継ぐとき、風間は顔を強張らせたままテーブルを見つめている。

「つまり、制度を無理やり回している中で、佐伯さんは危険な状態になっていたと。だけど、それを上に訴えても聞いてもらえなかった、ということでしょうか」
 慎一の問いに中沢は苦しげに頷く。
「はい……。私たち現場の職員はどうにもできず、何度か厚労省にも問い合わせましたが、向こうも『従来通りの支援枠内で対応してほしい』の一点張りで。もしそれ以上を求めるなら、市の独自負担になってしまう。財政難の中、議会も首を縦に振らず……」

 結局、子どもたちの“ボランティア”という名の人員を当てにするしかなかった――それが実情だったのだろう。
 慎一は固く拳を握りしめ、「あの家で一体どれだけの悲鳴やサインが見過ごされてきたのか」と胸が痛む。そんなリスクの高い場所に、中学生の娘がひとりで通っていたのだ。
「……お教えいただき、ありがとうございます」
 そう言いながら慎一は立ち上がり、深く頭を下げる。彼を見送る中沢の目には、「ほんの少しでも力になりたい」といった複雑な感情が宿っているようだった。


 外へ出ると、雨は一層強さを増していた。慎一はスーツのポケットから折りたたみ傘を取り出し、急ぎ足で駐車場へ向かう。
 ――誰一人、悪意をもって娘を死なせようとしたわけではない。それは分かる。だが、あちこちに転がっていたほころびを「仕方ない」と誰かが放置し、それが寄り集まってこの悲劇が生まれたのだ。
 運転席に乗り込み、ハンドルを握る慎一の脳裏には、先日テレビで目にした“高齢者排斥”を訴えるデモの様子がちらつく。過激な看板を掲げる若者たちが高齢者に罵声を浴びせる映像に、彼は言いようのない寒気を覚えた。
「彩花の死が、こんな方向に利用されるなんて……」
 唇を噛み、エンジンをかける。ワイパーが激しくフロントガラスを左右に動かし、雨粒を拭いとる。だが、胸の奥に降り積もる暗い感情は、簡単に拭い去れるものではなかった。


もう一つの訪問者

 同じころ、市立病院では刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)が佐伯政弘の病室を訪れていた。入院当初より多少は落ち着いたものの、佐伯の混乱は続いている。うわ言のように「追い出される」「馬鹿にしやがって……」と繰り返し、正気に戻る時間はごく短い。
「佐伯さん、お話できますか。あのとき、どうして彩花さんに手を……」
 蒲田が問いかけると、佐伯はわずかに焦点を合わせるように刑事を見やった。だが、次の瞬間には視線は虚空をさまよい、低い声で何かを呟く。

「俺は……省にはもう……あれを渡すわけには……」
「省? 厚生労働省のことですか? 佐伯さん、昔、官庁勤務だったんですよね。何を“渡さない”つもりだったんです?」
 蒲田は、先日病室で見かけた書類や写真が何かの手がかりになると睨んでいた。佐伯が混乱の中で口にする“省”が、厚労省を指している可能性は高い。
 しかし、佐伯は「……渡すな……殺される……」と声を震わせ、蒲田を押しのけるように体を縮こまらせる。もはや会話が成立しない。

「分かりました、また来ます。お大事に……」
 蒲田は苦い表情で病室を出ると、看護師に「変化があったらすぐ連絡を」と申し送りして、廊下を歩いた。病院の窓の外は雨模様で、まるで一日がずっと夕方のように暗い。
 ――一度、佐伯宅を再度捜索してみる必要がある。
 そう決めた蒲田は、警察署へ戻ると上司に掛け合い、捜索許可と令状申請の準備に取りかかった。
「蒲田、おまえほんとにそこまでやる気か? 単なる認知症事件で、もう容疑者自身も取り調べ不能じゃないか」
 同僚の刑事がいぶかしむように言うが、蒲田は首を振る。
「ただの事故で終わるとは思えないんですよ。被害者は中学生の少女で、加害老人には何か秘密がある。厚労省だかなんだか知らないが、いろいろ不自然すぎる」

 上司は面倒そうな顔をしながらも、「分かった。上に根回しする」と渋々うなずいた。もしこの捜査で何らかの“大物”が背後にいるとすれば、警察内部にも政治的圧力がかかりかねないが、蒲田は腹を括る。
 ――彩花という少女の死の真相が、組織論理で曖昧にされるのは許せない。刑事としての意地と、人としての正義感が彼を突き動かしていた。


取材の深みへ

 夜。フリージャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、自宅アパートの簡素な書斎でパソコン画面とにらめっこしていた。壁には取材メモや記事の切り抜きが貼られ、まるで事件の真相を探るパズルのように、関連情報が線で結ばれている。
《厚労省・老人介護ボランティア義務化 導入経緯》
《佐伯政弘 元官庁勤務?》
《省令改訂? 補助金?》
《認知症データ改竄疑惑?》

「どうやって繋がっているの……?」
 滝沢はスマホをチェックしながら、誰かからの返信を待っているようだった。やがて画面が光り、メッセージ受信を示す通知が出る。差出人は「匿名希望」。
 ――先日、滝沢の連絡先に「佐伯政弘に関する極秘情報を知っている」という名目でコンタクトしてきた人物で、まだ正体は不明だ。
《厚生労働省の内部文書を一部入手。佐伯はかつて省内の一部署と接触していた痕跡がある。詳細は直接会って話したい。》

「やっぱり何かある……!」
 滝沢の胸が高鳴る。佐伯がただの元官公庁職員だったわけではなく、厚労省の“ある部署”との関わりがあった――しかもそれが認知症や介護制度に直結する秘密ならば、今回の悲劇は単なる偶然の事故とは言えなくなるかもしれない。
 ひとりごちるように「これは大スクープの予感……」と呟きながら、滝沢はノートPCを閉じ、明日以降の取材計画を頭の中で組み立て始めた。少しゾクゾクするような興奮と、あまりにも大きな闇を相手にする恐怖心が入り混じり、背筋に冷たい汗が滲む。


 雨は夜更けに向かってさらに強くなり、街はぼんやりとした街灯の光に濡れていた。
 娘を亡くした父は、市役所で手に入れた断片的な情報を握りしめながら真実を追い始め、刑事は捜査令状を準備し、老いた加害者の家を再調査しようと動き出す。ジャーナリストは闇にうごめく証拠を掴もうと手を伸ばし、政府や厚生労働省は沈黙を続けながらも水面下で火消しに奔走している。
 そして、街の空気は「高齢者をどうするか」という短絡的な議論に沸騰し、過激なデモの予兆が日に日に増している。すべてが散らばった糸のように見えながら、どこかで一本の線に繋がっているような、不気味な予感――。

 彩花を喪った痛みと怒りは、もう留めようもないほど社会に蔓延し始めていた。果たして、誰がどのようにこの絶望と混乱を止められるのか。あるいはもう、止まらない流れとなってしまったのか。
 夜の闇に雨が叩きつける音が大きくなるにつれ、それぞれの思いが深く沈み込み、孤独に出口を探していた。次第に一つひとつの行動が交錯し、大きなうねりを生み出していく――真実が、さらに大きな波乱と共に姿を現そうとしている。


第十章 交錯する足音

 翌朝、灰色の雲が低く垂れ込める中、三浦慎一(みうら・しんいち)は車のエンジンをかけ、佐伯政弘(さえき・まさひろ)の自宅がある地区へ向かっていた。前日の市役所での情報を得て、さらに深く真相を探らなければならないと感じたのだ。あの家の中には、自分や警察がまだ知らない書類や手がかりが隠されているかもしれない――そんな直感に突き動かされている。

 以前なら、自分ひとりで事件現場を訪れるなど考えられなかった。しかし、娘を失った悲しみと、「このままでは彩花(あやか)の死が何も生まないまま風化してしまう」という恐れが、慎一に行動を促していた。
 ――もし誰も本当の責任を明らかにしないのなら、せめて親である自分が、娘のために事実を掴まなくては。
 レインコートを助手席に放り込み、慎一はしっかりとハンドルを握った。


 同じ頃、刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)もまた、捜査令状を携えて署を出発していた。上司からの最終的なゴーサインが下り、「佐伯政弘宅の再捜索」が正式に認められたのだ。
「なるべく手短にやれよ。世間の目がうるさいし、下手に報道されると面倒だ」
 上司はそう釘を刺したが、蒲田は胸の奥で「こんなふうに“穏便に済ませろ”と圧をかけられる時点で、何かがある証拠だろう」と感じていた。後輩刑事をひとり連れ、捜査車両を出す。小雨の中、ワイパーが雨粒を払うたびに、視界の先にぼんやりとした街並みが浮かび上がる。


 一方、フリージャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、都内のカフェで“匿名希望”の情報提供者を待っていた。ここのところ連絡を取り合っていた人物で、佐伯政弘と厚生労働省の繋がりを示す資料を所有しているという。
「本当に来てくれるのかな……」
 胸に湧き上がる不安を抑えるようにカップを握りしめ、滝沢は店の扉を頻繁に気にする。万一、この情報提供がデマか釣りの可能性も否定できない。だが、もし真実ならば、中学生の死の背景に横たわる大きな闇を暴く決定打になりうる。
 程なくして、背の高い痩身の男が店に入ってきた。灰色のジャケットを着て、帽子を深くかぶり、あたりを警戒するかのようにキョロキョロしている。男は視線を滝沢に向けると、小さく会釈してカウンター席へ向かった。滝沢も“合図”通り、席を立ち上がって男の隣に移動する。

「滝沢さん……ですね。俺は“河合”と名乗っておきます」
 低く絞るような声が聞こえる。間近で見ると、その顔には神経質そうな皺が走り、疲労が色濃く刻まれていた。
「ご連絡ありがとうございます。本当に資料をお持ちなんですか?」
 滝沢が小声で問いかけると、河合は手元のバッグをそっと開き、薄いファイルをのぞかせた。
「ほんの一部だけどね。俺、元々厚労省の外郭団体にいたんだ。そこで佐伯氏の名前を見かけたことがある。といっても、当時は別の名前を名乗っていたかもしれない」

 滝沢はその言葉に目を見開く。「別の名前」とはどういうことか。偽名だったのか、それとも役職名が変わっただけなのか。
「このファイルには“特定介護事業に関する内部文書”と書かれていて、いくつかの名が列記されている。佐伯の名も……だが、何度か上書き修正されているみたいなんだよ」
 河合はファイルを指し示すが、周囲に人がいるため、細かい中身はその場で見せられないらしい。滝沢はうなずくと、さらに踏み込む質問をした。
「それは、今回の義務ボランティア制度にも関係する文書なんですか?」
「おそらくね。どうも、認知症関連のデータを操作して“在宅介護”を推し進めるプロジェクトがあったようだ。その一環で佐伯は何らかの情報を掴んでいたらしい。省の一部上層部にとって都合の悪い――そういう話だ」

 男の言葉に、滝沢は興奮を抑えきれない。「やっぱり……」と口の中で転がすように呟き、できるだけ冷静を装いつつ尋ねる。
「その“情報”とは、具体的に何なんでしょう?」
「俺もそこまでは分からない。ただ、もし佐伯が外に喋れば、厚労省が進めている“義務ボランティア”とか“安価な認知症ケア政策”とかが根底から批判されるような、危ういネタなんだろうな……」
 河合は言葉尻を濁した。だが、その表情からは「これ以上は下手に口を開けば自分の身も危ない」という恐れが伝わってくる。滝沢は歯噛みしながら「分かりました。ファイルは……」と切り出すと、河合は「ここでは渡せない。後日、連絡する。すまないが、ここを出るよ」と立ち上がる。

 わずか十分ほどのやり取りの後、河合はひっそりと店を出た。滝沢はまるで短い悪夢から醒めたような感覚を覚え、冷めかけたコーヒーを一気に飲み干す。
「認知症データの操作……厚労省の上層部……やっぱり、まさかと思ってたが、これは大きすぎる」
 彼女の心臓は激しく鼓動していた。これが事実なら、中学生少女の死が“医療費や社会保障費を抑えるための闇”に巻き込まれた可能性さえある。滝沢は手帳を取り出して走り書きをしつつ、急いで支払いを済ませて店を後にした。目指す先は、取材拠点のアパート――あそこでもう一度、取材メモやネットワークを総動員して裏を取らなければならない。


 同日の午後。冷え込む小雨の中、三浦慎一が佐伯政弘宅の近くに車を停めると、向こうから走ってくる一台の捜査車両と鉢合わせた。車から降りてきたのは私服姿の刑事・蒲田修二。
「……三浦さん」
 蒲田は慎一の顔を知っていた。彩花が亡くなった直後、警察が事情聴取を行った際に短く言葉を交わしていたからだ。
「これは……捜査令状が下りたとか、そういうことでしょうか?」
 慎一が静かに問いかける。蒲田は頷くと、後輩刑事と共に車から令状のコピーを取り出し、見せてくれた。
「佐伯宅を再捜索します。認知症とはいえ殺人事件の容疑者ですからね。必要な書類や証拠品をもう一度見落とさないように探ります」

 雨音がアスファルトを叩き、ふたりの間に緊迫した空気が流れる。慎一は迷った末、「私も同行させていただけないでしょうか?」と申し出た。
「法律上は……難しい面がありますが、娘さんのこともありますし、よほど邪魔にならなければ。上には黙っていてくださいね」
 蒲田は少し苦笑しながら承諾し、慎一と後輩刑事を伴って佐伯宅の古い門扉を開く。雑草まじりのアプローチを進むと、玄関ドアにかかった錠は警察がすでに封印していたはずだが、施錠のテープはきちんとされたまま。内部に侵入者があった形跡はない。

 どこか生々しい気配が張りつく居間へ入ると、湿った空気が肌にまとわりつく。古い畳と散乱した新聞の匂いが、事件後もほとんど片づけられていない事実を物語る。そこには、彩花が最期に倒れ込んだ痕跡がかすかに残されているような気がして、慎一は胸が詰まる思いだった。
 蒲田は書類棚やタンス、床に散らばる封筒や雑誌を丁寧にチェックしていく。後輩刑事は写真撮影と記録を担当。慎一は畳の上を歩くのさえ申し訳なく感じながら、視線だけで周囲を窺う。
「まるで時間が止まっているみたいだ……」
 ぽつりと呟くと、蒲田が小声で「ここに住む人の心も止まっていたんでしょう」と返す。認知症が進んだ独居老人が置かれた過酷な現実が、この部屋そのものに滲んでいた。

 しばらくして、蒲田がタンスの奥から古びた革製のフォルダを見つけ出す。
「何だ、これは……? 役所のマーク? いや、違うな」
 ホコリを払い、表紙を開けると、そこには省庁や企業らしき名前が断片的に書かれた資料がいくつも挟まっている。メモ書きのような走り書きがあり、線で繋がれたキーワードの中には「認知症試験プロジェクト」「NPO法人」「特定外郭団体」といった文字が目についた。
「これは……」
 慎一も横から覗き込み、その紙面の一部に「厚生労働省○○局 外部調査対象」と赤字で書かれているのを発見する。蒲田がさらにページをめくると、「絶対に渡すな」とか「奴らの思惑を潰す」といった物騒なメモが佐伯の筆跡らしき文字で残されていた。

「どういうことですか……? 佐伯さんは、厚労省の何かを暴こうとしていたのか……?」
 慎一が息を呑む。蒲田も唇を曲げ、思考を巡らせている。
「これを見て分かるのは、佐伯が何らかの形で“省の介護政策の裏”に関わっていた可能性があるってことですね。認知症を抱えながらも、昔の仕事の記憶を頼りに、何かを記録していたのかもしれない」

 さらに捜索を続けると、押し入れの奥に雑誌やアルバムが積み重ねられている一角があり、その下から小さな金属ケースが出てきた。鍵がかかっていたが、後輩刑事が器具を使って開錠する。
 中には古い名刺や写真が数枚――若かりし頃の佐伯と、いかにも官僚風のスーツを着た複数の人物が写る集合写真。その人物の胸には「厚生省」と書かれた名札もある。さらに、裏面には「S省の研究会メンバーと祝賀会にて――昭和○○年○月」と達筆で書かれていた。
「やっぱり……昔は省関連で働いていたんだ」
 慎一がかすれた声を上げる。蒲田は写真をスマホで撮影しながら、「ただの下級職員だった可能性もあるが……この書類を見る限り、相当深いところまで関わっていたかもな」と唸る。

 そうして入念に資料を確認しているうちに、表の道路から人の気配がした。警察車両を見つけて集まってきた野次馬か、それとも別のマスコミかもしれない。後輩刑事が玄関を少し開け、「今日は捜索中です。お引き取りください」と声を張り上げる。
 だが、その声に混じって聞こえるのは、どこか妙な怒声だ。数人分の足音が近づき、「なんだ、警察か……」と低い声が漏れる。窓の隙間から外を覗くと、黒いパーカーやマスクを着けた若い男たちが数名、スマホを掲げて動画を撮影しているようだった。
「こいつが殺人老人の家か?」「中学生を殺すなんて、おかしいだろ。やっぱ老人はみんな危険だ」
 彼らのTシャツには「高齢者排斥を断行せよ」「国は若者を守れ」といった過激な文言がプリントされているのが見える。彼らはSNSを通じて組織された過激グループらしく、ここ最近増えてきた若年層の激しいデモや抗議行動の一派だろう。

「困ったな……。こういう連中が来ると、現場が荒れてしまうかもしれない。捜索どころじゃなくなる」
 蒲田が眉をひそめると、慎一も落ち着かない面持ちになる。事件の真相を探ろうとしている最中に、さらなる社会的対立の象徴のような人々が押しかけてきた。
 外では「早く出てこい!」「どうせ警察も老人をかばうんだろ?」と挑発するような言葉が飛び交う。後輩刑事が電話で応援要請をしつつ、「落ち着いてください」と説得を試みるが、相手は逆上寸前だ。

「もう一刻も早く引き上げたほうがいいかもしれません。必要な資料はだいたい押収できましたし……」
 蒲田がそう提案する。慎一は後ろ髪を引かれる思いで一度は口を開きかけるが、窓の外にいる過激な若者たちの様子を見れば、これ以上ここに留まるのは危険すぎる。
「仕方ありません……もう充分なだけ回収できましたし、これを詳しく調べるしかないですね」

 後輩刑事が押収品をまとめた袋を抱え、蒲田と慎一は玄関を出る。外では、やはり過激派グループが「見ろよ、あいつら老人をかばってたんだろ?」などと叫び、スマホで撮影している。彼らの視線には怒りや不信の色が濃く、少しでも刺激すれば暴徒化しかねない雰囲気だ。
 蒲田は手短に「我々は捜索中だ。協力できない」とだけ言い残し、慎一とともに足早に警察車両へ乗り込む。数人の若者が罵声を浴びせながら車を叩こうとするが、すぐにパトカーがサイレンを鳴らして駆けつけ、一触即発の空気がぎりぎりのところで収束していく。

 車が通りを曲がり、騒ぎの声が少しずつ遠のいていく中、慎一は後部座席で押収袋を見つめたまま、改めて胸が締めつけられるのを感じていた。自分の娘を殺した男が、認知症の裏で何を隠そうとしていたのか――それを解き明かすためには、まだ多くの障害があるだろう。
 さらに街では、高齢者への暴力や排斥運動が実際に起こり始めている。彩花の死をきっかけに噴き出した怒りや憎悪が、どこへ向かってしまうのか。
 蒲田も、ハンドルを握る後輩刑事に向かって、荒い息を整えながら言った。
「このままいけば、本当に最悪の事態になるかもしれないな。……俺たちは、せめて真実を明らかにしてやらないと」

 車内の空気は重く、雨脚はさらに強まっていた。押収した資料の中には、“誰も知らない闇”を暴く鍵が潜んでいるのか、それともさらなる絶望を呼ぶだけなのか。
 しかし、父も刑事も、もう後戻りはできない。小さな少女の死を踏みにじるように激化する世論と、なおも沈黙を守る国の中枢――すべてが加速度的に交錯し始める中、歯車は否応なく回り続けていた。



第十一章 暴かれはじめる闇

 警察車両を降りたのは夕刻近く。しとしと降り続けていた雨はようやく小康状態になり、空にはほんの少し夕焼けがのぞき始めていた。蒲田修二(かまた・しゅうじ)刑事と三浦慎一(みうら・しんいち)は、署の一室へと移動し、あの古い家から押収した資料をテーブルに並べていた。

 薄茶色の革フォルダや封筒から取り出された書類の山には、「厚生労働省」「外郭団体」「認知症ケア」「在宅介護推進」など、おなじみのワードが目立つ。だが、その中に混在するのは、佐伯政弘(さえき・まさひろ)の手書きのメモや、何度も上書きされたような資料コピーだった。読み込みがいのありそうなものが次々と出てくるが、断片ばかりで体系立っていない。

「うーん、どれから見ればいいのか……」
 慎一は資料を手に取り、ため息交じりにつぶやく。娘・彩花(あやか)を失った悲しみと怒りを胸に秘めたまま、こうして押収資料に向き合っていると、改めて「なぜこんなことに」と胃の奥が焼けつくようだった。
 一方の蒲田は、職務上慣れた手つきで要点らしき箇所に目を走らせ、付箋を貼っていく。
「まず、佐伯さんがどんな仕事をしていたのか、ざっと洗い出します。時期は ‘昭和○○年’ とか ‘平成初期’ って書いてありますね。厚労省の前身、当時は『厚生省』だったこともある。あと、ここにある『外郭団体』ってのは、国の事業を受託していた法人でしょう」

