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超先進的文明中世イスラム社会〜帳簿

中世イスラム社会における会計・簿記史の研究は、まだ十分に体系立てて検証されているとは言いがたく、特に「複式帳簿(複式簿記)」の起源やその使用の有無については諸説あります。ただし、イスラム世界では早期から商業活動が活発であったこと、また宗教・法制度に基づく寄進財産(ワクフ)の管理や徴税制度などの実務において精緻な記録・計算手法が用いられていたことが知られています。以下では、中世イスラム社会における会計慣行の概要と、「複式帳簿」との関連性・議論のポイントを整理してみます。

1. 中世イスラム社会における会計慣行の背景
1. 広大な交易圏と商業の発達
7世紀にイスラム帝国が成立すると、その版図はスペインから中東、北アフリカ、中央アジア、果てはインド亜大陸の一部にまで及びました。陸路・海路ともに大規模な交易ルート(イスラム商人による地中海交易、インド洋交易、シルクロードなど)が形成され、商業活動が活発化するなかで、収支記録や貸借管理といった会計の必要性が高まりました。
2. 宗教・法制度と会計
イスラム法(シャリーア)では、利子(リバー)の取り扱い、相続や財産分与の厳格な規定、さらには寄進財(ワクフ)の管理などが重視されました。特にワクフの管理では、多額の資産や収益の管理に関する緻密な帳簿(寄進財の収入と支出の記録)が残されており、かなり高度な帳簿技術が存在したと推測されています。
3. 官僚機構と徴税システム
イスラム帝国の行政官僚は、各地での徴税や財政運営を的確に行う必要がありました。9世紀のアッバース朝期には「ディーワーン(ديوان)」と呼ばれる行政機関が整備され、財政担当部局ではさまざまな文書・会計記録が作成されています。これらの中には、借方・貸方を分割するような形態ではないものの、複数の台帳を併用しており、いわゆる「単式」にとどまらない管理手法が散見されます。

2. 「複式帳簿(複式簿記)」との関連性
1. ルカ・パチョーリ以前の複式簿記をめぐる議論
複式簿記の定着は、一般に15世紀末~16世紀初頭にかけてイタリアで体系化されたルカ・パチョーリ(Luca Pacioli)の著作(1494年刊行『Summa de arithmetica, geometria, proportioni et proportionalità』)に拠るところが大きいとされています。ただし、それ以前から地中海世界で商人たちが複式的な手法を部分的に用いていた可能性はあるとされ、これをイスラム商人の会計技術やアラビア数字の普及と結び付けて論じる研究も存在します。
2. イスラム社会での「複式」的な技法の有無
• 概念としての「負債」「資本」の把握
中世イスラム商人の文書には、取引ごとに支出・収入や借金・貸付を明確に記録し、損益を把握しようとする形跡があります。特に複数の帳簿を「日記(ジャリーダ)」「元帳」などに使い分けていた形跡があるともされ、一部には貸借の二面記入に近い方法が取られていたとの指摘もあります。
• 完全な複式の体系化の可否
しかし、現存する一次史料の断片性、また全体像を網羅的に示す帳簿の不足から、「イタリア商人が後に確立させたような厳密な複式帳簿の概念が中世イスラム社会に存在した」と断定するには証拠が不十分というのが多くの研究者の見解です。
3. 影響関係の可能性
イスラム世界は中世欧州に対して数学や天文学、医学など多方面で影響を与えました。会計分野でも、インド起源の数字(いわゆるアラビア数字)の導入など、計算・記録技術においてイスラム世界がヨーロッパに大きく貢献したことは確かです。結果として、イタリアを中心とする地中海商人ネットワークにおいて、イスラム商人の文書や記帳方法が何らかの影響を与え、のちの複式簿記普及の下地になったのではないか、という説が提唱されています。ただし、具体的に「この帳簿術が直接ルカ・パチョーリに影響した」という因果関係を証明するのは難しく、依然として学術的には推測の域を出ません。

3. 主な研究・文献
• S. Todd Lowry
“The Archaeology of Economic Ideas: The Classical Arabic Heritage” などで、古典期アラブ社会の経済思想や会計