 くぐもった蛍光灯の光の中、二人は時折言葉を交わしながら作業を進めていく。後輩刑事が撮影した写真のデータもパソコン画面に表示しており、そこには佐伯が若い頃に官僚風の男性たちと並ぶ姿が鮮明に映っていた。写真裏には「昭和○○年、厚生省○○局研究会」と書かれている。
「やはり、佐伯さんはただの下級職員じゃないな……。研究会のメンバーってことは、何らかの専門知識を持っていた可能性が高い」
 蒲田がそうつぶやくと、慎一も息をのむ。
「ここに ‘認知症対策プロジェクト’ という手書きメモがあります。『費用削減のため在宅誘導を強化』とか、『施設の拡充は凍結、データ操作……?』 なんだこれは」

 指差した先には、赤鉛筆でぐりぐりとラインを引いた跡がある。
「データ操作……って、まさか認知症患者の数や症状の重度分類を、都合よく改変してたんでしょうか。そうでもしないと、『在宅ケアで十分』なんて結論を押し通せませんから」
 蒲田は低く言葉を絞り出す。
「少なくとも、佐伯さんはそれを知っていて、何かを暴こうとしていた――あるいは阻止しようとしていた、というふうにも読めますね」

 慎一の脳裏には、市役所で中沢という若い女性職員が告白してくれた言葉が浮かんだ。
——“佐伯さんは本当は要支援2どころじゃなく、重度の認知症が疑われていた”——
 もし国や地方自治体が「介護費や施設費を節約するため、在宅でやっていける高齢者を増やす」方針をとっていたなら、重度患者でも“軽度”と見なされる恐れがある。そこへ、学校の義務ボランティアが駆り出された結果が、彩花の死だった――。
「彩花はそんな巨大な歯車の犠牲になったのか……?」
 慎一の声には怒りや苛立ちというより、疲弊感が混ざっていた。あまりにも大きな構図に娘が巻き込まれたことが見えてくるにつれ、言葉を失わざるを得ないのだ。

「三浦さん……」
 蒲田が慎一の表情をうかがう。そして「何としても、これを曖昧に終わらせるわけにはいきません」と強い口調で言った。
「僕も上からは『下手に騒ぎ立てるな』って言われそうな予感がある。でも、一人の中学生が命を落としたんですよ。しかも、まだ疑問だらけだ。正義とか言うのは大げさかもしれないけど、警察としてやれる範囲は全力でやります」

 慎一はかすかにうなずいた。刑事と父親――立場は違えど、同じ方向を見ている者がここにいる。それだけが、今の心の支えだった。


うごめく組織と火消しの動き

 同じ日の夜、厚生労働省の会議室では、幹部クラスの一部職員たちが極秘の打ち合わせをしていた。扉には「関係者以外立入禁止」の札がかけられ、看板も何も出ていない。
 長机を挟んで並ぶ数人のスーツ姿は、それぞれ官僚としての経歴が長いらしい落ち着きを見せているが、表情には焦りがうかがえる。会議室の端のスクリーンには、今回の事件を報じるニュースの画像が映し出されていた。「中学生少女死亡」「老人介護ボランティア問題」「認知症加害事件」といった見出しが躍る。

「……今回の件、マスコミがやたら騒ぎ立てている。世論も荒れ始めた。どうにか火消ししないと、我々の計画に支障が出るぞ」
 一人の中年官僚が険しい表情で言い放つと、隣に座る初老の幹部がじっと画面を睨みつけた。
「介護ボランティア義務化そのものへの批判が強まっているが、あれは元々財政難を切り抜けるための国策だ。高齢者福祉に莫大な予算を回せない以上、若年層を上手に活用するしかない。だが、この惨劇があった以上、そう簡単には進められないだろうな……」

 別の幹部が低い声で続ける。
「報告によると、佐伯政弘という男が過去に省の研究プロジェクトに関わっていた可能性がある。しかも認知症が進行してから、何らかの内部情報を握ったまま暴走しはじめた形跡があるらしい」
「もしそれが世間に漏れれば、在宅誘導のために認知症データを意図的に操作した疑いが出てくる。絶対に防がねばならん」
「分かっている。警察にも圧をかけたいが、この事件はさすがに扱いが大きすぎる。下手をすれば責任追及されるのはこちらだ」

 室内には神経質な沈黙が落ちる。官僚たちは誰も「自分が犠牲になる」とは思っていないが、下手に動けば命取りになりかねない状況だ。
「まずはマスコミと国会議員に形だけでも ‘対策委員会を立ち上げた’ と発表して時間稼ぎだ。あと、現場の自治体には ‘出来る限り落ち着いた報道を’ と要請してもらう。厚労省としては ‘予想外の事故’ というスタンスを崩さないこと。……いいな?」
 最後に声を発した初老の幹部が皆を見回す。誰もが黙ってうなずいた。部屋の外には数人の職員が警戒するように立っており、誰かが耳をそばだてていないか常に目を配っている。こうして“火消し”の方針は水面下で固められ、議事録にも残らないまま秘密裏に散会となった。


交わる縁

 一方、都内のアパートに戻ったフリージャーナリスト・滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、昼間に接触した「河合」と名乗る謎の情報提供者のファイルを慎重に開いていた。と言っても、受け取ったのは数ページのコピーのみで、ほとんどは “後日渡す” と言われている。
 しかし、そのわずかな抜粋にも「認知症データ管理」「外郭団体”“G財団”との共同事業」などの文字が浮かび上がり、厚労省の特定部局と繋がっている事実が見て取れる。コピーには黒塗りがあちこち施されているが、その黒塗りの下に「佐伯」という字がうっすら見える箇所もあった。

「やっぱり佐伯政弘は、彼らにとって ‘不都合な証人’ だったのね……」
 滝沢はノートパソコンを立ち上げ、事件関連のタイムラインを整理しながら新たな記事の構成を練っていく。そこに加える形で “厚労省データ操作疑惑” の一端を匂わせれば、世論はさらに沸騰するかもしれない。しかし――
「匿名情報だけじゃ確証に欠ける。確実な証拠を握らなきゃ、どこかで ‘ガセだ’ とか ‘陰謀論だ’ って一蹴されるだけ……」

 指を唇に押し当て、滝沢は思考を巡らせる。直接病院に行って佐伯と接触しようにも、認知症が進行していると聞くし、警察のガードも固いだろう。一方、娘を亡くした三浦慎一という父親が独自に動いているという噂も耳に入っている。彼や、担当刑事と接触を試みれば、押収資料の中にさらに確信を得るヒントがあるかもしれない。
「もういっそ、こちらから連絡を取ってみようかしら」
 携帯を手に、滝沢はアドレス帳を開く。地道に築いてきた人脈には、警察関係者や市役所の知り合いもいる。中には「三浦慎一さんに心当たりがある」という人物だっているかもしれない――。
 彼女は新たな記事を配信すべきか迷いつつも、まずは水面下で当事者と接触することを優先しようと決めた。やみくもに世論を煽るだけが目的ではない。事実を捻じ曲げられないうちに、真相を掴まなくてはならないのだ。


再会と決意

 警察署での資料整理を終えた頃、すでに夜は深まっていた。蒲田は慎一に「何かあれば連絡を」と告げてから、控えめに同僚の視線を避けるようにして署内を出る。慎一も、気づけば随分と疲労が溜まっていた。短い別れの挨拶を交わし、それぞれの帰路につこうとする。
 しかし、車に乗り込んだ慎一は、すぐにエンジンをかける気になれず、ハンドルにもたれるようにして目を閉じた。
「……彩花、俺は何をすればいいんだろうな」

 あの子が亡くなったあの日から数週間。傷口は深まるばかりだが、まだ怒りや悲しみを十分に表すことすらできていない気がする。周囲に責めたい相手が多すぎて、誰にもぶつけられないのだ。
 少しだけ落ち着きを取り戻してから、スマートフォンを取り出す。通知がいくつか溜まっており、無言の留守電もあるようだ。保護者仲間や市役所関係者からの連絡かもしれない。
 何気なく画面を開くと、見慣れない番号からのショートメッセージが届いていた。
《突然のご連絡失礼します。ジャーナリストの滝沢と申します。娘さんの件でお話を伺いたいのですが、もし可能でしたらお時間をいただけませんか。》

「ジャーナリスト……?」
 一瞬、あの押しの強いワイドショー系の記者かと警戒の色を浮かべたが、名前に聞き覚えはない。メッセージの文面は礼儀正しく、無理に接触しようという雰囲気ではなさそうだ。
 慎一は迷った末に返信の文を打ち始める。
《私に何を聞きたいのですか? 今はマスコミの取材には答えられる心境ではありません》

 送信ボタンを押したあと、すぐに返事があるかと思ったが、数分待っても既読がつかない。夜も遅いし、今は連絡が返ってこないのかもしれない。
「ジャーナリストか……もしかすると、娘のためにも、メディアを利用すべき場面があるのかもしれないな」
 自問するようにそう呟きながら、慎一はようやく車のエンジンをかける。メーターの光がぼんやりと浮かび上がり、車体がゆっくりと駐車場から滑り出す。そのとき、再びスマホの通知音が響いた。
 信号待ちで画面を確認すると、滝沢冴子からの返信が届いていた。
《少しだけで構いません。佐伯政弘さんと厚労省の関わりについて、重要な情報をお伝えできるかもしれません。彩花さんの死の真相を解く鍵になる可能性があります。ご検討ください。》

「重要な情報……?」
 ハンドルを握ったまま、慎一は思わず息を呑む。
 佐伯が握っていた書類と、厚労省の闇を示唆する数々の痕跡――すべてが繋がる兆しがあるとしたら、彩花の死がもたらした“苦しみ”は、少なくとも何かを変える原動力になり得るかもしれない。
 そう思った瞬間、慎一の胸にはわずかながら光の筋が射し込むのを感じた。


第十二章 交わる視線

 翌日の午後遅く、三浦慎一(みうら・しんいち)は都内の喫茶店にいた。木目調の落ち着いたインテリアと、コーヒー豆の香りが漂う小さな店。カウンターが見える位置のテーブルに腰を下ろし、スマートフォンを指先で弄りながら、少し落ち着かない様子を見せている。
 店内には数組の客がいるが、どこか静寂で、それぞれが他人に干渉しない空気感がある。やや照明が落とし気味で、時間の流れもゆっくりとしているようだ。

 やがて扉が開き、取材で見慣れたフリージャーナリストとは違う、少し洗練された雰囲気の女性が目に入った。髪を一つに束ね、スーツ風のジャケットにパンツルック。こちらを見つけると軽く目礼し、迷いなく歩み寄ってくる。
 彼女こそ昨夜連絡を寄こした、滝沢冴子(たきざわ・さえこ)だ。ジャーナリストとしてのキャリアは決して浅くないようで、話す前から毅然とした印象を受けるが、今はどこか遠慮がちな面持ちで慎一の前に立つ。
「三浦さん、今日はお時間をいただいてありがとうございます。滝沢と申します」
「どうも……。こちらこそ、連絡をいただいて驚きました」

 ぎこちなく会釈を交わし、滝沢が向かいの席に腰を下ろす。互いに何を切り出そうか迷っている空気が一瞬流れたが、先に口を開いたのは滝沢だった。
「突然のご連絡で不快にさせてしまったら申し訳ありません。正直、私も“ワイドショー的な取材陣”と同一視されるのは避けたいと思っておりまして……。実は、先日ある内部告発者と接触し、佐伯政弘さんと厚生労働省との深い関係を示す文書の一部を見せてもらったんです」

 そう言いながら、滝沢はバッグから細いファイルを取り出す。中身はまだ数枚程度の資料のコピーしかないらしいが、その一部には「認知症データ管理プロジェクト」「介護費削減目標」といった赤字が記されていた。加えて「S省/厚生省/当時担当者——佐伯(仮)」などと手書きで残されている箇所も。
 慎一はその文字列を見つめ、ここ数日で知り得た情報と照合する。警察が押収した資料とも不気味なほど符合しているように思える。
「これは……。やはり厚労省が介護費を抑えるために、認知症患者のデータを操作していた可能性があるんですね」

 滝沢は小さくうなずいた。
「私がまだ裏取り途中ですし、これだけで断定するのは危険です。ただ、佐伯さんが若い頃に省の外郭団体で介護・認知症関連の研究会に参加していたのはほぼ確実です。それが、後に “在宅介護推進” を国が強引に行う際に問題になりかけたらしく……佐伯さんは何らかの形で“内部情報”を握っていたのではないか、と」
 言葉を区切り、テーブルの上で手を組む滝沢。慎一も暗い瞳を閉じ、深く息を吐く。

「もしも、その内部情報が……私の娘を死に追いやる一因になっていたとしたら……考えるだけで腹立たしい。いや、それだけじゃない。あの制度自体が、最初から破綻していたんじゃないかって……」
 慎一は語尾を震わせて言葉を押し出す。彩花(あやか)の死に、国の闇が潜む――大げさに聞こえるが、そう考えれば考えるほど合点がいく点が多い。

 滝沢は相手の感情を刺激しすぎないよう、慎重に声をかける。
「三浦さん、私も無責任には動きたくありません。目指しているのは ‘炎上商法’ でも ‘スキャンダル暴露’ でもない。あくまで事実を世に問い、真実を解明することです。そうすることで、二度と同じ悲劇が繰り返されないようにしたいんです」
「……ありがとうございます」

 慎一はふっと視線を落としたまま、やや潤んだ目を見せる。心の奥底で「誰か一緒に立ち向かってくれる人はいないのか」と叫んでいた思いが、ほんの少し報われる気がした。
「ただ、一つお聞きしたいのですが。三浦さんは警察の捜査に協力されていると聞きました。そちらで何か有力な証拠を……」
 滝沢が言葉を探りながら問いかける。慎一は一瞬、どこまで話していいものか迷うが、すでにジャーナリストとしてある程度の情報を握っている滝沢なら、黙っていても遠からず事実に辿り着くだろう。

「ええ。刑事さんたちが佐伯宅からいろいろな書類を押収して、解析を進めている。内容は、あなたが言っていた “在宅介護推進の裏” を示唆するようなものが多い。中には“認知症を軽度と偽って在宅に回す” なんてメモも……」
 滝沢が息を呑む音が聞こえる。やはり、推測が実体を伴ってきた事実に衝撃を受けているようだ。
「となると、佐伯さんは元々それに抗議していたのか、それとも加担していたのか……。認知症が進んでからは、もはや自分が何をしようとしていたのか、混乱したのかもしれませんね」

 ふたりの間に、小さな沈黙が落ちる。
 ――もしかすると、佐伯は自分の情報が “誰かを害する” または “自分を陥れる” と恐れ、さらに義務ボランティアとして通ってきた彩花を “省の回し者” と疑って暴走したのではないか。慎一も滝沢も、その可能性が頭をかすめる。もしそうであれば、あまりにもやりきれない。
 彩花は純粋な気持ちで訪れただけなのに――と、慎一の胸が苦しくなる。

「三浦さん……いえ、慎一さん。よければ、私に協力していただけませんか。すぐに記事化するのではなく、まずは事実関係を固めるために、あなたや刑事さんが持っている情報の一部を共有してほしいんです。厚労省の闇をえぐるとなれば、相当の反発や圧力がかかるでしょう。でも、あなたと私、そして警察という三方向から動くことで、確固たる証拠を世に出せるかもしれない」
 滝沢は決意をこめた視線を慎一に向ける。彼女はジャーナリストとしての情熱と使命感を隠すでもなく、まっすぐな目をしていた。

 慎一は迷いながらも、救いの綱を手渡されたように感じる。今までは手探りで真実を追ってきたが、警察だけではいつ “政治力” や “上からの圧力” で捜査が潰されるか分からない。一方で、マスコミに安易に情報を漏らせば、娘の死を面白おかしく消費される可能性だってある。
 けれど、滝沢の態度を見れば、慎一の大切なもの――娘を失った痛みや無念さ――を蔑ろにするような人物ではなさそうだ。

「……分かりました。ただ、刑事さんたちには話を通さないといけません。上手く調整できるかは分からないけど、あなたを紹介するくらいはできると思う」
「本当ですか……?」
 滝沢の瞳がかすかに潤むようにも見える。彼女もまた、追い詰められる取材を覚悟しているのだろう。厚労省の高齢者介護政策に関わる“不正疑惑”となれば、国全体を揺るがす大スクープになり得る。だが、それに比例してリスクは高い。

 ふと、店内の照明が少し明るくなった。マスターが新しい豆を挽き始めたのか、香ばしいコーヒーの香りがもう一段濃くなる。滝沢はスマホで時間を確認し、メモ帳を閉じた。
「では、必要なときにまた連絡を入れます。お互い慎重に進めましょう。すみません、先に失礼しますね」
 彼女は一礼すると、バッグを持って立ち上がる。慎一もつられて席を立ちかけるが、滝沢は遠慮がちに手を振って「どうかゆっくりなさってください」と言い、会計を済ませて出ていった。

 残された慎一は、わざわざ店主に「すみません、もう少しだけ」と言って再び腰を下ろす。ここ数日とは違う心のざわめきが収まらない。
 ――もし、あの制度が根本から危険なものだったとしたら、彩花を失った苦しみはどこにぶつければいいのだろう。
 この国の高齢化や財政難が背景にあるなら、誰を糾弾しても根本の問題は解決しないかもしれない。さらに「安楽死や高齢者排斥」を唱える若者たちが社会に混乱をもたらし始めている現状も見逃せない。歯車が狂い始めたら、止めるのは容易ではないだろう。

 窓の外を眺めると、いつの間にか陽は西に傾き、ビルの狭間から夕日が射し込み始めている。店の入り口にかけられた木製の看板が、橙色に照らされていた。
 慎一はそっと目を閉じる。娘の笑顔がまぶたに浮かび、同時にあの悲痛な病院の光景が脳裏を焼き付ける。それでも、先ほど感じたわずかな“光”を胸にとどめながら、彼は決意を新たにした。
「彩花……お前の死を、絶対に無駄にしない。もう少しだけ、父さんに力を貸してくれ」

 静かに呟き、残りのコーヒーを一気に飲み干す。苦味とわずかな酸味が舌に広がり、頭が少しすっきりしていくような気がした。ジャーナリストと刑事、そして父親という三者が手を取り合えば、きっと真実に近づけるはずだ――。
 店を出るころには外の空気が冷たくなりかけていたが、慎一の背筋はどこか伸びていた。夕暮れの街を照らすオレンジの光が、彼の横顔を一瞬だけ優しく染め上げている。


第十三章 蠢く思惑

 朝早くから止まぬ雨が地面を叩き、灰色の雲の下にビル群がかすんで見える。そんな中、刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)は捜査車両を降り、警察署のエントランスを駆け抜けた。夜勤明けの同僚たちとすれ違いざまに言葉を交わす暇もなく、足早に資料室へ向かう。数日前の佐伯政弘(さえき・まさひろ)宅再捜索で押収した資料の解析が、ようやく大詰めを迎えようとしていたからだ。

 午前中、蒲田は相棒の後輩刑事とともに押収資料のファイリング作業を進める。コピーやスキャンを行いながら、キーワードを抽出し、ホワイトボードに貼り付ける。
 「“認知症データ操作”」「“在宅介護誘導”」「“予算圧縮”」「“厚労省○○局”」――並べられた単語の数々は、見るからに不穏な相関関係を漂わせる。
 さらに「佐伯の研究会の写真」や「外郭団体との交流記録」「省内部の覚書らしきメモ」などが加わり、じっと見つめるだけで頭が痛くなるほど情報量が多い。

「どうやら、あの男はかつて厚生省(現・厚労省)の ‘特定介護研究プロジェクト’ に参加していたのは間違いないですね」
 後輩刑事がファイルをめくりながら言う。
「はい。しかも、ただの現場職員じゃなくて、技術やデータ分析に長けていた形跡もある。認知症や長期介護のコスト計算モデルを担当していたっぽい」
 蒲田は文字を追いかけながら、ひそかに胸をざわつかせる。
 ――“コスト計算モデル”という言葉。少子高齢化や財政逼迫の中で、どれだけ医療費や介護費を抑え込むかが、国にとって大問題なのは知っている。だが、この資料から滲むのは “切り捨てられた現実” だ。認知症高齢者の数値を低く見せかけたり、要介護度を操作したりして、在宅ケアを強制するような方針が練られていたなら……。

 ボールペンを軽く回しながら、蒲田はうなるように言葉を紡ぐ。
「介護ボランティア制度も、その ‘在宅ケア最優先’ の延長線上にあったと考えれば納得はいく。もともと人手不足・予算不足で、苦し紛れに学生を借り出した……。ただ、それによって中学生の少女が殺されてしまった。政府は今、どう釈明するつもりなのかね」
 後輩刑事も複雑な表情を浮かべる。
「僕らとしては ‘殺人事件’ として捜査を進めないといけませんが……加害者は認知症重度疑い。法的責任どころか、まともな供述も得られない。今は病院で隔離されてるし……。しかも背後に国の政策が絡むとなると、上の方から ‘無理をするな’ と言われるかもしれません」

 そう、上層部の動きだ。実際、蒲田は既に軽い圧力を感じている。幹部が「佐伯宅の捜索結果を安易に外部へ公表するな」と暗に釘を刺してきた。かといって引き下がるわけにはいかない。あの少女・三浦彩花(みうら・あやか)の死と、その父親・慎一(しんいち)の苦しみが、蒲田を突き動かしていた。

 ふと、署の内線が鳴り、後輩刑事が受話器を取る。受話器越しの声を聞き、目配せしてから蒲田に向かって言う。
「蒲田さん、三浦さんが面会に来てるそうです。受付で待ってるみたいで……」
「三浦さん? こんな朝っぱらから、何だろう」

 蒲田はワイシャツの袖をまくり直し、後輩を伴って受付へ向かう。そこには、雨でスーツの肩を少し濡らした慎一の姿があった。ハンカチで髪を拭いながら落ち着かない様子だが、どこか決意を秘めた瞳をしている。
「三浦さん……どうかされました?」
 蒲田が声をかけると、慎一は深く頭を下げる。
「急にすみません。実は、相談したいことがありまして。ほかの人に話す前に、あなたに会っておこうと思ったんです」

 蒲田は少し目を瞬かせる。思い当たる節がないでもない。――もしかすると、フリージャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)絡みの話か? 彼女の名前は少しだけ聞いたことがあるし、最近なにやら動いているという噂を耳にしている。
「わかりました。応接室、空いてるかな。後輩、おまえは資料室を頼む。俺が三浦さんを通してくる」

 無機質な廊下を進み、簡素な応接室へ通された慎一は、一息ついてから口を開いた。
「突然すみません。実は、ジャーナリストの滝沢さんという方と連絡を取るようになりました。彼女が、佐伯さんと厚労省の ‘ある疑惑’ について詳しく調べていて……」
 蒲田はやはり、という表情を見せる。
「なるほど。こっちにも、滝沢って名前は少し聞いてます。ネットで記事を書いてるフリーの方ですよね。いきなり ‘スクープ記事を出す’ とか言われると厄介ですが……どう思われます?」

 慎一は言葉を探しながらも、滝沢から見せられた資料のコピーや、彼女の真摯な態度を蒲田に伝える。
「簡単に言うと、彼女も ‘同じ方向’ を向いてくれてるように思えます。彩花の死を無駄にしないため、厚労省や政府が隠蔽しようとしている部分を世に明らかにしたい、とね。僕自身、どこまで踏み込むべきか迷っていたけれど……正直、警察だけじゃ難しい現実もあるでしょう?」

 蒲田は唇を結んだまま、軽くうなずく。認知症で加害責任が問えないとなれば、警察的には “不起訴相当” となる公算が高い。捜査結果も公表しづらく、被害者遺族にとっては納得しがたい “闇” が残るだろう。
「正直に言えば、捜査機関が国の政策にまで切り込むのは至難の業です。政治との癒着や圧力がちらつけば、上も腰が引ける。事件自体を ‘不幸な事故’ で落とし所をつけられてしまう可能性がある……」

 慎一は苦渋の表情を浮かべながら、視線を下げる。
「それだけは避けたいんです。彩花が命を落としたのは ‘不幸な事故’ で片づけられるような単純な話じゃない。制度や国の方針がもたらした必然的な悲劇じゃないのか、と……」
 その言葉に、蒲田は深く息をつく。
「分かります。だからこそ、僕も ‘可能な範囲で’ 捜査情報を外に出すことも検討してます。ええ、もちろん違法にならないギリギリのラインで、ですよ。三浦さんも滝沢さんも、うまく連携できるなら悪い話ではないと思う」

 応接室の古い壁時計がカチカチと秒針を刻む。二人の間を空気がゆるやかに流れる。
 すると、慎一が何かを思い出したように言った。
「そうだ。実は、滝沢さんが ‘在宅介護推進に伴う認知症データの操作疑惑’ をさらに確かなものにする資料を持ってくると連絡をくれたんです。ただ、相手からの正式な入手が数日先だそうで……。その間に、あなたと先にお会いできれば、と」
「数日先、ですか。じゃあ、そのタイミングで滝沢さんや、こちらからは捜査関係の担当者も加えて、情報を突き合わせる ‘場’ を設けたほうがいいかもしれませんね」

 蒲田はそう提案し、メモ帳を取り出す。そして慎一が持つ連絡先やスケジュールを控えながら、小声で念を押した。
「一つだけ、お願いがあります。どうか、あまり派手に動かないでほしい。あなたや滝沢さんが先走って、厚労省に ‘怪しい動き’ として察知されると、証拠隠滅や政治的圧力を仕掛けられる恐れがある。僕も警察内部ですべてが味方ってわけじゃないんです」

 慎一は苦笑交じりに、しかし真剣な眼差しで応じる。
「分かりました。娘のためにも、無謀な突撃はしたくありません。あなたと連携する方向で動きましょう」

 こうして、被害者の父と刑事は静かに握手を交わす。どこか暗い影に包まれながらも、そこには確かに “同じ意思” が宿っていた。


一方、街では…

 その日の午後、街頭には不穏な空気が漂っていた。SNSで急速に盛り上がり始めた “高齢者排斥” を掲げる若年層グループが、またもデモを行うとの情報が駆け巡り、警察は対策に追われている。彼らの掲げるプラカードやバナーには「認知症殺人を許すな」「老人を甘やかす政府は若者の未来を奪う」など、耳を疑うようなスローガンが並ぶ。
 社会の分断が深まり、テレビの街頭インタビューでも「高齢者を尊重するべき」「いい加減、老人ばかり優遇されすぎだ」と、真っ向から対立する意見が飛び交う。女性アナウンサーがマイクを向けると、しゃがれ声の老女が肩を震わせながら言った。
「こんな歳になって、脅えなきゃならないなんて……命が惜しいなら死ねって、ネットで書かれたりするんですよ」

 政府や地方自治体は “過激化を避けるよう” 呼びかける声明を出すが、その内容はどこか腰砕けに見える。財政を盾にした “在宅優先” が限界にきていることは周知されはじめ、一般庶民の不安や怒りはぐんぐん膨れあがっていた。


滝沢冴子の取材ノート

 一方で、ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は自宅アパートの小さな書斎にこもり、入手したばかりの内部文書の断片とにらめっこしていた。昼過ぎに “河合” と名乗る情報提供者から連絡があり、追加の文書をデータで受け取ったのだ。
 画面に映し出されるPDFファイルの隅には、薄く “Confidential” の文字が重なっており、それが一部黒塗りされている。そこには「特定モデル事業」「介護費削減」「認知症患者数の矛盾」「外郭団体G財団」といった言葉が躍っていた。さらに、関係者リストと思しき箇所には、やはり “佐伯政弘” の名前が記載されている。

「やっぱり……これでますます確定的になってきたわね」
 滝沢は独りごちながら、データを注意深く保存し、複数のUSBにコピーする。いつ “都合の悪い圧力” でデータを消されてもいいように、万全を期す必要がある。
 そのうえで、取材ノートをめくりながら「三浦慎一さんと蒲田刑事に、この文書の存在を伝えればきっと捜査の後押しになるはず」と思う一方、「まだ決定打に欠ける」とも感じていた。
 ――“認知症データ操作” は役所の内部情報がきちんと示されないと、確固たる証拠にならない。もし厚労省内部で改竄が行われていたとしても、それを証言できる当事者がいなければ、陰謀論扱いされる危険がある。
「どこかに ‘佐伯政弘が直接手掛けた資料’ か ‘担当部署の決裁書類’ が残っていれば……」

 滝沢は記者としての勘が働き、思わずハッと顔を上げる。佐伯は今も病院に入院中だが、もし彼が意識をある程度取り戻し、自分の言葉で何か証言できれば……あるいは。
「認知症の状態だから難しいとは思うけど、わずかな糸口でもいい。何かを口にしてくれれば、そこから具体的に裏を取って証拠を固められるかもしれない……」
 スマートフォンの画面には、先ほど三浦慎一から届いたメッセージが残っている。《刑事とも連携を図ります。近日中に情報を共有できる場を作りましょう》 という心強い文面だ。

「私も、もっと踏み込んで調べないとね。もう少しだけ粘ってみるか」
 そう決意すると、滝沢はPCの画面を閉じ、コートを手に取って外へ向かう。目指すのは県立病院――佐伯が入院中の場所だ。面会は認められないかもしれないが、入口あたりで看護師やスタッフに話を聞けないか試してみるつもりだった。


不穏な輪郭

 同じころ、厚生労働省のある幹部室では、昨晩の緊急会合を経て “情報統制” の進捗が確認されていた。
「マスコミ各社には ‘制度全体を否定しないよう配慮する’ と再度伝えろ。特に介護業界誌や専門家へのインタビューは注意するようにな。過激な報道が広がると国会で揚げ足を取られる」
「はっ。すでに広報部を通じてプレスリリースを流しました。 ‘認知症介護の強化を検討する有識者会議を立ち上げる’ と。時間稼ぎにはなるでしょう」
「当然だ。今回の事件は痛手だが、我々の大きな方針を揺るがすわけにはいかん。少子高齢化を支えるには在宅が基本。そこを批判されたら終わりだ」

 幹部室の空気は粘りつくように重い。誰もが “問題の核心” には触れたくない。佐伯政弘が握っていたとされる内部情報が外部に漏れる前に、あらゆる手を尽くして隠蔽しなくてはならない――そんな焦燥感が漂っていた。

 こうして、多くの人間がそれぞれの立場で “真実” を追うなか、社会全体は急速に不穏な輪郭を帯びはじめている。過激な若者グループによるデモ、高齢者への攻撃、厚労省の政治的火消し、警察内部のジレンマ……。
 どれもこれも、あの中学生少女・三浦彩花が犠牲となった事件を引き金に、ずるずると動き出したかのようだった。まるで、社会の底に溜まっていた泥がかき回され、強い腐臭が漂い始めるように。

 しかし、勇気ある者たちは諦めていない。父親と刑事、そしてジャーナリスト――三つの光が交わる時、曖昧な闇に切れ目を入れる可能性がある。そこにいるのは、歪んだ政策の犠牲になった少女と、忘れ去られようとする老人。
 物語は、これからさらに熱を帯び、激しい衝突へ突き進もうとしていた。
 雨の降りしきる窓の向こう、暗雲に隠れた太陽はまだ顔を出す気配を見せていない。けれど、その雲の裏で、必ず光が存在することを、誰もが信じたいと願っていた。


第十四章 交錯する足音

 翌日、朝方まで降り続いた冷たい雨はようやく上がり、街にはしっとりとした空気が漂っていた。灰色に煙った建物の隙間からは、少しだけ青空が顔をのぞかせる。
 時刻はまだ午前八時。ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、コートの襟を立てながら県立病院の正面玄関へ向かっていた。ここには、事件の加害者となった佐伯政弘(さえき・まさひろ)が入院している。
「面会は難しいかもしれない。でも、少しでも情報が手に入れば……」
 心中でそうつぶやきながら、自動ドアを抜けて広いロビーへと足を踏み入れる。白いタイル張りの床に点在する椅子には、すでに数人の患者や見舞い客らしき人々が腰を下ろしている。ピリッと消毒液のようなにおいが鼻をついた。

 滝沢は受付カウンターに歩み寄り、落ち着いた声で対応に出た看護師に尋ねた。
「おはようございます。佐伯政弘さんという方が入院されているはずなんですが、面会できるでしょうか」
 看護師はファイルをめくり、モニターの画面を確認すると、申し訳なさそうに首を横に振る。
「佐伯さんは今、ほぼ隔離に近い状態です。精神面の不安定が続いていて、一般の面会は難しいんですよ。ご家族の方でしょうか?」
「いえ、実は取材で……」
 滝沢がそう言いかけると、看護師はやはり渋い顔をした。周知のとおり、この老人が“中学生少女を死なせた加害者”とされていることは、病院内でも大きな話題になっているらしい。
「取材の方には、病院としても立場上お答えしかねます。警察も警戒していますので……。申し訳ありません」

 看護師の口調は冷たくはないが、明確な拒絶の意志が伝わってくる。滝沢は想定していた事態とはいえ、わずかに肩を落とした。
「そうですか……。せめて佐伯さんの病状がどうなのか、簡単な情報でもうかがえませんか。私たちは、あの事件の真相を——」
「申し訳ありません。詳しい状況は、担当医や主治医でないと……」

 そう言われると、滝沢はこれ以上食い下がるのは得策でないと判断し、「分かりました」とすっと頭を下げた。無理をすれば病院から強制的に追い出されるリスクもある。ここは大人しく退くしかない。

 ただ、彼女がロビーを後にしようとしたとき、廊下の奥の方を見て、ぎくりと立ち止まった。白衣を着た男性とスーツ姿の男二人が立ち話をしている。そのうちの一人は、以前どこかで見かけたはず……。
「……厚労省の人間?」
 滝沢の脳裏に、わずかに残っている名刺の記憶がよぎる。取材先で見かけた“厚労省 ○○局”の役人とよく似ている。彼らが、佐伯に関して医師と話しているのだとすれば……?

 一瞬、滝沢は近づいて話を盗み聞きするべきかどうか迷った。しかし、ここは病院の廊下。職員以外が立ち止まって耳を立てれば、すぐに不審がられるだろう。結局、警戒されては元も子もないと判断し、そのまま足早に外へ出た。
 ――厚労省が佐伯の病状をどれほど気にしているのか。まるで「彼が正気を取り戻して余計なことを言い出さないか」を確認しに来ているようにも思える。
 滝沢は一気に胸の奥が重たくなるのを感じる。ならばなおさら、この老人の証言が鍵を握るかもしれないと、強く思わずにいられなかった。


動き出す連携

 同じ日の昼過ぎ、都内の小さなファミレスに、三人の姿があった。刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)、被害者の父・三浦慎一(みうら・しんいち)、そしてジャーナリストの滝沢冴子。
 慎一の提案で、互いの顔合わせを兼ねた簡単な打ち合わせを行うことになったのだ。とはいえ、警察としても本来は捜査情報を外部に漏らすことはできない。蒲田は上司の目をかいくぐるようにして、私的な席という形でぎりぎり許可を得ている。

「初めまして。滝沢と申します」
 滝沢が静かに頭を下げると、蒲田は少し不機嫌そうな面持ちで「どうも、蒲田です」と応える。職務上、ジャーナリストと手を結ぶことには抵抗があるのだろう。しかし、彼も三浦慎一の想いを汲み、それに賭けている。

 まず、慎一が現状を簡単にまとめる。
「私は、警察の捜査で押収された佐伯宅の資料の存在を大まかに把握しています。蒲田さんたちも、そこに ‘介護ボランティア制度の闇’ が潜んでいると感じている。一方で滝沢さんは、厚労省の内部文書のコピーを入手したそうで、それが同じ方向の証拠になる可能性が高い」
 そう促される形で、滝沢は「ええ。今はまだ断片的ですが……」と切り出し、スマホに保存した一部ファイルの画面を見せる。

「この通り、データの多くが黒塗りされているんですが、部分的に ‘認知症患者数見積もりの再計算’ ‘在宅・施設割合の目標値’ などの記載が確認できます。さらに ‘佐伯’ という名前もちらほら出てきて……」
「実際、佐伯氏は昔、厚生省の外郭団体で ‘認知症対策プロジェクト’ に携わっていた可能性が高いです。そこから推測するに、当時のデータ操作……つまり、認知症高齢者が重度化していても“軽度”扱いにして在宅へ押し込むようなシステムが、水面下で進んでいたんじゃないかと」

 滝沢の説明に対し、蒲田は表情を険しくする。
「私たちも、佐伯宅から ‘データ改竄’ を示唆するメモを見つけています。厚労省側がどこまで関与したかは確証を持てませんが、少なくとも佐伯が ‘危険だ、このままでは多くの人が犠牲になる’ と感じていた形跡はあります」
 慎一は拳を固く握りしめながら、低い声で言う。
「そして、その ‘歪んだ制度’ が、彩花を死に追いやった一因である可能性が高い……。そう思わずにはいられません」

 しばし三人は黙り込む。ファミレスのテーブルに運ばれてきたドリンクもほとんど手をつけられない。遠くから聞こえる他の客の楽しそうな笑い声が、逆にこの空気の重さを引き立たせていた。

 やがて滝沢が意を決したように、口を開く。
「実は今朝、病院へ行ったんです。佐伯さんに何とか接触できないかと思って。けれど案の定、面会どころか、病棟にも入れず……。でも廊下の先に ‘厚労省の人間らしき男性’ を見かけたんですよ。主治医と話しているようで、明らかに気にしている様子でした」

 蒲田は苦い顔をしてうなずく。
「そりゃあ、上も ‘認知症老人が何を言い出すか分からない’ と警戒しているんでしょうね。佐伯氏が少しでも正気に戻り、自分たちがやったことを漏らしたら一大スキャンダルになる」
 慎一は「あり得る話だ……」と小さく頷き、目を伏せる。加害者である佐伯を憎む気持ちはあるものの、同時に彼こそが真相を知る唯一の証人という複雑な思いが渦巻いていた。

「もし佐伯さんが証言できる状態になれば、すべてが一気に解明するかもしれない。でも……認知症が進んでいる以上、難しいでしょうね」
 滝沢の言葉に、蒲田は「今のところ主治医から ‘回復の兆しはない’ と報告を受けています」と首を振る。静かな沈黙が落ちるなか、慎一は力なくテーブルを見つめていたが、ふと顔を上げる。
「その……もし佐伯さんに会えるチャンスがあるなら、私も同行したいんです。直接、訊ねたいことがある。娘のこと、そしてなぜ私たちを ‘省の回し者’ と疑ったのか……。全部聞きたい」

 重い空気の中、三人はそれぞれの想いを胸にしまいこむように視線を交わす。きっかけとなったのは悲惨な事件と大きな陰謀の匂い。だが、この先の行動次第で、事態は更なる混乱を呼ぶかもしれない。厚労省や政府の圧力、過激化するデモ、警察内部の思惑、そして認知症という不可解な病状……どれをとっても容易に突破できる相手ではない。

 店内のBGMが妙に陽気なポップスへと切り替わり、入り口から家族連れが楽しげに入ってくる気配がした。対照的に、彼らのテーブルにだけは重苦しい空気が降り積もっている。
「大きなリスクを伴うでしょうけど、私は覚悟のうえです」
 滝沢がそう言葉を結ぶと、慎一もそっと息を整え、「僕も、やれるところまでやります」と応じた。蒲田は「……分かりました」とだけ呟き、テーブルに広げたメモをひとつにまとめる。

「まずは、各自が掴んでいる情報を整理したうえで、いずれ手段を選ばずに ‘佐伯氏のいる病棟’ に近づくことを考えましょう。看護師や医師を説得できるか、あるいは法的手段で公的に面会を要請できるか……とにかく策を講じる必要がある」
 そこで一旦言葉を切り、蒲田は硬い表情をほぐすように微かに笑った。
「ええと……連携ってのは、あまり慣れていないんですが、三浦さんと滝沢さんが本気だってことは伝わりました。俺も刑事として、できる限り手助けします。娘さんの無念、晴らしましょう」

 そう言われると、慎一は目の奥に涙を滲ませながらもしっかりと頷き、滝沢もまた静かな熱を込めて「よろしくお願いします」と返す。三人のコップには、ほとんど飲まれていない水が入ったままだ。それぞれの決意だけが、この場に確かに刻み込まれた。


社会の揺れと暗い渦

 その夕方、街のテレビニュースは「介護ボランティア制度の見直しを検討」という政府広報の発表を一斉に取り上げはじめた。番組では、識者やコメンテーターが「やはり若年層への負担が大きすぎた」「行政が認知症対策を怠った」など、辛辣な意見を交わしている。
 しかし同時に、SNSや一部の街頭デモでは過激な言葉が噴出し、「高齢者を排除しろ」「残酷な殺人老人など葬り去るべきだ」といった声がますます高まっていた。形骸化した政治的アナウンスが発されるたび、世間の不信感は増幅し、対立は深みへ落ちていく。

 厚生労働省の幹部たちは連日連夜の会合で忙殺されながら、内部情報の漏えいに神経を尖らせていた。佐伯政弘の所在を気にかける者も少なくない。彼がもし正気を取り戻したり、外部の人間と接触したりすれば、これまで隠してきた“不都合な真実”が公になる危険が高い。
 各方面の思惑が交錯するなか、依然として無為に過ぎていく時間。だが、小さな歯車は確かに動き出していた——。

 刑事、ジャーナリスト、そして娘を奪われた父親。その三者の協力によって、国の隠蔽や組織の腐敗に光が当たるのか、それとも強大な力によって闇に葬られるのか。
 やがて訪れるであろう衝突に、どんな結末が待ち受けているのかは、まだ誰にも分からないまま。けれど、真実への足音だけは、着実に近づいているのだと、彼ら三人は胸の奥で感じはじめていた。


第十五章 証言の行方

 翌週、どこか春めいた風が吹きはじめた朝。刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)のスマートフォンが早い時刻から振動を繰り返していた。ディスプレイに浮かんだのは「後輩刑事」からの着信。蒲田は寝起きの頭を振り払うように受話器を取る。

「蒲田さん、ちょっと緊急かもしれません。佐伯政弘(さえき・まさひろ)の病院で、容体が変化したって連絡が入りました」
「容体変化……? 悪化ってことか?」
「詳しくはまだ分かりません。でも今朝、病院側から ‘ある程度意識がはっきりしている時間帯がある’ と連絡があったらしいんです。警察としても対応をどうするか検討してほしいと。厚労省の職員も来ているようで、少し騒然としているみたいです」

 蒲田はぐっと眉を寄せ、ソファから立ち上がる。寝巻きのままではいられない。
「分かった、すぐ署に行く。おまえも準備してくれ」
 電話を切ると、胸がざわつく。この一報は “事件捜査の行方を左右する可能性” を十分に孕んでいるからだ。認知症の重度化でまともに話せなかった佐伯がもし正気を取り戻し、当時の記憶を断片でも語ることができるなら——。
 ――あるいは、彼が抱えていた“厚労省への不信”や“闇のデータ操作”に関する証拠を、直接聞き出せるかもしれない。

 あの介護ボランティア中の殺害事件から既に数週間が経ち、社会はますます混乱している。義務ボランティアの制度は事実上休止の状態になったが、老人排斥を訴える若者グループは各地で暴徒化の兆しを見せ、警察も手を焼いていた。少数ではあるが高齢者への嫌がらせや実力行使の報告も相次ぎ、報道番組では「日本社会の分断が深刻化」と繰り返す。
 しかし真の問題は、それだけではない。認知症を抱える高齢者たちが本当に必要としている支援は何なのか。厚労省や政治家の誰も、正面から答えようとしていない。そこにこそ、事件の闇が潜んでいる——蒲田はそう確信していた。


病院からの報せ

 午前中、蒲田は署に駆け込み、上司や同僚と協議の上、佐伯の病室へ行く許可を再度取り付けることに成功した。「加害者が病院側と会話できる状況が生じた以上、捜査上も見逃せない」という名目で、無理やり通した形だ。
 すぐに病院へ向かう準備をするが、その道中、蒲田の脳裏をよぎったのは、父親である三浦慎一(みうら・しんいち)とフリージャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)のことだった。
 ——ふたりも、ずっと佐伯と接触する機会を探っていた。もし本当に佐伯が話せる状態なら、彼らにとっても大きな転機になるだろう。

 車を運転しながら、蒲田は慎一の連絡先を探し出し、スピーカーにして電話をかける。
「三浦さん、急に悪いんですが、佐伯氏の病状に変化があったみたいです。俺も今から行くところなんで、もし都合がつけば病院へ……」
 慎一は受話器越しに息を呑む気配を見せ、「今、仕事で外回り中ですが、なるべく急いで向かいます」と声を震わせながら応じた。

 続けて滝沢へも簡単なメッセージを送る。「病院側から容体変化の報せ。接触の可能性あり」とだけ打ち込んで送信。果たして、彼女がすぐに動けるかどうかは分からないが、念のための一報だ。


意外な面会相手

 病院に到着した蒲田が病室の場所を確認すると、看護師長らしき人物が慌ただしく対応していた。
「佐伯さん、今朝少しだけ意識がクリアになったようで、主治医には ‘誰かに話をしたい’ みたいなことを口にしてました。でも、すぐにまた混乱するかもしれませんし、厚労省の方々も面会に来られていますので……」

 廊下の奥を見ると、やはり見覚えのあるスーツ姿の男が立っている。数日前にも病院関係者と話していた厚労省の役人だろう。周囲を警戒するようにキョロキョロし、こちらに気づくと一瞬「まずい」とでも言いたげに目をそらした。
 蒲田は眉をひそめながら看護師長にたずねる。
「警察として捜査協力のために面会したいのですが、厚労省側が何か言ってますか?」
「それが、あちら様も ‘公式に話を聞く必要がある。省として佐伯さんの入院経緯を把握したい’ と主張なさってます。病院としては、どちらを先に通すべきか判断できず……」
「そうですか。じゃあ一度、病室の前で調整させてください」

 蒲田が足早に廊下を進むと、厚労省の役人二人は「刑事さんですか。ご苦労さまです」と声をかけてくる。口調は丁寧なものの、明らかに目が笑っていない。
「どういったご用件でしょう? こちらは介護施策の担当として、佐伯さんの状態を確認し、公的支援の範囲を——」
「ええ、私どもも捜査のためです。殺人事件の容疑者ですからね。事情を聞く必要がある。それとも何か問題でも?」
 蒲田が少し挑発するように返すと、役人は「いえいえ」と苦笑しつつも、「ただでさえ病状が不安定ですので、混乱させるのは避けたい」と並べる。要するに、“警察による本格的な取り調べ” などしてほしくないのだろう。

 そこへ主治医が少し焦ったような足取りでやって来た。
「佐伯さん、また少し意識が曖昧になってきています。さっきまでは言葉を発していましたが、今は横になってうめいている状態で……。面会の時間が長引くとストレスで急に錯乱するかもしれません。短時間で済ませてください」
 そう言いながら、医師は厚労省職員と蒲田を見比べて頭を抱え気味だ。「どちらを先に通すか」明確に決めきれずにいる。

 その微妙な空気を破ったのは、看護師長の声だった。
「えっと……すみません、三浦慎一さんという方がいらしているのですが……。お嬢さんが被害に遭われた方ですよね。受付におられますが……」
 蒲田は「ああ、来てくれたんだな」と呟き、主治医に目をやる。
「本人の意識が不安定でも、被害者遺族として会いたいという気持ちは強いでしょう。どうにかなりませんか?」
「うーん……。ただでさえ複数人が押し寄せるのは厳しい状況です。短い時間なら可能かもしれませんが」

 厚労省の役人が口を挟む。「ちょっと待ってください。私たちは公式な省の業務で来ているので、優先してもらえないと——」
 蒲田の胸にはカッと怒りが込み上がるが、ぐっとこらえる。医師や看護師が困り果てているのを見れば、これ以上言い争ってもいい結果は生まれないだろう。
 主治医が視線を下に落としながら提案する。
「では、最初に数分だけ佐伯さんの様子を確認していただいて、そのあと三浦さんを……。ただし、本当に数分です。それから警察の取り調べが必要なら改めて。今日は無理をさせられません」

 こじれかけた状況を、まさに“妥協案”という形でまとめるしかない。蒲田は眉間に皺を寄せながらも、「分かりました」と苦々しくうなずく。その瞬間、厚労省の役人は勝ち誇ったような目をしたが、彼らも長時間の面会が許されるわけではないと気付いているのか、多くは言わなかった。


再会(?)の病室

 数分後、病室に案内された厚労省の役人二人は、佐伯のベッドサイドで主治医を挟み、ひそひそと声を交わしている。蒲田は廊下で待機しながら、扉越しにかすかな声を聞き取ろうとするが、微妙に聞こえない。
 ——彼らは何を話しているのか。佐伯に「余計なことは言うな」と釘を刺しているのか、それとも様子をうかがっているのか。

 やがて数分ほどして役人たちが出てきた。彼らは「あまり話せる状態ではなかった」とだけ言い、主治医に軽く会釈してそそくさと廊下を去っていく。見ると、その表情にはどこか落胆とも安堵ともつかない色が浮かんでいる。
 “何か確認したが、収穫は薄かった”という感じなのか、と蒲田は推測した。

「では、三浦さんをお呼びします。ほんの数分ですよ」
 主治医に促され、蒲田は廊下で待機していた三浦慎一を呼びに行く。慎一はすでに顔色が青ざめ、唇がこわばっている。「……大丈夫でしょうか、僕が会っても……」と自信なさげに言う。
「短い時間ですが、可能性はある。自分の責任だと思わないでください。それに、佐伯が何か言葉を発するかもしれない。聞けるなら聞いたほうがいい」

 慎一は大きく息をつき、首を縦に振る。蒲田が扉を開けて主治医の合図を受けると、慎一はこわごわ病室へ足を踏み入れた。佐伯のベッドはカーテンで仕切られているが、そこから見える彼の姿は、髪がさらに白くなり頬がこけ、まるで生気を失ったように見える。
 横に置かれた点滴スタンドとバイタルモニターが、一定のリズムでピッ、ピッと音を刻む。主治医と看護師が見守る中、慎一はベッド脇に近づいた。

「……佐伯さん……」
 すると、佐伯のまぶたがわずかに震え、濁った瞳がほんの少しだけ慎一の方向を向いた。どこまで視認できているか分からないが、その口が震えながら何かを言おうとしている気配がある。
「佐伯さん、分かりますか……? わたしは、三浦慎一といいます。あなたが……わたしの娘、彩花を——」
 声が震え、胸が締めつけられる。どんな言葉をぶつけていいのか、ずっと考えてきたはずなのに、実際に目の前にすると頭が真っ白になる。

 佐伯は「う……う……」と声にならない唸りを発する。まぶたが不規則に瞬きし、左手が小刻みに痙攣するように動いた。
 慎一が懸命に耳を近づけると、ごくかすかな呼気が聞こえた。まるで誰かに訴えるように、もがくような声——「あ……あいつら……」と聞こえなくもない。
 思わず慎一が「誰のことですか……? 厚労省の……?」と問いかけると、佐伯は顔を歪めるようにして、さらにか細い声を絞り出す。
「……おれは……騙された……う……たたか……わない……と……みんな……」

 意味を完全に把握するのは困難だ。だが、断片的に「騙された」「たたかう」「みんな」というワードが聞き取れた。佐伯の表情には、恨めしさとも絶望ともつかない苦渋の色が垣間見える。
「騙されたって……あなたは、何を……?」
 慎一がたまらず手を伸ばしかけた瞬間、佐伯は急に咳き込み、苦しげに頭を振る。看護師が「もうここまでです!」と駆け寄り、モニターの数値を確認して患者を落ち着かせようとする。

「くっ……」
 慎一は悔しそうに奥歯を噛む。佐伯は再び意識が遠のきそうなのか、「……う……すまん……おれは……」と何かを呟こうとするが、声にならない。
 瞬く間に看護師たちが対応に追われ、主治医が強い口調で「面会はここまでです」と宣告する。取り残されるようにして、慎一はその場から離れざるを得なかった。


わずかな手がかり

 廊下へ戻った慎一の目には、悔しさと戸惑いの涙がうっすら浮かんでいた。蒲田が肩に手を置く。
「だめでしたか……? 何か言ってました?」
「……完全には聞き取れなかったんです。でも ‘騙された’ とか ‘たたかう’ とか……。まるで、彼自身が何か大きな陰謀に巻き込まれたと訴えたがっているような……そんな印象でした」
「なるほど……。あの男が、厚労省や外郭団体の裏事情を知っていて ‘自分も利用されていた’ と感じていた可能性は高いですね。だけど、事件当日は認知症の混乱で、彩花さんを ‘敵’ と錯覚したのかもしれない……」

 そう推測したところで、真実が変わるわけではない。けれど、慎一にはわずかでも「人を殺したかったわけじゃないんだ」という思いが伝わり、混乱した気持ちがさらに複雑になる。憎悪と哀しみ、そして薄い同情が入り交じって息が苦しい。

 二人がそんな会話を交わしていると、廊下の奥からスーツ姿の女性が小走りで近づいてきた。滝沢冴子だ。連絡を受けて駆けつけたのだろう。
「間に合わなかった……ですか?」
「ええ。今ちょうど面会が終わったところで、佐伯さんもまた意識が混濁ぎみです。医師からストップがかかりました」
 滝沢は残念そうに唇を噛む。「何か聞き出せました?」と慎一を見やると、彼は少し疲れた笑みを浮かべながら首を振る。

「断片的に何かを言おうとしてました。でも、ほとんど何も……。たぶん、本人も ‘騙された’ とか ‘戦わないといけない’ とか、そういう意識はあるようでしたけど……」
「そう……ですか」

 滝沢は申し訳なさそうに眉を下げるが、同時に目を伏せて考え込む。——その言葉の断片こそ、佐伯が“何のために” 厚労省と戦おうとしていたのかを物語るかもしれない。彼には “利用された” という感覚が残っていた。
「でも、わずかでも情報が得られたのは大きいです。『騙された』『たたかう』というのが、外郭団体やデータ操作の件に繋がるなら……さらに裏づけを集めれば、国や省が何を隠そうとしているか、突き止められるかもしれません」
 滝沢が力強く言うと、蒲田もうなずく。

「俺たちも捜査の追い込みをかけたい。佐伯がここまで話せるなら、今後 ‘供述調書’ を取れるかもしれない。医師の協力は不可欠ですが……。厚労省は、あまり歓迎しないでしょうね」

 思えば、中学生少女の死によって、この国の高齢者介護の歪みがさらけ出され、世論は燃え上がり、認知症患者への偏見や若者の暴走までも引き起こしている。すべてが狂い始めた原因は何なのか。佐伯の口にする “騙された” は、ただの被害妄想なのか、それとも実際に政府や企業が背後で糸を引いていたのか。
 答えはまだ霧の中だが、慎一・滝沢・蒲田の三人には、薄い光が見えかけていた。ほんの少しだけ、佐伯の本心が漏れ出した。——あとは、その言葉を繋ぎ止めるだけ。

 「私たちは、もう少し粘る必要がありそうですね」
 滝沢が瞳を伏せつつ決意をこめて言うと、慎一も疲れた面差しでゆっくりと息をつきながら、「ええ……」と力なく頷いた。
 その姿を見た蒲田は、拳を固めるようにして内心で叫ぶ。——娘の命を奪った老人が語ろうとする“真実”。それを引き出さずにして、何が捜査か。厚労省や政治がどう圧力をかけようと、やるべきことは一つだ。

 廊下には、すでに厚労省の役人の姿はない。彼らは納得できる成果を得られず、ひとまず撤収したのだろう。行き場のない重苦しい空気のなか、ふと看護師がカーテンを閉めた病室を見つめる。モニターの電子音が微かに響き、佐伯の苦しげな呼吸が遠くに聞こえるような錯覚がする。
 ——次に訪れるとき、佐伯はさらに声を失っているのか、それとも先ほどのような一瞬の正気を取り戻し、さらに多くを告げるのか。どちらに転んでも時間は長くは残されていないという予感が、三人の胸に重くのしかかっていた。

 “真実” とは何か。
 騙された男が、なぜ中学生の少女を殺してしまったのか。
 あまりに哀切な問いが、まだ答えもないまま、どこか薄暗い病室の影に漂っている。外では相変わらず、“老人への憎悪” と “若者への非難” が互いを蝕み、街の噂を煽り立てていた。
 けれど、ほんの少しだけ、佐伯の唇を伝った言葉が “隠された真相” への糸口になることを、彼らは信じたかった。そんな儚い望みが、廊下に立ち尽くす三人を、今しばらく奮い立たせるのだった。


第十六章 流れ始める波

 病院をあとにした三浦慎一(みうら・しんいち)は、しばらく車の中から動くことができなかった。加害者である佐伯政弘(さえき・まさひろ)が、かすかに言葉を紡ごうとしていた姿――「騙された」「戦わないと」「みんな……」という断片的なメッセージが、頭の中で渦を巻いている。
 切なさと怒り、そして一筋の疑問がない交ぜになり、胸が詰まるような感覚が消えない。“もしこの老人が、ほんの少しだけでも正気を取り戻し、何かを話せるようになるなら……”――そんな可能性を思うほど、彩花(あやか)を失った悲しみが深く突き刺さる。
 狭い運転席でハンドルを握りしめながら、慎一は一度大きく息を吐いた。

「……あいつら……」
 佐伯の口から漏れた言葉。誰を指しているのか――厚労省やその外郭団体? あるいは、もっと大きな“国”というシステムそのものを指していたのだろうか。佐伯の肩書や生い立ちを考えれば、ただの被害妄想で終わるはずがない。

「彩花……」
 思わず名前を呼び、スマホの画面を確認する。数件の着信と未読メッセージが届いていたが、その中にひときわ目を引くものがあった。フリージャーナリスト・滝沢冴子(たきざわ さえこ)からのテキストメッセージだ。つい先ほど分かれたばかりだが、何やら急ぎの用件があるらしい。


滝沢の決断

 一方、滝沢は病院近くのカフェに腰を下ろし、パソコンを開いていた。彼女が先ほど慎一と別れたあと、何を思ったか、ある“情報提供者”へ連絡を入れたのだ。
 ――厚労省の外郭団体に勤めていたという「河合」という人物。以前、断片的な内部文書をくれた協力者であり、まだ核心を握った文書が別にあるはずだと匂わせていた。

「……やはり、今動かなければ」
 先ほどの佐伯の断片的な言葉は、滝沢にとっては“ラストピース”を呼び込む合図のようにも感じられた。黙っていては何も変わらないし、今まさに佐伯の命が尽きてしまったら、すべてが闇の中に埋もれるかもしれない。
 しかし、河合からはなかなか返信が来ない。しびれを切らした滝沢は、一度パソコンを閉じてカップのコーヒーを飲み干すと、スマホを取り出して三浦慎一へメッセージを送った。
 《今朝のこと、あの言葉だけでも大きな意味があると思います。私も動きます。河合と再度会って、さらに踏み込んだ情報を得られそうなら、ぜひ刑事さんと共有しましょう。近いうちまた打ち合わせできませんか?》

 立ち上がった彼女の目には、一種の勝負に挑むような鋭い光が宿っている。国と戦うには、よほどの確証が必要だ。自分ひとりで暴露記事を出しても“陰謀論”と切り捨てられれば終わり。だが、警察や被害者遺族の協力があれば、それは揺るぎない大きな力になり得るはずだ。


届いた声

 しばらくして、慎一はフロントガラス越しにカフェの看板が見えた。滝沢がそこにいるかもしれないと直感し、車を降りて店内を覗き込む。すると、ちょうど出入口あたりで滝沢と鉢合わせになった。
「滝沢さん……いまメッセージ、読ませてもらいました」
「三浦さん、偶然ですね。ちょうど河合さんという方に連絡を試みてたんですが、まだ返信がなくて」

 二人は店の外で言葉を交わす。滝沢が一気にまくし立てるように言う。
「私は、佐伯さんが言おうとした ‘戦わないと’ って言葉が、あの時代に取り組んでいたプロジェクトの真実を表している気がするんです。厚労省や外郭団体が ‘在宅介護への強制誘導’ を進めようとしたとき、佐伯さんはそれに異を唱えた。だけど結局、認知症の進行もあって、歪んだ形で隠蔽されてしまったのではないかって」
 慎一は深く頷きながら、カフェの壁を背に身体を預ける。
「ええ……きっと佐伯さんは、誰かに騙されて、そのデータ操作か何かに加担させられた。自分も利用されていると気づいたときには、もう手遅れで……周囲がすべて敵に見えたのかもしれません」

「ええ、まさに。だからこそ ‘全員を救うには戦わなくちゃいけない’ と思いつつも、認知症で混乱してしまった……。そして何より、最悪の結果として彩花さんが犠牲になった……」
 滝沢の声が少し震える。慎一もまた痛みを感じながら、「僕らがこの件を掘り下げる理由は、やはりそこにあるんだ」と改めて強く思う。

「河合さんには、あと一度だけでも詳しく会う必要があると思います。今のままじゃ核心の資料がない。単なる ‘想像’ に終わりかねないから。佐伯さんの意識がいつまで持つかも分からないし、手がかりを揃えておかないと」
 滝沢の言葉に、慎一は静かな決意で返した。
「分かりました。僕も刑事の蒲田さんに話して、連携の準備をします。河合さんと会う段取りがついたらすぐ連絡ください。できるかぎり動きますので」
「ええ、お願いします」

 互いに言葉少なに頷き、滝沢は「私はいったん事務所に戻ります」と足早に去っていった。慎一は車に戻り、またも溜息をつく。車の窓の外には青空が覗いているが、心にはまだ重苦しい雲がかかったままだ。


警察と行政の攻防

 同じ日の午後、警察署では刑事・蒲田修二が押収資料のさらに精査を進めていた。佐伯政弘の家から出てきた書類と照らし合わせながら、何とか事件当夜の動機や経緯を立証できないかと頭を悩ませているのだ。
 しかし、上司からは「介護ボランティア制度の是非まで突っ込んだ捜査は必要ない」「あくまで ‘殺人事件としての立件’ ができるかどうかが焦点だ」と釘を刺されている。加害者が認知症重度ということで、司法判断的にも曖昧な結末が見えている状況だった。

「くそ……これでは遺族は納得しないだろうし、事の本質がうやむやになってしまう」
 蒲田はデスクに拳を軽く打ちつけ、いらだちを噛み殺す。そこへ後輩刑事がバタバタと駆け寄り、小声で伝えてきた。
「先輩、今、厚労省の担当者が ‘佐伯氏に関する捜査状況を教えてほしい’ って問い合わせに来てますよ。上は ‘協力してやれ’ って雰囲気ですが……どうします?」

 厚労省――最近は過剰なほどこの事件を気にしている。蒲田は大して驚きもせず、むしろ辟易した様子で後輩を見やる。
「捜査状況ったって、何を話せるわけでもないしな。あっちは ‘公式に要請’ とか言ってくるのか? それともただの情報収集か」
「どうやら ‘佐伯氏の病院面会の件’ に続いて ‘事件処理の進捗’ を把握したいという名目らしいです。三浦慎一さんへのフォローもありうるとか、そんな話をしてましたけど……」

 “フォロー”――言葉だけは丁寧だが、要するに被害者遺族をどう言いくるめるかを考えているのではないか、と蒲田は推測する。立件も曖昧なまま、事件を“認知症による不幸な事故”で片づけて、厚労省はさらなる批判を避けたいのだろう。

「……まあ、仕方ない。おれが少し会ってくるから。余計なことは言わんけど、やつらの出方を探っておく」
 後輩刑事が「了解です」と頷き、二人は署内の応接室へ向かった。ドアを開けると、安っぽいスーツに神経質そうな顔の男が座っている。顔を上げると同時に、蒲田のほうをじろりと見て、ビジネスライクな笑みをつくった。

「お忙しい中すみません。厚生労働省○○局の山岸(やまぎし)と申します。佐伯政弘氏の件で、少々伺いたいことがありまして……」
 室内に漂う微妙な空気。蒲田は座るなり「捜査上のことはお話しできません」と前置きし、あくまで事務的に応対しはじめる。だが、山岸と名乗る男は聞く耳を持たない様子で、「いえいえ、実は ‘佐伯氏の病室に厚労省担当が入る際の申請手続き’ について、警察からの許可が必要かどうか確認したいのです。加えて、被害者遺族である三浦慎一さんへのアプローチも——」などと勝手にまくし立ててくる。

「おれたちは病院の運営に口出す権限もありませんし、三浦さんにどう接触されるかも把握してません。そちらが勝手に話を進めるなら止めはしませんが、うちの捜査には支障が出ないようお願いしますね」
 淡々と対応する蒲田に対し、山岸はぎこちなく笑みを作りつつ、「あくまで ‘善処’ しますよ」と曖昧な返事を残す。

 ――本音では、厚労省が何を画策しているかは火を見るより明らか。佐伯がもう一度意識を取り戻して余計な告発をする前に、口封じとも言える交渉をしておきたいのだろう。三浦慎一にも“遺族補償” とか “救済措置” と称してお金を握らせるような手段に出る可能性だってある。

 しかし、警察としては“事件としての処理” しか絡める余地がない。山岸が「あとは何か……」と煙に巻かれる前に、蒲田は意を決して言葉を差し込んだ。
「ところで、佐伯氏が昔担当していた ‘認知症データ関連の研究’ というのは、厚労省として何かご存じなんですか? うちの捜査で取り扱うかもしれませんので」
 すると山岸の表情が僅かに引きつる。
「え? あ、いえ……詳しいことは知りません。昭和・平成の頃の話でしょ? 今の我々には関連文書もほぼ残っていないかと」

 まるで機械のように滑らかに否定され、蒲田はやれやれと肩をすくめる。やはり、ここで何を聞いても“知らぬ存ぜぬ”だろう。
 応対終了を告げた後、山岸はそそくさと署を出て行った。その背中を見送る蒲田の胸には、嫌な予感が拭えない。厚労省はこのまま“佐伯の口を封じ、被害者遺族をなだめる” 方向で動くに違いない。彼らにしてみれば、一刻も早く事件を収束させたいのだ。


高まる分断

 その夕方、テレビやSNSでは、また新たな“衝撃的な映像”が流れ始めた。とある地方都市で、高齢者のデイサービス施設に若者グループが押しかけ、威圧的な言葉を浴びせたという。車椅子の老人を取り囲み、「いい加減引退しろ」「おまえらは若者を殺す気か」などと叫ぶ様子がスマホの動画で拡散されているのだ。
 ニュースキャスターが深刻そうに「これはひどい光景ですね」とコメントをしているが、スタジオのゲストコメンテーターは、俯きながら首を振るだけ。ネット上では「少数の過激派の仕業だ」と批判する声も多いが、“老人嫌悪” を肯定するコメントも相当数見られる。

「もはや社会が壊れかけている……」
 そんなつぶやきがいくつもSNSにあがり、人々は困惑と苛立ちを募らせていた。その争いの根本には“高齢化” と “若者の将来不安” があると分かっていても、誰も具体的な解決策を示せない。政治家も評論家も煮え切らない発言ばかりを繰り返す。

 一方、佐伯政弘という“ひとりの認知症老人” が引き金となり、中学生の少女・三浦彩花が犠牲になった悲劇は、大勢の人々に少しずつ歪んだ憎悪を呼び起こしている。
 ――こんな社会で、もし真実が隠され、歪んだ政策が続けば、さらなる絶望が広がってしまう。その危機感を抱いているのは、慎一や滝沢、そして蒲田のようなごく一部の“当事者” たちだけなのかもしれない。


決意の共有

 夜遅く、蒲田は自宅のデスクに向かいながら、スマホを確認する。三浦慎一からメッセージが入っていた。
《厚労省が動き始めたようです。どこかで私に直接接触があるかもしれません。万一、金銭や示談をちらつかせて事件を丸め込もうとしたらどうすれば……》

 蒲田は悔しさを噛み締めながら返信する。
《動揺しないでください。提案の内容は聞くだけ聞いて、すべて記録を取る。あちらが後ろ暗いことを隠そうとしているかどうか確認しておきましょう。こちらも捜査上、把握しておきたい》

 続けて滝沢からもメッセージが届く。
《河合とやっと連絡がつきました。明後日、会えるかも。場所は秘密ですが、具体的な証拠をもらえるなら大きな前進になるはず。できるだけ安全な形で情報を確保し、のちほど三浦さんと蒲田さんにシェアします》

 蒲田は深く息をつきながら画面を眺め、わずかに苦笑する。——これほどまでにジャーナリストと組むなんて、自分でも想像していなかった。しかし、もはや一人では国の闇に切り込めない。上司からの圧力もあって、正式な捜査としてはここが限界だ。“非公式” にでも動かなければ、真実など絶対に掴めないだろう。

「よし……」
 ポツリと独り言を呟き、蒲田は警察端末のパソコンで佐伯政弘関連の古い公的データや記事を検索してみる。昭和後期から平成初頭にかけて、老人介護が社会問題化した時期の新聞記事や論文のリストがずらりと表示される。そこに“佐伯” の名が隠れていないかを探るためだ。もしかすると、彼が公に発言した過去があるかもしれない。

 まだ夜は始まったばかりだ。疲れた身体に鞭打ちながら、蒲田は画面をスクロールさせる。三浦慎一や滝沢冴子が奔走している今、自分も立ち止まっているわけにはいかない。
 “騙された” と嗄れ声で呟いた認知症老人の“悔しさ” を無駄にしないために。
 そして、命を落とした少女・三浦彩花のために。

 誰もが疑心暗鬼の闇を彷徨うこの社会で、ほんのわずかでも“光” を掴むには、今こそ踏み込むしかない。歯車はすでに回り始めている――その向こうに待ち受ける結末は、まだまったく見えないまま。
 しかし、海底に沈んだ真実が、じわじわと浮上しはじめる音が、遠くで鳴り響いている気がした。もう少しで、誰かの手に届くかもしれない。それを信じるしかない、と蒲田は画面に食い入るように目を凝らす。

 夜の街には、まだ重苦しい空気が漂い、人々の不安や怒りの声が薄暗いネット空間を飛び交っている。それでも、どこかで一筋の光が差し込むことを信じたい――そう願いながら、物語は静かに次なる局面へと歩みを進めていく。


第十七章 暴かれる隠蔽工作

 翌日、夕刻。東京の一角にある古びたビジネスホテルの一室。ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、やや殺風景な部屋の丸テーブルを挟み、緊張した面持ちで男の話に耳を傾けていた。
 男は「河合」と名乗り、厚労省の外郭団体にかつて所属していたという人物。以前から匿名で連絡を取り合っていたが、今日ようやく直接会ってくれることになったのだ。フロントで偽名を使って部屋を取っているらしく、警戒心をあらわにしている。薄手のジャケットに深く帽子をかぶり、室内でもどこか落ち着かない様子だった。

「――で、これが当時の『特定介護事業』に関する内部文書。
 もっとも、これは一部だけで、本来は数百ページ規模の資料があった。そこに ‘佐伯政弘’ という名前が繰り返し登場するんだが、後からファイルごと削除されたり、改竄された形跡がある」

 そう言いながら、河合はタブレット端末を操作し、古いPDFファイルを開く。滝沢は横に持参したノートPCを広げ、示された画面を写真に収めるようにして慎重に眺める。ところどころに黒塗りがあるものの、赤字で “在宅誘導モデル” “要介護度基準の緩和” といった文字が浮かび上がっている。
 さらには、“認知症患者データ再集計計画” というファイル名がちらりと映り込む。一連の内容は、まさに厚労省が “高齢者施設へ入れる人数を抑制し、在宅介護を基本とする” ためにデータを恣意的に操作していた可能性を示唆していた。

「これは……ずいぶん生々しい記述ですね。『重度患者でも家族と地域に任せるべき』とか、 ‘結果的に介護費用が何%削減可能か’ みたいな試算まで書かれている。しかも、実験プロジェクトの対象に認知症高齢者を組み込んでいたんですか?」
 滝沢が驚きを押し殺しながら訊ねると、河合は静かにうなずく。
「当時は国の財政も厳しくてね。“施設を増やす余地はない、在宅を支援しろ” ってのが至上命令だった。ただ、本当に支援が行き届くならともかく、人員も予算も足りない。現場の声なんて聞いちゃいない。結局、厚労省と外郭団体が『とりあえず数字を作ってしまえ』と走ったんだよ」

 滝沢の脳裏には、病室で呟いていた佐伯政弘の言葉――「騙された」という叫びがよぎる。
「つまり、佐伯さんもそのプロジェクトに参加していた……。彼は認知症に関する専門知識やデータ処理のスキルがあったという話を聞きましたが?」
「そう。当初は『真面目に介護の研究をしたい』と取り組んでたらしい。ところが、上層部は ‘国に都合のいい数字’ を求めていた。佐伯も最初は協力したのかもしれないが、すぐに “これでは現実とかけ離れすぎだ” と気づいて反発したという。そこから彼は孤立していったようだ。俺が聞いた話では、『省に逆らうと消される』なんて笑い話めいた噂まで立っていた」

 河合の声には覚悟を決めた険しさが宿る。滝沢は一度深呼吸し、聞きたいことをさらに踏み込んで問いかけた。
「佐伯さんは結局、認知症が進んで自宅に閉じこもるようになった……。その間、これらの資料はどうなったんでしょう? 本来、機密扱いだったはずですよね」
「大半は省内で廃棄されたり、外郭団体で隠蔽されたらしい。俺が持っているのは、当時業務の一環でコピーを一部預かっていたもの。それも改竄前のデータがわずかに残ってる“差分”ファイルだ。表向きはもう存在しないことになっている。……だから、これを世に出せば相当な騒ぎになるだろうな」

 滝沢はあふれる衝撃を抑えながら、パソコンにコピーの準備を進める。
「ここまで踏み込んだ資料を私に渡してしまって、本当に大丈夫ですか? 河合さんご自身の身が危険になるのでは……」
 河合は苦い笑みを浮かべ、目を伏せた。
「今さら怖がっても仕方ない。俺はもう辞めてずいぶん経つし、良心の呵責に耐えきれなかった。知ってるか? あの ‘義務ボランティア制度’ だって、結局は人件費のかからない若者を使って在宅介護を成り立たせよう、って発想の延長線上なんだ。そんなもんで回るわけがないのに、政治家や官僚は “高齢者との世代間交流” なんて美名を掲げて押し通した」

 その言葉に滝沢は強く頷く。すでに三浦慎一から話を聞いているように、娘の彩花が犠牲になった背景には、この“押し通された” 政策があるのは明白だ。河合が協力してくれるという事実が、暗闇に刺す一条の光のようにも思えた。

 やがて滝沢は、河合から手渡されたUSBメモリを何度も確認し、安全な場所に複数コピーを取る約束をしながら、心の中で深い決意を固めた。“これで証拠が揃うかもしれない。佐伯さんの口から出てくる断片と、この機密資料が合わされば――” と。
「ありがとうございます。これを正しく使わせていただくために、まず警察と被害者遺族に話を通します。慎重に手順を踏んで、絶対に闇に葬られないようにしますから」
 河合はうなずきつつも、「気をつけてくれ。こっちの素性もあんまり表に出したくない」と釘を刺す。滝沢は力強く「分かりました」と返し、やや長めの打ち合わせを終えると、互いに別々の出口からホテルを後にした。


刑事とジャーナリストの邂逅

 夜も更けた頃、警察署近くのファミレスに、蒲田修二(かまた・しゅうじ)は所在なさげに座っていた。店内はほとんど客がいない。スマホをいじりながら待つうち、扉が開いて滝沢冴子がやってくる。
「こんばんは。こんな時間にすみません」
「いえ、こちらもやりやすいので構いません。……で、何か掴んだんですか?」

 蒲田がまっすぐ滝沢を見つめると、彼女はコートのポケットからUSBメモリを取り出し、封筒に入れたままそっと差し出す。
「これはまだ確認の途中なんですが、厚労省と外郭団体が ‘在宅介護に誘導するために認知症データを操作した’ という、ほぼ決定的な資料になりそうです。佐伯さんの名前も明確に登場していて、彼が ‘真面目に統計を担当していたのに、ある時期から改竄に巻き込まれた’ という痕跡がある」
 蒲田は驚きを隠せず、思わず身を乗り出す。
「マジですか。……まさに厚労省が一番隠したい部分。これが本物なら、ただの ‘老人殺害事件’ にとどまらず、大臣レベルの責任問題まで発展しうる……」

 周囲をはばかるように声を潜め、USBメモリを凝視する。もちろん警察として勝手に流出資料を閲覧するのはグレーな行為だが、ここまで来れば背に腹は代えられない。
「ただし……これを公にするには、捜査令状を得て正式に押収するのが筋でしょう。でも、今の状況だと上は動かない可能性が高い。俺たちが無理にやれば内部リークだの機密漏洩だの、めちゃくちゃになるかもしれない」
 蒲田が苦い顔をすると、滝沢も同じく重い表情を浮かべた。
「分かってます。でも、私もこれをいきなり記事にすれば、国に握り潰されるか、私自身が訴えられる可能性が高い。だからこそ、慎一さん(被害者の父)を介して一緒に行動する形を取りたい。少なくとも ‘被害者遺族が知る権利を行使し、事実を求めて調査した’ という流れがあれば、簡単には消せないはずです」

 話すうちに、二人の視線には同じ決意の色が宿っていく。
「この情報と、佐伯さんの ‘騙された’ という証言、そして義務ボランティア中に少女が亡くなった重大性が合わされば……たぶん、厚労省もうかつに強硬手段を取れなくなる。世論の支持を得やすいし、政治家だって逃げ切れないかもしれない」
 滝沢が熱を込めて語ると、蒲田はあくまで刑事の立場を捨てない調子で頷く。
「実際、安易に ‘これは陰謀論だ’ と斬り捨てるにはリスクが大きいってわけですね。とりあえず、この中身を精査してみます。うちの署で動ける範囲は限界がありますが……俺もできるだけ踏み込みます」

 密かな同盟関係を再確認し、滝沢はUSBメモリを一度預ける形に合意した。もちろん完全なコピーを自分でも保管し、慎一にも閲覧だけはしてもらう予定だ。万が一のために「複数の場所にバックアップを保存しておく」という対策は欠かせない。


隠蔽の末路

 一方、厚生労働省のある幹部室では、連日連夜の“火消し会議”が行われていた。
「“佐伯関連の資料はすべて処分された” と各所に通達していますよね? 外部に流出した形跡はないか?」
「いえ、今のところ大きな動きは把握していませんが……。ただ、あの老人が生きている限り、どこかで漏らす危険は残っています。認知症だからといっても、今朝などは一時的に会話が成立したという噂も」

 神経質なやり取りの末、結論はいつも同じ。「とにかく事件を ‘認知症による不幸な暴発’ として早めに幕を引かせろ。被害者遺族には示談金なり救済策なりで手を打つ。メディアも適当にあしらい、野党から追及されても国会答弁で逃げ切るしかない」。
 しかし、その裏では既に“河合”や“滝沢”といった人物が動き出しているなど、知る由もない。幹部たちの多くは「過去の資料は処分完了」「佐伯の家から出た些細な書類など大したことない」と高をくくっていた。

 こうして、国の中枢は自らの利害を守るために必死の隠蔽工作を継続する。だが、社会はすでに限界に近づいている。高齢者排斥を叫ぶ過激グループや、大規模なデモ、そして海外メディアによる“日本の高齢化問題” への注目――すべてが時限爆弾のように同時進行し、どこかで臨界点を迎えれば一気に爆発するだろう。

 ――その瞬間が、そう遠くないことを、当事者たちは何となく感じ始めていた。選択肢は二つ。“真実” を自ら暴露して改革への道を開くか、それとも虚偽と隠蔽で生み出された“偽りの秩序” のまま社会崩壊を迎えるか。

 夜も遅く、警察署近くのファミレスを出た蒲田と滝沢は、それぞれ無言で別れた。互いに握りしめたUSBメモリと記録が、厚労省が必死で隠そうとした“本当の狙い” を暴く決定打になるかもしれない。
 明日は三浦慎一にも、この内容を伝える予定だ。佐伯の家から持ち出されたメモや、病院での断片的証言、そして今回の機密資料――すべてが一本の線で繋がるならば、あの少女の死が突きつけた暗い現実を、誰も無視できなくなるに違いない。

 雨の予報が出ていた夜空には、雲の切れ目からかすかな月明かりが差していた。闇の下で蠢いていた隠蔽工作が、ついに表へ漏れ始める。今度はもう、簡単には止められないだろう。
 その波は、じわじわと、しかし確実に大きくなっていく。佐伯政弘の小さな一言「騙された」が、どれほど深い闇を照らし出すのか。誰もが疑い、誰もが怯えるなかで、真実だけが静かに水面を破り、次の衝撃を待ち構えていた。



第十八章 波紋が加速する時

 翌朝、警視庁近くの小さな会議室。刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)は夜を徹して複数の資料を精査し、いままさに同僚刑事たちと目を合わせていた。机の上には、USBメモリから読み出した “認知症データ操作” のファイルコピーと、以前に佐伯政弘(さえき・まさひろ)宅から押収した書類が並べられている。

 ページをめくるたび、ほぼ確信に近い事実が明るみに出る。
“要支援2でも在宅可能と偽装して、施設入所を抑える”
“一部データを改竄し、重度患者数を軽度扱いにする”
“将来的には若年ボランティアで補完し、介護費の圧縮を狙う”

 これらの断片を見比べると、厚生労働省および外郭団体が長年にわたり “数値上の成功” を演出しようとしていた構図が見えてくる。おそらく佐伯は、この内部プロジェクトを知りすぎたがために、組織から疎んじられ、認知症を発症してからは放置されるような形になったのだろう。
 それだけではない。その延長線上に “義務ボランティア政策” が位置づけられているらしい。少子高齢化の深刻化を食い止めるため、予算不足と人手不足を一挙に解決しようと、子どもたちを強制的に“在宅介護”へ送り込んだ。結果、三浦彩花(みうら・あやか)のような悲劇が起きたわけだ。

「これだけ証拠が揃っても、上は動かないんですかね……」
 若手刑事が弱々しく呟く。蒲田は苦い顔をしながらファイルを閉じる。
「だろうな。“政治絡みの案件は慎重に” とか言われて、捜査本部自体を立ち上げさせないだろう。俺らは ‘殺人事件かどうか’ の立証に専念しろって言われてる」
「でも、この文書が本物なら……被害者遺族が公開を訴えたらどうなるんでしょう。少なくともメディアは黙ってないだろうし、国会でも大騒ぎに……」
「そこだ。実際、ジャーナリストの滝沢さんや被害者の三浦さんと手を組めば、警察という体制から動かなくても、事実上すべてが表に出る状況を作れるかもしれない。……いや、上には内緒だぞ」

 後輩刑事は驚き、そしてやや興奮した様子で目を丸くする。蒲田は「法の許す範囲内でな」と釘を刺すが、本音では “組織の制約” を跳び越えなければ真相究明は不可能だと分かっていた。
 まるで高い堤防の向こうに膨大な水が溜まり、今にも決壊しそうな状態だ。ほんの少し穴を開ければ、あっという間に洪水が社会を飲み込むだろう。そこに残るのは改革か、あるいはさらなる混乱か――どちらに転ぶかは誰にも分からない。


遺族の声

 同じ頃、三浦慎一(みうら・しんいち)は朝比奈中学校の校長室にいた。校舎の廊下はすっかり閑散としており、保護者やメディアの出入りが落ち着いたものの、学校の空気は依然どこか重い。
 校長は深く頭を下げ、「彩花さんのことで、改めてご遺族には申し訳ない」と繰り返す。けれど慎一は、そんな形式的な謝罪を聞きたいのではない。
「校長先生……ひとつお聞きしたいんです。“義務ボランティア” が実施される際、学校側は本当に危険を想定していなかったんでしょうか。指示は上から出されても、現場で問題視する声はあったはずでは?」

 校長は苦い表情を浮かべ、机の上で手を組む。
「問題視はしました。でも、教育委員会が『高齢者との交流は教育上有意義』と押し進めて……。私たちも抵抗したかったが、決まった制度に沿わないと予算も降りない。クラス担任たちは ‘いずれトラブルが起きるのでは’ と不安を抱えていたのですが……」
「……そうですか」

 慎一は静かに目を伏せる。学校もまた、行政や政治の狭間でどうすることもできなかったのだろう。娘を守れなかった悔しさは募るばかりだが、ここで責めても仕方ない。
「実は私、国がこの制度を推し進める裏で ‘在宅介護を強制的に増やすためのデータ操作’ があったかもしれないと考えています。佐伯という老人は、厚労省の古い研究プロジェクトに関わっていたらしく……」
 校長は目を見開き「まさか……」と絶句する。そんな陰謀めいた話など知らなかったのだろう。

「もしそれが事実なら、この学校だけの問題ではありません。教育委員会や自治体、国までもがひとつの方針のもとに動いていたんだ。彩花の死を、こんな形で終わらせるつもりはないんです」
 慎一の声に、校長は押し黙ったまま何も言い返さない。もはや一民間人の力でどうにかなるような話ではないことを悟っているのだろう。
 ただ、慎一が最後に「ご協力いただけることがあれば、お願いします」と頭を下げると、校長も小さく頷き、「生徒や保護者が二度と同じ犠牲を出さぬよう、私も何ができるか考えます」と返した。その言葉が、偽りでないことを、慎一はかすかに信じたかった。


爆弾記事の準備

 一方、ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ さえこ)は事務所の一室で、受け取った機密資料を読み解き、記事稿の下書きを進めていた。
《在宅介護政策の闇 — 改竄された認知症データと“義務ボランティア”の接点 —》
 仮タイトルをPC画面に打ち込み、次々と見出しを整理する。そこには “佐伯政弘の関与”“彩花の事件を引き起こした制度的不備”“厚労省の隠蔽” などが並ぶ。
 彼女は懸命に書き進めながら、いかに確実な証拠を盛り込み、読者に“疑いようのない真実” として訴えかけるかに頭を悩ませていた。下手をすれば“誇大記事だ” “陰謀論だ” と一蹴され、訴訟をちらつかされる可能性もある。

「それでも、いま動かないと駄目だわ……。社会はすでにボロボロだもの」
 モニターの右端にはSNSの最新動向が映し出され、高齢者への排斥運動が日に日に苛烈化していく様が刻まれている。施設への襲撃や嫌がらせ、デマの拡散――もはや“人道”の視点など吹き飛んでいるかのようだ。
 滝沢は眉を寄せながら “記事を出すタイミング” を考える。警察と被害者遺族が動いたタイミングで一斉に公表すれば、確実に大きな波紋を呼ぶはずだ。あるいは国会が荒れ、政権が揺らぐかもしれない。多くの人に衝撃を与える分だけ、命を狙われるリスクだって皆無ではない。

「……でも、もう引き返さない。彩花さんのためにも」
 自分に言い聞かせるように呟き、キーボードを叩き続けた。信頼できる弁護士やメディア関係者にも相談し、同時並行で“準備”を進める必要があるだろう。


高まる緊迫

 夕刻、三浦慎一は滝沢から電話で呼び出され、都心のカフェへ向かった。そこには既に刑事の蒲田修二も来ており、小さなテーブルを囲んで3人が再び顔を合わせる。
「みなさん、スケジュールあまり余裕がないので手短に。今、記事の原稿をまとめ始めました。来週にも世に出すかどうか検討していますが、その前に絶対外せない条件があります」
 滝沢はそう切り出し、慎一と蒲田を見回す。真剣な眼差しに二人も自然と背筋が伸びる。
「まず、警察として佐伯さんの ‘証言取り調べ’ がどの程度可能か。主治医の許可を取るにはどうするか。もうひとつ、三浦さんとしても『これは事実だ』と公言する覚悟が必要になると思うんです。名誉毀損だなんだと騒がれても、訴訟沙汰になっても耐え抜く、という……」

 慎一は苦しげに唇を噛む。それでも視線をしっかり滝沢に向け、「娘が犠牲になったんだ。僕はもう逃げません。厚労省が何を言おうと、彩花の死を曖昧にさせたくない」と決意を表す。
 一方、蒲田は腕を組んで言葉少なに考え込む。捜査を正式に拡大できれば理想だが、上司の反対は確実。だが、いざ記事が出たあと、警察が“何も知らなかった”では済まされないだろう。
「……分かりました。俺のほうは主治医と連携し、佐伯さんから ‘供述’ を取るための手続きをもう一度試みます。病状次第だが、やれるだけやってみる。で、情報を一定程度まとめたら、滝沢さんの記事発表と同時に ‘国への質問状’ 的なものを出す、と……そんな段取りでしょうか」

 三人とも異論はない。お互い、背水の陣の気分だ。政府や厚労省がどう出るか想像もつかないが、事態がこれ以上長引けば“老人排斥” という歪んだ運動だけが勢いを増す。もはや、一刻の猶予もないと感じている。
「分かりました。では、それぞれ準備を進めましょう。わたしは記事の最終稿を来週頭までに固めます。それまでに佐伯さんの病状が安定し、少しでも証言が得られるなら、記事の説得力も増す。三浦さんは……あまり不用意に厚労省と直接会わないほうがいいかもしれない。示談や補償金の話を持ちかけられても、焦らず冷静に対処してください」
 滝沢がこう念を押すと、慎一は頷き、「分かりました」とだけ答えた。

 やがて席を立つころ、街の外灯がともり始める。歩道には行き交う人々の姿が見えるが、その表情にはどこか疲れがにじんでいるようにも見える。ニュースやネットで漂う “社会崩壊” の空気が、人々を少しずつ追い詰めているのかもしれない。
 しかし、三人にはもう迷いがない。小さなテーブルで交わした決意が、彼らを前に進めるのだ。そこに彩花の面影と、佐伯が苦しげに呟いた “騙された” という怨念が重なる。
—隠蔽工作の全貌が暴かれれば、何が変わるのか。
—あるいは、逆に国の巨大な力で揉み消され、彼らが社会的に抹殺されるのか。

 いずれにしても、この国の未来を左右しかねない“巨大な波” がもうそこまで押し寄せているのは間違いない。それをついに表へ引きずり出す準備は、着々と進んでいた。


揺れる政界と世論

 同じころ、永田町では国会審議が一段と慌ただしさを増していた。与党議員の一部からも「義務ボランティアは凍結すべき」という声が上がり、野党は「厚生労働省の介護政策に大きな欠陥がある」と追及の姿勢を強めている。
 しかし、肝心の厚労省上層部は「検証委員会を設ける」と言うばかりで、具体的な不備や改善策には触れようとしない。インタビューを受けた大臣は「国として痛ましい事件を重く受け止めているが、介護ボランティア自体は有意義な制度だった」と繰り返すだけだ。

 一方、SNSでは「#高齢者なんて不要」「#若者を犠牲にする政策反対」など、両極端のトレンドが同時に走り、街頭のデモは日に日に先鋭化。警察の機動隊が出動する騒ぎも発生する。メディアは連日その様子を報じ、視聴者の不安と怒りを増幅させていた。
 そんな混沌の渦中、“ある記事が近く大きく報じられるらしい” という噂が少しずつ流れ始める。内部文書や機密データが流出したという未確認情報も、ネットの片隅で囁かれていた。厚労省にとっては最悪のシナリオが近づいているのかもしれない。


 そして、運命の時は刻一刻と迫る。
隠蔽工作が公にさらされたとき、この国はどう動くのか。
騙された老人、奪われた少女の命、歪んだ政策――あまりにも多くの問題が、いま一つの場所に集まろうとしている。

 物語は次第に加速を増し、破局へと突き進むのか、それとも新たな道を切り開くのか。その結末は、当事者たちの勇気と決断、そして社会全体の意思にかかっていた。
 午後から吹き始めた風が、春の香りを含みながら都心のビルの谷間を駆け抜ける。だが、その風が運んでくるのは暖かい春ではなく、大きな嵐の前触れかもしれない。

 暴かれる隠蔽。その衝撃は、もう誰にも止められないところまで来ていた。


第十九章 告発の刻

 翌週、まるで春の嵐を思わせる強い風がビルの谷間を吹き抜ける昼下がり。警察署の一室では刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)が、重々しい表情のまま上司と向き合っていた。机の上には厚労省や外郭団体が秘匿していたと思われるデータの一部コピー、そして義務ボランティアの実態を示す内部文書。いずれも “非公式” に入手されたもので、警察組織の規則からすればかなり際どい代物だった。

「蒲田、おまえ……どこまでやる気だ」
 上司は渋い顔で腕を組み、事務机の向こうから低く問いかける。
「殺人(厳密には暴行致死)の容疑者が認知症で責任能力に疑いがある以上、起訴を視野に入れた捜査は難しい。だが、最近のおまえは “介護制度の闇” にまで踏み込んでる。組織としては立件の可能性が低い以上、そこまで手を広げるのは好ましくないんだが……」

 言外に “やめておけ” と警告しているのは明らかだが、蒲田は揺るがない。
「ええ。けど、被害者遺族の三浦さんは納得していません。それに、事件の背景に厚労省がデータを改竄してきた形跡がある。国が見て見ぬふりをしていた歪みが、少女の死を招いたのかもしれないんですよ。警察が ‘殺人の証拠が曖昧だから関係ない’ で済ませるわけにはいきません」
 熱のこもった言葉に、上司は黙り込む。実際、以前から政府筋との“軋轢”を嫌う幹部が多く、政治的な事件に正面から突っ込むことは敬遠されがちだった。だが、あまりにも世論の風当たりが強くなっており、放置すれば警察への批判も高まりかねない。

 ついに上司は「勝手な行動はするなよ」とだけ呟き、渋々許可するようにおりる。
「ただし、あくまで ‘被害者遺族の心情を汲んで事実確認を行う’ 以上の範囲は越えるな。もし過度に政治問題化すれば、こっちもおまえを庇いきれない」
「承知してます」と短く答えた蒲田は書類を抱え、頭を下げて部屋を出る。一見譲歩したかに見えるが、内心では「これで十分だ」と思っていた。


記者会見への布石

 同日、ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は準備をほぼ整えつつあった。外部の大手新聞社と連携し、“認知症データ操作疑惑” を中心に「義務ボランティア導入の裏側」や「厚労省の隠蔽工作」を一斉に報じる段取りだ。自ら執筆した特集記事がネット上で公開されると同時に、テレビ局のニュースでも第一報が流れるはず。
 ただし、最後の“鍵”として、被害者遺族である三浦慎一(みうら・しんいち)が “公の場で声を上げる” ことが求められていた。悲劇の当事者による訴えこそ、最大の説得力を持つからだ。滝沢はそれを承知している一方、安易に慎一へ負荷をかけることを恐れてもいた。

 夕方、都心のカフェで、滝沢と慎一が再び向かい合う。
「……いよいよ来週の記事公表に向けて準備しています。でも、やはり慎一さんご本人が何らかの形で ‘真実を求める声’ を発信してくださらないと、国や自治体は動かないと思うんです。実名で、顔出しで、インタビューに答えるとか、会見を開くとか……」

 慎一はコーヒーに視線を落とし、しばし沈黙する。娘を亡くしてまだ日は浅い。本来なら静かに喪に服していたかっただろうし、記者会見など大勢の目に晒される行為は苦痛を伴う。それでも――。
「分かっています。ここまで来て尻込みしても、彩花が報われない。どんなバッシングを受けようと、この事実を世に知らしめるしかないんですよね」
 そう語る瞳には、もう揺るぎのない決意があった。彩花を殺された怒りと、佐伯という老人が抱える “騙された” という無念、さらに今回の隠蔽疑惑――すべてを抱えてでも進まなければならないという覚悟だ。

「ありがとうございます。会見の場や取材は、私が責任を持って調整します。警察の蒲田さんも ‘できる限りサポートする’ と言ってましたし、もし示談や圧力をかけられても私たちが守ります」
 滝沢はそう言うものの、相手が“国”や“巨大官僚組織”である以上、どこまでカバーできるかは分からない。それでも、慎一が一人きりで戦うよりは遥かに安全だろう。

 二人は日程を確認し、翌週初めに記者発表を行う方針を固める。滝沢の執筆した特集記事も、同日付で朝刊・ネット配信される段取りだ。つまり、その日を境に一気に“闇”が表へ噴き出す仕掛けである。
「……やるしかないですね」
 慎一がひときわ静かな声で言うと、滝沢は目を伏せて頷いた。周囲の客は楽しげに談笑しているが、彼らには全く聞こえない戦慄がこの小さなテーブルを包んでいた。


厚労省の訪問者

 その翌日、三浦慎一は自宅近くのスーパーで買い物をしている最中、携帯に着信があった。番号を見ると、市役所職員が使う専用ダイヤルらしい。さほど珍しいことではなかったが、出てみると先方は妙に落ち着かない口調でこう告げてきた。
「三浦さん、実は厚労省の担当者が三浦さんとお話ししたいと言ってまして……。市役所のほうでお時間を取れないかと問い合わせが来てるんです」

 来たか――と慎一の胸に苦い思いが広がる。滝沢からも “そろそろ厚労省が動くはず” と聞いていた通りだ。おそらく示談や補償の話を持ちかけ、記事や会見を断念させようとする可能性が高い。
「今さら何を……。私はもう話すことなどありません。もし用があるなら、来週の記者発表を待つよう伝えてください」

 慎一がそう拒絶すると、電話の相手は慌てた口調で続ける。
「え、あの……できれば直接会って詳細をお聞きしたいと。もう市役所の応接室を押さえているそうで、三浦さんが来てくれればすぐ対応する、とのことですが……」

 正直なところ、慎一も一度くらいは厚労省の連中と真っ向から話してみたいと思っていた。ただ、今行けば何をされるか分からない。“謝罪” と称した隠蔽交渉に巻き込まれ、あるいは脅されるかもしれない。
 だが、堂々と拒絶して逃げるのも “腰が引けてる” と見られるかもしれない。むしろ積極的に会って、そのやり口を記録し、公表の材料にするほうが得策かもしれない。

 慎一は迷った末に答える。
「分かりました。明日なら時間が取れます。市役所の応接室でいいんですね。……ただし、私も ‘証人’ を同行させます。できるだけ短い時間にしてください」

 証人とは、もちろん滝沢冴子か、もしくは蒲田刑事を想定していた。電話の相手は少し戸惑ったが、「承知しました。担当者にそうお伝えします」と言って、慌ただしく通話を切る。
 ──こうして、奇しくも“爆弾記事” の発表を目前に控えたタイミングで、被害者遺族と厚労省の直接交渉がセッティングされることになった。


荒れる前夜

 夜、街のいたるところで高齢者排斥を訴えるビラが貼られたり、SNSで過激な動画が流れたりしていた。テレビのワイドショーでコメンテーターは「こんなに憎悪が向かうのは異常事態だ」と口を揃えるが、具体的な方策は示されない。
 厚労省は連日「在宅介護と施設介護をバランスよく活用すべき」と無難なコメントを繰り返すが、もはや世論の怒りは収まらない。政治家たちも次の選挙を見据えて右往左往し、「高齢者優遇を見直すべき」「いや、若者支援を拡充せよ」と騒ぐだけで、問題の根幹には触れようとしない。

 そんななか、ジャーナリスト仲間の間では「近々、厚労省を揺るがす大スクープが出るらしい」という噂が急速に広まっていた。すでに一部の記者や編集者が動いており、情報が漏れ伝わっているらしい。
「データ偽装? 介護政策の不正? そこに中学生少女の死亡事件が絡んでいる?」
 メディア関係者の間で交わされる囁きは、まさに“山が動く” 前夜の空気だ。もし本当に政府の隠蔽が暴かれれば、国会で追及が起きるだけでなく、社会の混乱はさらに拡大するかもしれない。

 しかし、この嵐のような動きの中心にいる当事者たち——三浦慎一、蒲田修二、そして滝沢冴子は、それぞれ揺るぎない思いを胸に携えていた。慎一は娘・彩花のために、蒲田は捜査官としての信念を守るために、滝沢はジャーナリストとして真実を追い求めるために。
 誰もが身の危険を感じながら、それでも立ち止まるつもりはない。もし止めてしまえば、また別の“彩花”が生まれてしまうかもしれないからだ。


市役所での対峙

 そして運命の会合の日。昼下がり、市役所の応接室に三浦慎一が現れ、その一歩後ろに滝沢冴子の姿もあった。電話での予告通り、“第三者の証人” として同行しているわけだ。
 部屋に入ると、スーツを着た男性が二人座っている。かつて何度か見かけた面影もある――厚労省○○局の担当者たちだ。その横には、市役所の課長クラスらしき人物も同席しており、場の雰囲気は固い。
「本日はお忙しいところありがとうございます。さっそくですが……」
 穏やかとも言える口調で話し始めたのは、厚労省の山岸という男だった。どこか偽りの笑みを浮かべながら、資料を取り出してテーブルに広げる。

「このたびは、本当にご遺族にはお気の毒なことでした。国としても、義務ボランティア制度の安全管理が行き届かなかった点を痛感しており、何らかの形でご慰労・ご補償を検討したく……」
「要するに、お金を出すから黙っていてくれ、ということですか?」
 慎一は抑えた声で切り込む。山岸は一瞬動揺したように瞳を揺らすが、すぐに笑顔を取り戻し、
「いえいえ、そういうわけでは……。ただ、痛ましい事故の被害者として、法的救済の枠組みを用意できるかもしれない、というお話です。実際、過去の事例でも同様の形がありまして……」

 すると滝沢がスッと手を挙げ、毅然とした目で問いかける。
「“過去の事例” とは具体的にいくつあるのですか? 同様の死亡事故があったのに公表されていないということでしょうか?」
 山岸はハッと顔をこわばらせ、「いや、あくまで一般的な補償制度のことです」と逃げるような言葉を返す。

 慎一はテーブルを見つめながら、冷たい声で言う。
「僕は既に来週、記者会見を開いてすべてを話すつもりです。私が知り得た ‘義務ボランティア制度の問題点’ と ‘厚労省が認知症データを操作していたかもしれない疑惑’ について……。補償だの救済だのは、その後の話でしょう」

 一瞬、部屋の空気が凍りつく。山岸やその隣の男は目を見交わし、目に見えて動揺を走らせる。
「だ、だけど、それは単なる推測では……? そもそも、当時のデータの多くは既に——」
「ええ、破棄したんですよね? ただ、おかげさまで手元にはオリジナルの一部コピーがあります。もちろん証人付きです」
 滝沢があくまで冷静に言い放つと、厚労省の職員たちは明らかに青ざめる様子を隠せない。おそらく “外へ漏れた” とされる文書を知らずにいるのか、それとも本当に存在しないと信じているのか。

 そこで山岸の相棒とおぼしき男が、少し声を荒げる。
「三浦さん、そんなことをしても誰も得しませんよ。国を相手に争ったところで、大した結果になるとは——」
「娘を殺された私が ‘誰も得しない’ なんて言葉に納得するとでも? 彩花は犠牲になったんです。あなたたちが作り出した歪んだ制度に巻き込まれて。私はもう、後戻りするつもりはありません」

 慎一の静かな怒気に満ちた口調が、応接室の空気を震わせた。滝沢もまた、その場を記録するかのようにスマホをテーブル上に置いてメモをとっている。市役所職員が「ま、まあまあ……」と取りなすが、このやりとりを止められる雰囲気ではなかった。

「本日はこれで失礼します。話し合いはもう十分。もし何か意見があるなら、来週の記者会見で公にしましょう。あなた方が言う ‘補償’ とやらも、その場で堂々と提案してもらって構いません」
 慎一はそう言い残すと、滝沢を促して立ち上がる。厚労省の男たちが口を挟む前に、二人は部屋を出た。市役所の廊下を急ぎ足で歩きながら、慎一は苦い表情のまま「これでよかったんですよね……」と滝沢に問う。

「ええ、全然問題ないと思います。向こうの出方を見る限り、やはり ‘補償金で黙らせる’ 以外の策はなかったのでしょう。……これで彼らも腹をくくるはず。何をしてきても、公に晒すだけです」
 滝沢の口調には、決意とやや苛立ちが混じっていた。あまりに予想どおりの対応に、むしろ暗澹たる気分を深めたのだろう。
「でも、彼らがこのまま黙っているとは思えません。もしかすると、もっと強い圧力や妨害が来るかもしれません……お気をつけくださいね、三浦さん」
「もちろん。そのつもりでいます」

 二人は外へ出て、少し冷たい風を受けながら互いを見つめる。厳しい道のりが続くのは間違いないが、もう恐れることは何もないというように、慎一のまなざしは揺るぎなかった。


最終報復か、それとも——

 市役所の応接室に取り残された厚労省職員たちは、青ざめた表情で顔を見合わせる。山岸が深く舌打ちし、「ちくしょう、あいつら本気だ。どうする?」と相棒に小声で詰め寄る。
「想定外だな。こんなに具体的な資料を握ってるとは……上は ‘既に破棄済み’ と言ってたのに。そもそもどうやって手に入れた? もし内通者がいるなら……」
 早口で囁き合うが、今さらどうにもならない。隠蔽工作が露呈するのも時間の問題だ。彼らは「上に報告するしかないだろう」と意気消沈し、市役所職員に平謝りをしてからそそくさと退席した。
 このまま黙っていれば、来週の記者会見で大々的に “不正” が暴かれる。圧力をかけても逆効果。残る手は……もし彼らが行きつく先に“何でもあり” の強行策があれば――。
 しかし、そんな行為がさらに大炎上を招くことは想像に難くない。結局のところ、すでに後戻りはできないところまで事態が進行しているのだ。


 こうして、三浦慎一と厚労省の話し合いは決裂の形をもって終わった。まもなく、全国規模のメディアが“驚愕のスクープ” と称して介護データ偽装疑惑を報じ始めるだろう。滝沢が執筆した記事も時を同じくして公開されれば、義務ボランティア制度が孕んでいた闇の全貌が一気に明るみに出る。
 佐伯政弘(さえき・まさひろ)の痛切なうめき「騙された」は、国が長年ごまかしてきた事実を象徴する言葉となるかもしれない。そして、中学生少女・彩花の死が突きつけた問題を、社会全体がもはや無視できなくなる。

 あとは、蒲田修二が捜査の枠内でどこまで踏み込み、証拠を正式に押さえるか。佐伯が再度意識を取り戻し、決定的な証言を残せるか――時限爆弾のように秒針が進んでいくなか、当事者たちは最後の準備を急いでいた。
 “隠蔽工作” はもはや破綻寸前。ついに大きな嵐が訪れたとき、この国の人々は何を選ぶのか。そして、少女の死は、どんな未来を開くのか。
 答えはもうすぐ、激しい風とともに押し寄せてくる。隠し通せない“暗部” が、ここにきて完全に姿を現し始めていた。



第二十章 厚労省の最終報復

 初夏の兆しが見えはじめたある朝。
 記者会見まで、残すところあと二日。三浦慎一(みうら・しんいち)とジャーナリスト・滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、警察の蒲田修二(かまた・しゅうじ)刑事と密に連絡を取り合いながら、最終的な調整を急いでいた。
 介護データ偽装、義務ボランティア制度の闇、そして彩花(あやか)の死が映し出す国の責任――これらを公の場に突き付ける瞬間は目前だ。滝沢と協力する大手新聞社やテレビ局も、独自の取材を水面下で進め、発表のタイミングを待っている。
 だが、そんな緊迫のさなか――厚生労働省が“最後の手段” と呼べるような強引な行動に出るとは、誰もが完全には想定しきれていなかった。


奇妙な事故

 会見の二日前。午前中からどこか肌寒い風が吹き、都会の空が鈍色の雲で覆われはじめた昼下がり。
 三浦慎一は外回りの仕事を早めに切り上げ、自宅へ戻ろうと駅前を歩いていた。記者会見に向けて用意する書類や、滝沢に渡す書きかけの声明文など、やるべきことが山ほどある。
 けれど、ふと足を止め、背後から視線を感じる。その日は朝からなんとなく“誰かにつけられている” ような妙な気配が続いていた。通勤時間帯ほど人通りは多くないが、ビジネス街のはずれにはスーツ姿の人影がちらほら。

(……気のせいか? だとしても、警戒はしておこう)
 そう自分に言い聞かせ、慎一は視線をぐるりと巡らせながら、駅前の横断歩道を渡る。だが、途中で突然、視界の隅から猛スピードで車が突っ込んできたのだ。
「危ないッ!」
 周囲の人が悲鳴を上げる前に、慎一はかろうじて体を引き、車道から反対側へ転がるように跳んだ。車はブレーキをほとんどかけずに通り過ぎ、すぐ先の交差点で急加速して姿を消してしまう。

 辺りにはパニックが走る。歩行者信号が青だったのに、猛スピードで突っ込んできたわけだから、明らかに“事故” とは呼びにくい。不幸中の幸いか、慎一は肘をすりむいた程度で済んだものの、視線を鋭くさせながら呆然と車の後を見やる。
「いまの……何なんだ……。わざと……?」

 騒ぎに気づいた交番の警官が駆け寄ってくるが、車両のナンバーもはっきり分からず、周囲の目撃者も「白いセダン」「外国車かもしれない」程度の証言しか得られない。
 慎一の脳裏には、厚労省担当者との市役所での話し合いがよみがえる。あからさまな脅しを受けたわけではないが、彼らの焦り具合と怒りの色は確かに目に宿っていた。まさか……いや、まさかそんな……。
「とにかく、身を守らないと……」

 唖然とする周囲の視線を感じながら、慎一は震える手でスマートフォンを取り出し、まず最初に蒲田刑事へ連絡を入れた。あともう一つ――滝沢にも知らせておかなければならない。


不穏な訪問者

 その晩、滝沢冴子は自宅アパートの部屋で原稿の最終チェックをしていた。翌朝には大手新聞社へ送稿し、連携するテレビ局とも流れを打ち合わせる予定。正真正銘の“ラストスパート” だった。
 すでに深夜近く。窓の外は人通りも少なく、街灯だけが淡く光を落としている。そんなとき、玄関チャイムが突然鳴った。こんな時間に客が来るはずもなく、思わず身を強張らせる。

 恐る恐るインターホンを取ってみるが、相手は何も言わず呼び鈴を再度押してくる。モニターにはスーツ姿の男が映っているが、顔はうつむいて見えない。
(なに……? こんな時間に来るなんて非常識にも程がある)
 滝沢は警戒モードを全開にし、チェーンをかけたままドア越しに声を張る。
「どちら様ですか? もう夜も遅いので、また明日——」

 だが、返ってきたのは低く押し殺した声。「ちょっとだけ、お話を……。厚生労働省の者ですが……」
 聞いた瞬間、滝沢の全身を冷たい汗が伝う。まさか先方が“話し合い” という名目で押しかけてきたのか。しかもこんな深夜に。
「取材依頼でしたら、改めてお願いします。今は対応できません」
 ピシャリと拒絶しても、相手は執拗にチャイムを鳴らし続ける。

「すぐに済みますよ。あなたにとっても悪い話ではない——」
 薄くドア越しに聞こえる声には、どこか不穏な含みがある。滝沢は意を決してスマホを操作し、録音を開始する。同時に、いつでも通報できるように指を構える。
「申し訳ありませんが、お引き取りください。私は法的手段も辞さないつもりです。あと少し続けるなら警察を呼びます」

 するとドアノブがガチャガチャと揺らされ、思わず滝沢は悲鳴を噛み殺す。チェーンが外れていないので部屋に押し入ることはできないが、この行為だけでも十分に威圧だ。
 が、次の瞬間、男はドアを殴るような音を立てつつ「——分かった。だが、あなたもあまり面倒なことをしないほうが身のためだ」 と脅すような一言を吐き、足音を荒らげて立ち去った。
 滝沢はすぐには動けず、背中に冷や汗が伝うのを感じる。——厚労省の肩書を騙る者かもしれないし、本当に省の回し者かもしれない。いずれにしても“最終警告” と取れる行動だった。


刑事の動揺

 翌朝早く、蒲田修二のもとに滝沢から着信が入り、一通りの状況を聞かされた。滝沢が襲われこそしなかったものの、自宅に不審者が押しかけ威嚇したとなれば、ただの偶然とは思えない。しかも三浦慎一も昨日、不可解な“交通トラブル” に遭っている。
「……やはり、これ以上証拠を出されるのを阻止したい連中がいるんでしょうね。仮に厚労省自体が指示したわけではなくても、誰か省内の強硬派が独断で動いている可能性もある」
 蒲田は電話越しにそう言いながら、自身も含めて危機管理を強化するよう呼びかけた。「何かあればすぐ連絡を。俺も私用で動ける範囲でサポートする」と。

 内心では怒りが煮えたぎる。——警察内部が慎重すぎるせいで、当事者がこんな目にあっているのだ。上司を説得して動きたいが、現状では一件一件“偶発的事故” “ただの不審者” で処理されかねない。
(もう時間がない。会見まであとわずかだ。厚労省がほんとうに “何でもあり” の手段に出るかもしれない……)


佐伯政弘の病室

 同じ頃、県立病院の一室では、依然として佐伯政弘(さえき・まさひろ)が意識の混濁と鮮明を繰り返していた。ここ数日は比較的落ち着いているらしく、主治医や看護師によれば“一時的に言葉を交わせる” 状況も増えているという。
 蒲田は上司の反対を押し切り、再び面会を試みた。もし佐伯が今、まともな形で一言でも証言を残せるなら、それは揺るぎない“トドメの証拠” になりうる。
 ただ、この動きを知った厚労省の役人が「捜査立ち合い」を要求してきたが、病院側が「患者の利益を最優先する」と断ったため、なんとか二人きりで話をすることが許された。

「佐伯さん……分かりますか。警察の蒲田です。あなたがかつて取り組んでいたデータ、介護の研究、それらを誰がどんなふうに利用しようとしたのか……今ならまだ間に合うかもしれません」
 ベッド脇で小声に語りかけると、佐伯は痩せこけた顔をわずかに持ち上げ、視線をゆらゆらと彷徨わせる。口元を開くが、声にならない。そこに看護師が氷水を含ませた綿棒を差し出し、唇を潤わせてくれる。

「……ま、まだ……遅く……ない、か……?」
 乾いた声が何とか聞き取れる。蒲田は息を呑みながら前のめりになる。
「ええ。もうすぐあなたの研究の正体が公表されます。あなたを ‘騙した連中’ を、国民みんなが知ることになる。だから、力を貸してください。あなたが ‘何をされたのか’ を言ってくれたら……」

 しかし、佐伯の声はそこで潰えるように、かすれた呼吸だけに変わってしまう。――無理はさせられない、と看護師の視線が合図してくる。蒲田は諦め半分で手を引きかけるが、佐伯の手が弱々しく蒲田の袖を掴んだ。
「……やつら……潰す……べき……俺は、苦しんでる人……見たくない……」
 言い切った瞬間、佐伯の目から涙が一筋こぼれる。怒りと悔しさを滲ませた表情――その断片だけで、彼が本気で介護や認知症に向き合っていたという事実を蒲田は悟る。きっと、誰よりも純粋に研究をしていたがゆえに、国の都合で改竄されたときの絶望は凄まじかったに違いない。

「……分かりました。あなたの思い、きっと受け止めます。だから、もう少しだけ頑張ってください」
 蒲田が絞り出すように言葉をかけると、佐伯はわずかに安堵の表情を浮かべ、再び浅い呼吸の闇に沈んでいった。


最終報復

 そして記者会見の前日。厚労省がどう出るかと固唾を飲んでいたが、意外なほど表向きの動きはない。むしろ“静かすぎる” 状況が慎一や滝沢の不安を掻き立てていた。
 そんな中、滝沢のスマホに河合(厚労省外郭団体の元職員、内部告発者)から連絡が入る。顔をしかめながら通話を繋ぐと、河合の声が慌ただしい。
「やばい。自宅周辺で不審な車に何度もつけ回されてる。電話線もノイズが走ってるようだ。俺も少し身を隠す。……すでに省内部で ‘徹底的に調べろ’ という指示が出てるかもしれない」

 河合もまた、記事が出れば完全に“裏切り者” として名指しされる危険がある。滝沢は「分かりました。すぐ安全な場所を手配します」と応じるが、背筋を冷たいものが走る。 ーー厚労省というより、“もっとダークなやり方” が得意な誰かが動いている可能性を感じ取っていた。

 一方、三浦慎一の家にも不審な郵便物が届き始める。宛名は手書きで乱暴な文字、封を開けると何も書かれていない紙切れや白い粉(無害な砂らしい)が入っているだけ。明らかに悪質な嫌がらせだ。
「これが最終手段ってわけか……俺を恐怖で黙らせるつもりか」
 それでも慎一は毅然として、すぐに蒲田に知らせる。写真を撮って証拠を残し、滝沢とも情報を共有する。隙を与えないようにするしかない。


前夜

 記者会見当日の朝、全国紙やネットメディアに一斉公開される「介護政策の隠蔽工作疑惑」特集。その仕掛けはすべて整いつつある。パズルの最後のピースは、三浦慎一が会見の場で語る“中学生少女の犠牲と、佐伯の研究が歪められた事実” だ。
 滝沢が確認したところ、大手テレビ局も“有力政治家のスキャンダル並み” に大々的に取り上げる準備をしているという。つまり、厚労省サイドが今さら火消しをしても間に合わない。
 逆上した一部の勢力が、慎一や滝沢、そして河合を物理的に排除する危険はゼロではない。しかし、そうなれば余計に社会を燃え上がらせることになる。“最終報復” に打って出れば、取り返しがつかない結末が待つだろう。

 深夜、滝沢はアパートの室内で最後の校正を終えた。チームのエディターに送信し、明日早朝に記事が自動でアップされる手はずだ。「あとは……もう、なるようにしかならない」
 さすがに胸が高鳴って眠れそうになかった。もし明日すべてが公開されれば、きっと国中が揺れる。少なくとも、一人の中学生が犠牲になった事実と、その背景にある国の“闇” は、人々の目からもはや逃れられないだろう。

(佐伯さん……あなたの “戦わないといけない” という叫び、きっと届きます。彩花さん、あなたの死が無駄にならないように——)
 目を閉じると、あの日、病室で涙を流した老人の姿と、笑顔のまま命を奪われた少女の姿が交錯する。暗闇の中に沈んでいた声なき声が、ようやく世界に響きはじめるのだ。
 押し寄せる恐怖に震えながら、しかし滝沢は拳を握りしめて瞳を固く閉じる。あと数時間で夜が明ける。その先に待っているものが、報復なのか、変革の始まりなのか――。

 “厚労省の最終報復” と呼べるような圧力は、すでに水面下で炸裂し始めている。しかし、彼らが危険な手に踏み切れば引き返せない。そこには世論の怒りと海外メディアの注視が待ち構え、まさに “国を滅ぼしかねない” 爆発を誘発するかもしれないのだ。
 こうして、嵐の前夜は静かに更けていく。すべては明日の記者会見と報道によって、一気に流れ出すだろう。歪んだ介護政策、義務ボランティアの残酷な真相、中学生少女の死と“騙された” 老人の慟哭――その全貌が世に広まる瞬間を、誰も止めることはできない。



第二十一章 嵐の朝

 約束の朝が来た。
 薄い雲間から差し込む朝日が街をほんのり染めている。ニュース番組はいつもと変わらぬ調子で天気や交通情報を伝えているが、まもなく激しい風が吹き荒れるのは、あらかじめ決まっていたかのようだった。

 ジャーナリスト・滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、夜明けと同時にパソコンの前で待機していた。きのうの深夜に予約投稿をセットしておいた特集記事が、まさに今、ネット上へ公開されるタイミングだ。
 ――「在宅介護政策の闇 義務ボランティアが招いた悲劇と厚労省による隠蔽工作」
 タイトルには過激さを抑えつつも、強烈に事実を突きつける言葉を盛り込んだ。本文には厚労省と外郭団体のデータ改竄疑惑、佐伯政弘(さえき・まさひろ)の研究と妨害の痕跡、さらに三浦彩花(みうら・あやか)の死がどんな背景を持っていたかが、可能な限りの証拠をもって示されている。合わせて、慎一のコメントと「会見予定」の告知も短く添えてある。

 午前6時を回るころ、滝沢のスマホが絶え間なく震え始めた。大手新聞社のサイトでも関連特集を掲載し、朝刊に見出しが大きく踊っているらしい。テレビ局からは「朝のワイドショーで取り上げたい」という連絡がひっきりなしに入る。SNSを見ると、まだ記事が出て数分と経たないのに「#介護データ偽装」「#義務ボランティア闇」というタグが一気に急上昇ワードへ躍り出た。
 ――ついに動き出した。今さら止まらない。止めさせるつもりなら、相当強引な手段に訴えるしかないだろうが、もうファイルは複数のマスメディアに渡っていて、どこかを潰しても二次、三次の報道が湧き上がる仕組みになっている。

「……始まったわね」
 滝沢は深呼吸して、ディスプレイに流れるニュース速報のテロップを見つめる。あと数時間後には、被害者遺族である三浦慎一(みうら・しんいち)が大手記者クラブで会見を開く。そこに蒲田修二(かまた・しゅうじ)刑事も“非公式” に立ち会う形を検討していた。
 記事のアップを知った厚労省が、早朝から何らかの緊急対応を動かす可能性は高い。が、それはもはや“火に油を注ぐ” 行為にしかならないだろう。この国に何が起きるかは、もう誰にも予測できない。


混乱の波紋

 果たして、すぐに「激震」という言葉が現実のものとなる。朝の情報番組が7時台には「厚生労働省の介護政策に重大疑惑」などと速報を流し、大手新聞各紙の一面に「義務ボランティア死の背後にデータ操作か」といった衝撃的な見出しが並んでいる。
 SNSは瞬く間に炎上状態になり、「やっぱり国はウソをついてた」「子どもを犠牲にしたのは政府の責任だ」など、さまざまな怒りや絶望の声が交錯する。逆に「こんな捏造記事、信じるな」という反論もあるが、掲載された資料の一部が写真やPDFとして拡散され始めると、多くの人が否応なく真実味を感じざるを得ない状況へ追い込まれる。

 厚労省は早朝から記者クラブにコメントを出したが、「現時点で確たる報告は得ていない」「調査委員会を立ち上げる予定」といつもの対応を繰り返すのみ。メディアは「省内が大混乱」「緊急会議が連発している」という情報を続報として流し、国民の関心は一気に高まる。
 ――さらに、義務ボランティア制度そのものが問われる流れとなり、世論は「制度そのものを即刻廃止せよ」「財政難のツケを若者に押し付けた責任をとれ」と沸騰。高齢者排斥を叫んでいた過激派の一部は「だからこそ老人を徹底管理しろ」と暴走を加速させ、一方で「高齢者こそ被害者だ、行政に放置されている」と別のデモが急拡大する。街中はさらなる混乱へ向かう気配が高まっていた。


記者会見直前

 午前11時。都内の会議室ビル。借り切られた大きめのホールには、カメラと記者たちが押し寄せ、ざわめきが止まらない。“介護政策の闇を告発する記者会見” として告知されたイベントは、通常の政治スキャンダルよりも衝撃的な注目を集めている。
 ステージ脇で待機している三浦慎一は、深く息を吐いて落ち着かない様子だ。隣には滝沢冴子が控え、資料の最終点検をしている。警察の蒲田修二は“表舞台” には出られないが、会場の後方でこっそり見守ることにしていた。

「大丈夫ですか、三浦さん。きっといろんな質問が飛んでくると思いますが、無理に何でも答えようとしなくていいんです。最初は今回の記事と事実関係だけで十分です」
 滝沢が優しい声で語りかける。慎一はこわばった顔でそれに微かにうなずきながら、用意してきた手元のメモを見る。彩花の写真とともに、“国の歪んだ制度が子どもたちを危険にさらした” というメッセージを発する予定だ。
 時計の針が11時を回る。司会役のスタッフがタイミングを見計らい、軽くスピーチを始める。――そして、目を向けられた慎一は大きく息をつき、壇上のマイクへ歩み出た。


突然の出来事

 「……皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。私は三浦慎一と申します。義務ボランティア制度で……娘が……」
 唇を震わせながらも懸命に言葉を紡ぎ、ステージに押されたマイクの音が会場へと響く。フラッシュがたかれ、カメラのレンズが一斉に慎一を捉える。
 写真を掲げ、彩花がどんな少女だったかを端的に語る。時おり声が詰まるが、滝沢やスタッフのサポートでなんとか続ける。やがて、本題へ――。

「……私は最近、厚労省やその外郭団体が ‘介護データを改竄して在宅誘導を進めていた’ という重大な疑惑を示す資料を目にしました。そこには、『重度の認知症患者でも家族や地域に丸投げし、若年ボランティアを当てにする』 そんな無責任な方針が見え隠れしています。ここで一部を公開します」
 ステージ上のスクリーンに映し出されるPDFや表データ。記者たちが息を呑む。すでにネット上で流れているものと同じだが、被害者遺族の手で公に出されるインパクトは桁違いだ。
 会場がどよめくが、慎一は続ける。「さらに、それを知りながら口を封じられた人物がいます。佐伯政弘という元研究者で、いまも病院で闘病している老人です。彼は私の娘を――」
 少し声が詰まる。「――あやかを殺してしまった加害者でもありますが、同時に、国に“騙された” と嘆いていた被害者でもあるんです。私はこの場を借りて、国に問いかけたい。なぜこのような制度が押し通されたのか——」

 その時、会場後方で突然、大声が響いた。「ウソだ!」
 記者たちが一斉に振り返ると、黒いスーツを着た男が数名、スタッフを押しのけるようにして会場に入り込んでくる。明らかに様子が異常だ。男たちは何らかの書類を手にしているらしく、「これはデマだ」「不当な情報だ」と叫びながら、壇上へ詰め寄ろうとする。
 司会が制止を試み、警備スタッフが駆け寄るが、男たちは「我々は厚生労働省の正式職員だ。緊急の訂正を要求する!」 と強引に場を乱す。メディア関係者が一斉にカメラを向け、会場は騒然。

「このデータは捏造だ! すでに公的記録は破棄されている。こんな虚偽を広めるな!」
 前へ突進してくる彼らの姿に、慎一は唇を噛む。滝沢が即座にマイクを手に取り、「あなた方の身分証明は? 正式に取材申請はしているのか?」と問いかけるが、男たちは押し黙る。まるで“真正面から否定する” だけの指示を受けてきたような、単調な動きだ。

 すでに報道カメラが回っており、ライブ配信している記者もいる。男たちは自分たちの姿が記録されていることに気づくと、さすがに言葉を失い始める。やがて現れた警備員と記者クラブ関係者が彼らを取り囲み、「ここは正式な会見場だ。退場してもらう」と告げる。
 しばらくゴタゴタが続いたあと、男たちは苦々しそうに吐き捨て、「黙っていると痛い目に遭うぞ」と捨てゼリフを残して立ち去った。
 その光景は全国生中継され、多くの視聴者が呆然と見守る結果となる。荒い息のままマイクを握る慎一の姿が画面に映し出され、静まりかけた会場に一言が響く。
「……これが、彼らの答えですか。残念です。けれど私は、もう黙りません」


社会を揺るがす余波

 会見は波乱の形で中断されたものの、多くのメディアが「厚労省職員が会見を妨害か?」 として一斉に報道した。厚労省はすぐに「本省は関与していない。妨害行為を行った人物については確認中」と発表するが、もはや火消しどころか炎上は止まらない。
 街頭では「国が本当にデータを改竄していたのなら重大犯罪だ」「子どもを死なせた責任をどう取るんだ」という声が数多く上がる一方、「無責任に老人を増やした結果だ」「政治家はどこまで嘘をつくのか」と国への怒りがさらに爆発。SNSでは「#騙されたのは国民全員」「#厚労省打倒」などのハッシュタグが雪崩のように拡散される。

 夕方のワイドショー番組では、三浦慎一が涙ながらに娘の写真を掲げ、必死に言葉を搾り出すシーンが繰り返し放送される。そして、それを妨害した謎の男たちの映像に視聴者は大きな衝撃を受けた。国会議員からも「審議を開き、厚労省に説明責任を果たさせるべき」との声が相次ぎ、政治は一気に揺れ動きはじめる。
 ――隠蔽工作が公にされ、しかも暴力的な妨害が露呈したことで、厚労省に対する疑念は一気に確信へと変わった。彼らが“最終報復” と称して圧力をかけるほど、人々の不信感を高めるだけの逆効果になったのだ。


病室に届く響き

 その日の夜、病院では蒲田が佐伯政弘の病室を再度訪れ、簡単な報告を試みた。「あなたのこと、新聞やテレビが扱っていますよ。大勢が ‘真実を知りたい’ と動いてる。……あんたのデータ改竄を暴こうとしてたんじゃないかって」。
 佐伯は微かに目を開け、呼吸器に繋がれたまま聞き取れぬ声を漏らす。言葉にはならないが、どこか穏やかな表情を見せるようにも見える。それが“一歩遅かった後悔” なのか、“やっと報われるという安心” なのか、判別はつかない。
 ただ、蒲田にはその涙ぐんだ瞳が「ありがとう……」と言っているように感じられた。


次なる嵐へ

 こうして、義務ボランティア制度の裏側に潜む数々の矛盾や不正が、一気に表舞台へ噴き出した。翌朝には衆議院の委員会が「介護政策の徹底検証」を決議し、大臣や官僚が招致される運びとなる。高齢者福祉予算の見直しや、若者支援の再編にまで発展する可能性は大いにあるだろう。
 だが、社会が混乱から立ち直るには時間がかかる。すでに高齢者排斥を叫ぶ過激派は加速し、高齢世代もまた「国が何もしないなら若者を恨むしかない」と絶望を深める風潮がある。国全体が分断しかけているなか、今回の告発が“新たな破局” の引き金になるか、“改革への道” となるか――それは、今まさに繰り広げられようとしている政治・社会の激突にかかっていた。

 記者会見で突き付けられた事実は、もはや揺るぎようがない。厚労省の最終報復が空振りに終わったことで、むしろ彼らが背負う不信と責任は膨れ上がり、政府中枢にすら影響を及ぼすのは確実だ。
 彩花という一人の少女の死、それをきっかけに動き出した父親とジャーナリスト、そして一人の刑事が掘り当てた国の闇は、すでに隠しきれるものではない。だが、これで終わりではない。これからが本当の戦い――社会全体が“どう舵を切り直すか” が問われる段階に突入したのである。

 誰もが息を呑み、ニュースを見つめるなか、三浦慎一はこの激動の中心に立たされていた。悲しみと憤りを抱えながら、今こそ娘の犠牲が変革に繋がるよう祈るしかない。彼の手の中には彩花の写真と、佐伯が命を削るように残した一言「騙された」が、重く刻まれたメモがある。
 ――世界を変えるのは、この一歩から。厚生労働省が握りしめていた隠蔽工作は崩れ去り、次なる大きな波が、今まさに国会や社会へなだれ込む寸前だった。それは破壊か、再生か。どちらに転ぶかはまだ誰にも見えないまま、嵐の中心にいる当事者たちは唇を噛み、空を見上げる。

 “最終報復” は終わった。
 ――だが、物語が示す先には、真の決着が待ち受けている。すべてが落ち着くには、まだ多くの血や涙と、国全体の覚悟が必要だった。



第二十二章 終幕の光

 朝の騒動から一夜明け、翌日。日本中のメディアは大荒れの様相を呈していた。厚生労働省が「データ偽装などの疑惑は承知していない」と繰り返す一方で、国会では与党内からも「事実関係の徹底調査をするべきだ」と意見が噴出し、閣僚会議は緊急招集されているという。SNSでは “騙されたのは国民全体だ” “国は若者と高齢者を分断した” といった声がさらにヒートアップし、幾重ものデモが同時に起きつつあった。

 だが、そんな混乱をよそに、被害者遺族の三浦慎一(みうら・しんいち)は静かにタクシーへ乗り込んでいた。行き先は、国会議事堂の前。今まさに、衆議院特別委員会で「介護政策の見直し」と「厚労省の隠蔽疑惑追及」が行われる予定だからだ。
 ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は同席できないが、彼女を通じて衆議院の野党議員に働きかけ、参考人として慎一の意見を聞きたいという打診があったのだ。慎一の胸には、彩花(あやか)の写真と、いくつかの資料が入ったファイルが抱えられている。

「三浦さん、お怪我はない? 本当に大丈夫?」
 同乗していた刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)が助手席から振り返り、声をかける。昨日の会見では厚労省職員と名乗る謎の集団に騒ぎを起こされ、一歩間違えれば暴力に発展していたかもしれない。しかし、多くの報道陣がカメラを回していたため、彼らは早々に退場した。
 慎一は短く頷き、「なんとか無事です。……でも、これで本当に終わるのか分からない」と小さくつぶやく。すでに “一線を越えた” 厚労省の強硬派が、さらに過激な手段で妨害してくるかもしれない。昨日起きた “不可解な事故” や “深夜のアパート訪問” が、今度こそ命に関わる事件になってもおかしくはない状況だ。

「俺も今日はこのまま付き添います。参考人質疑が終わるまで。たとえ私用でも、あなたを放っておけない」
 蒲田は毅然とそう言い、タクシーの運転手に「正門近くで降ろしてください」と伝える。しばらくして、国会議事堂前の大通りが視界に入る。ものものしい雰囲気の中、各局の中継車がずらりと並び、政治家や報道陣が慌ただしく行き来している。


国会の場へ

 衆議院の特別委員会室。傍聴席には普段以上の人々が詰めかけ、テレビカメラのレンズが入り口を狙っている。やがて慎一が、議員の誘導で室内の一角へ案内されると、一斉にフラッシュがたかれ、ざわつきが広がった。
 そこには、与党・野党の議員たちが席に並び、厚労大臣と数人の幹部官僚が厳しい面持ちで控えている。中には例の山岸らしき男の姿は見えないが、別の顔ぶれが並ぶ。どうやら直属の局長クラスが出席しているらしい。
 やがて委員長が「それでは、参考人として三浦慎一さんにご意見を伺います」と事務的に宣言した。

「三浦さん、おかけください」
 促された席に慎一が座り、静まる場内。その異様な圧力に、喉が渇く感覚を覚える。だが、娘・彩花の写真をそっと見やり、心を奮い立たせる。これが、本当の“終幕の光” を掴むための最終局面だ。

「……わたしは、義務ボランティア中に娘を亡くしました。原因は、認知症を患う老人による殺害でした。ひとくちに ‘不幸な事故’ とされましたが、わたしはそう思いません。そこには、若者を犠牲にした仕組みや、厚労省が都合よく作り上げた ‘在宅介護の成功’ という虚構があったのです」

 一言ずつ噛み締めるように言葉を発すると、重苦しい沈黙が委員会室を包む。議員たちの視線が一斉に慎一へ注がれ、メモをとる者、黙り込む者がいる。
「データ偽装については、すでに各メディアが具体的資料を公開しています。わたしも拝見しました。そこには、認知症患者の数を実際より少なく見せ、重度を軽度に分類し、施設の不足を誤魔化したような痕跡があります。さらに……」

 言葉が詰まり、慎一は一度呼吸を整える。娘の死と、病室で泣いていた老人・佐伯の姿が瞼に焼き付く。
「さらに、それを知りながら ‘国のため’ という名目で協力させられ、認知症を患ったあと放置され、苦しんだ研究者がいました。彼が “騙された” と嘆いた気持ちを、わたしは知っています。これは、ただのスキャンダルではなく、人命を軽視した国家的犯罪の可能性があります。ぜひ、国会として徹底的に検証していただきたいと思います」

 少し熱を帯びた声を張り上げる。野党の議員が「そうだ」と相槌を打ち、与党席からは押し黙るような雰囲気が伝わってくる。委員長が「三浦さん、ご意見ありがとうございます」と取りまとめるが、その瞬間、厚労大臣がゆっくりとマイクを取り、居並ぶカメラの前で重々しく口を開いた。

「……まずは、娘さんの死について深く哀悼の意を表します。今回の義務ボランティア制度に欠陥があったのは事実であり、国として遺憾であります。しかし、データ偽装という点に関しては、現在省内で調査委員会を立ち上げ……」
 いつもの言い回しをなぞるような説明。しかし、もうそれを鵜呑みにする議員は少ない。野党席から「じゃあ、なぜ既に明らかになっている文書を否定するのか?」「いつまで調査を続けるのか」など厳しい追及が飛ぶ。場内は一気に騒然となる。

「議員閣下、まだ事実関係が——」
「事実関係? すでに当事者が写真や証拠を揃えているじゃないか! 朝のワイドショーでも詳細が報じられたぞ!」

 やがて与党の一部議員からも「データ偽装がもし本当なら、大臣の責任問題では済まない」と声が上がり、大臣の顔色が蒼白になる。傍らの官僚も、小声で「ここは弁明だけでは収まらない」と焦りを見せる。


痛恨の結末

 このまま追及が続けば、厚労大臣や高官が辞任し、大幅な介護制度改革が避けられないだろう。だが、その先に未来があるかどうかは、まだ不透明だ。高齢者排斥を叫ぶ過激派の怒りは収まらず、施設不足も一朝一夕に解消はできない。
 ただ、この瞬間に確かなのは、“隠蔽” はもう不可能という事実だ。義務ボランティア政策そのものが全面的に見直されるのは必至だろう。参列しているメディア各社の目は、完全に “国がデータを偽造していた” という筋に注がれているからだ。

 会議の後半、三浦慎一は委員長に促され、もう一度だけ口を開く。短い言葉だ。
「……わたしは、娘が命を落とした当日から、この問題を ‘不幸な事故’ では済まないと感じていました。今、こうして国会の場で皆さんに話せるのは、私だけの力ではありません。真実を追いかけてくれたジャーナリストや、刑事さん、そして亡くなった老人の悔しさ……それらが動かしたのです。
 繰り返します。どうか、これを機に本当に必要な介護・福祉を考え直してください。私の娘の死が、無駄にならないように——」

 ステージのように配置された席で、慎一が深く頭を下げると、場内は水を打ったように静まり返る。与党席にも、思わず目を伏せる議員がいる。何人かの記者が涙ぐんでいる光景も目に入った。
 そこで委員会が休憩を宣言し、メディアが殺到する。警備職員の声が飛び交い、押し合いへし合いになる中、蒲田がそっと慎一を庇うように導き、会議室を後にした。


エピローグとその光

 国会を出たロビーで、慎一は滝沢、そして蒲田と再会する。滝沢は駆け寄るなり、慎一の手を両手で握りしめ、「本当にお疲れさまでした」と声をかける。
 スマホを確認すると、マスメディア各社が速報を流しており、「厚労大臣、辞任も視野か」「義務ボランティア全面停止へ」などの見出しが飛び込んでくる。政治的には大荒れになるだろうが、これが改革の始まりかもしれない。

「少しは、彩花に顔向けできるかもしれません……」
 慎一がぽつりと呟く。悔しさや悲しさは拭えないが、“やるべきことはやった” という安堵が、わずかに胸を満たしている。
 一方、滝沢も「わたしは、まだこの先のフォローが必要だと思います。デモや高齢者排斥の問題も、根っこは同じところにある。国はどんな施策を打ち出すのか……。私たち、まだ終わりじゃありませんね」と微笑む。

「ええ、まだまだ課題は山積みですよ。佐伯さんだって、正義が貫かれたと安心できるか分からない。でも……きっと、これが一歩目です」
 蒲田がそう言葉を継ぎ、慎一の肩を軽く叩く。自分たちが成し遂げたのはあくまで “隠蔽” を暴いたに過ぎず、本当の戦いはこれからだ。
 そのとき廊下の奥から足音が近づき、野党のある議員が走り寄ってくる。「三浦さん、少しお話を……。もし可能なら、近く国会でさらに詳しい証言を——」
 話は尽きない。慎一はちょっと戸惑いつつも「はい、わかりました」と答え、議員に頭を下げる。その背後に見える大きな窓から、外の青空が広がっているのがちらりと見えた。


数日後、新聞やワイドショーのトップは連日、厚労省の介護データ偽装問題と義務ボランティアの崩壊を報じる。
 国民の怒りはさらにヒートアップするが、同時に「高齢者をどう支えるか」「若者に負担を押し付けないにはどうするか」という前向きな議論が芽生えつつある。デモの一部は過激化を続けるものの、“高齢者と若者の橋渡し” を掲げる市民団体も現れ始め、人々の意識はすこしずつ変わりはじめた。

そして、三浦慎一は、ある休日の朝、彩花の遺影を携えて病院を訪れる。
 そこには、床に伏す佐伯がまだ生きている。主治医によれば容体はよくないが、時おり意識が戻ってうわ言を呟くことがあるという。
 慎一はそっとベッド脇に腰を下ろし、写真を見せる。
「――これが、あやか。あなたが殺めてしまった子です。でも、あなたの口から聞こえた “騙された” って言葉が、多くの人を動かしましたよ。厚労省は隠せなくなった。あなたの戦いは無意味じゃなかったんです」

 佐伯はうっすらと目を開け、声にはならない声を漏らす。涙なのか何なのか、瞳が濡れているように見える。慎一は静かに続ける。
「もし、あなたがこのまま息を引き取ったとしても、わたしは真実を抱き続けます。わたしの娘はもう戻らないけど、あなたが遺した資料や証言が、この社会を変えていくかもしれない――その一端を、こうして掴めましたから」

 佐伯の痩せた手が震える。何か伝えようとしているが、声にはならない。しかし、表情にはかすかな安堵の色が浮かぶ。慟哭と悔恨に苛まれた男が、最後に見つけた微かな光――その光を、慎一も感じているのだ。
 やがて、看護師が来て「そろそろお時間です」と告げる。慎一は静かに立ち上がり、ベッドを後にする。扉を閉じる間際に、佐伯の唇がわずかに動いたように見えた。「すまない……ありがとう……」とも取れる。たとえ聞き取れなくても、慎一にはその想いが届いた気がした。


終幕の光

 こうして、義務ボランティアが引き起こした中学生少女の悲劇と、佐伯政弘が抱えていた壮絶な真実は、厚生労働省の隠蔽工作ごと世に知られるところとなった。数週間後には大臣が引責辞任し、外郭団体の幹部数名が不正関与を認めて辞職に追い込まれる。国会では「緊急介護改革委員会」が設立され、若者への負担と高齢者福祉の在り方を根本から問い直す動きが始まる。
 街はまだ混乱の渦中にある。過激派のデモも続き、一部では衝突事件も起きている。だが、それでも「知らないふり」はもうできないという認識が、国民全体に共有され始めた。少子高齢化の現実をどう受け止め、誰がどう負担していくのか――容易な回答などないが、“痛ましい犠牲と暴かれた嘘” が突きつけた課題は大きい。

父・三浦慎一は、ある晴れた土曜の昼下がり、彩花の遺影を抱えて小さな公園のベンチに腰を下ろす。 そこは娘が生前によく遊んだ場所。入道雲が広がる夏空の下、子どもたちが笑い声を上げながらボール遊びをしている。
 ――もし、彩花が生きていれば、この景色にいたかもしれない。そんな思いが、切なく胸を締めつける。しかし、彼はもう悲しみだけに囚われていない。光に満ちた空を見上げると、どこか希望を感じるのだ。

「彩花……見てるか。父さんは、おまえの死が意味を持つように、まだ走り続けるよ。……きっと、佐伯さんも同じ想いなんだ」

 そっと瞳を閉じれば、あの日の病室で老人が流した涙が蘇る。彼もまた純粋に社会を良くしたいと願っていたのだろう。国に騙されたと嘆き、狂気にのまれて少女の命を奪ってしまった――あまりにも残酷な構図だが、それを捨て置けばまた同じ悲劇が繰り返されるだけ。
 だからこそ、慎一も動き始める。ジャーナリストの滝沢や刑事の蒲田たちと連携して、新しい支援の在り方を模索する市民団体の活動に参加したいと考えていた。過激派デモに流されるのではなく、「高齢者と若年層が互いに理解し合う仕組み」を、真剣に作り出さなければならない。大きな旅はまだ始まったばかりだ。


 街の上空には、眩しいほどの太陽が顔を出し、風が緑をそよがせている。
佐伯政弘の“騙された” という叫びが、多くの人々の心を揺さぶった。 介護の嘘、隠蔽されたデータ、無責任に若者に重荷を背負わせた政治の矛盾――すべてが暴かれ、国そのものが深い傷を負う結果となった。けれど、深い傷の中からこそ、新たな再生の芽が出るかもしれない。

 誰かが言う。「悲しみから生まれるものは絶望とは限らない」と。
 少女の死と老人の慟哭が、厚労省の最終報復をも空振りにさせ、社会全体を変革へ導く引き金になったのなら――彩花の犠牲が決して無駄になることはない。

 夕暮れが近づく頃、慎一は静かに立ち上がり、遺影に向かって囁く。
「……ありがとな、彩花。父さん、あの老人の言葉を受け止めたよ。世界は少しずつでも変わるはずだから」

 そっと微笑み、歩き出す足取りは、以前より少しだけ軽く感じられた。押し寄せる混乱と暗闇の先に、確かに“光” は射し込み始めている。ここで終わるわけではないが、ひとつの大きな戦いは終幕を迎えようとしていた。
“隠蔽工作” は破れ、国の嘘は白日の下に曝された。 次に訪れるのは、破壊か再生か――だが、父親とジャーナリスト、そして刑事が繋いだ物語は、多くの国民に“何かを変えねばならない” という想いを共有させたはず。
 それこそが、長く暗かった道のりに差し込む、真の終幕の光なのだ。


エピローグ

 季節が巡り、あの騒動から半年余り。日本社会は相変わらず混乱の只中にいた。介護ボランティア制度は正式に凍結され、厚生労働省の一部幹部がデータ偽装の責任をとって辞任するも、抜本的な改革はまだ緒に就いたばかり。政治家や各省庁、自治体が「どう高齢者福祉を立て直し、若年層の負担を軽減するか」で激しく対立する一方、街頭では過激なデモと「世代間の共生」を掲げる集会が同時に開かれている。

 けれど、新たな芽吹きも少しずつ現れ始めた。市民団体や若者グループの中には、互いの立場を尊重しながら「高齢者と若者を孤立させない仕組み」を試行する動きが出てきたのだ。SNSでは “排斥” よりも “支え合い” を望む声が増え、社会全体が否応なく「対立の先」にある可能性を模索するようになっている。

 一方、父・三浦慎一(みうら・しんいち)は、今も街の片隅にある小さな事務所で働きながら、新しい介護支援プロジェクトの勉強会に顔を出す日々を送っていた。あの日、娘・彩花(あやか)を失った悲しみは消えないが、「だからこそ、次の犠牲は絶対に出してはならない」という思いが彼の原動力になっている。仮説段階ながら、専門の福祉士や医療関係者、地域の若者たちと一緒に独自のボランティア支援組織を立ち上げる構想も練られていた。

 ジャーナリストの滝沢冴子(たきざわ・さえこ)は、これまでのスクープを後追いする形でさらに調査を続け、新たな情報や海外の先進事例を発信し続けている。時には過激派からの脅迫を受けることもあるが、支援者や読者が少しずつ増えていることも確かだ。「介護危機を、誰かを犠牲にする形ではなく乗り越えるには?」という問いを、社会に投げかける記事を発表するたび、応える声が少しずつ大きくなるのを感じる。

 刑事・蒲田修二(かまた・しゅうじ)は、上層部と衝突しながらも「佐伯政弘(さえき・まさひろ)が抱えていた無念を断ち切らずに調べ続けたい」と主張し、自主的に関係資料を整理している。認知症を抱えた加害老人を「ただの危険人物」と切り捨てるのではなく、歪められた政策の犠牲となった一人だったのだと知ってほしいからだ。組織の壁は厚く、それでも “真実” を追う義務を捨てられない彼は、日々書類の山と格闘している。

 そして、あの日、病室で泣きながら「騙された」と声を詰まらせた老人・佐伯は、まもなく静かに息を引き取った。最後までまとまった言葉を残せなかったが、彼の研究と無念の叫びはしっかりと受け継がれ、国民の目を開かせる一端となった。今、その遺志を継ぎたいと願う研究者や福祉専門家たちが、地道に在宅介護のあり方を再検証し、実践へ向けて動き始めている。

 街はまだざわめいている。痛ましい事件と国の隠蔽工作を機に、高齢者と若者の分断はかえって露わになったかもしれない。しかし、その分だけ「変わらねばならない」という共通の意識が芽生えたのも事実だ。彩花の死は多くの人の記憶に刻まれ、あちこちで「もう二度と子どもを犠牲にしてはいけない」「本当に必要な介護を誰が支えるか」を問う声が絶えずあがっている。

 三浦慎一はときおり夜道を歩きながら、街頭に貼られたビラやポスターを見つめる。そこには “高齢者を守れ” と大書きされたものもあれば、“若者を最優先に” と訴える過激な言葉もある。相反する主張が乱れ飛ぶ中、彼は胸ポケットに入った娘の写真をそっと撫で、「それでも、この街はまだ捨てたもんじゃない」と、小さく息をつく。自分の悲しみや怒りが、多くの人に気づきをもたらした手応えを感じるのだ。

 次に来るのは破局か、再生か――。
 まだその答えは見えない。それでも、以前のように国がすべてを覆い隠し、若者や老人にしわ寄せを押し付ける時代は終わろうとしている。真実を知ってしまった人々は、もう簡単に黙らない。高齢者を “排除” するのか、それとも “共生” を目指すのか。どちらへ向かうかは、結局、社会全体がどう選ぶかにかかっている。

春から夏へ、季節はまた巡る。
 朝日が昇るたびに、街は激しく揺れ、同時に新しい道のりを模索する。これまで閉ざされていた闇が暴かれたからこそ、人々は初めて「本気で変わらなくては」と思い始めたのだ。そこに、娘を亡くした父の涙や、老人が費やした研究と悔しさの叫びがあり、刑事とジャーナリストの勇気ある行動があった。
 その小さな歯車が今、大きな歯車をゆっくり動かし、やがて社会全体を変えようとしている――荒削りの希望の光が、遠く、まだ見ぬ未来を照らし始めていた。







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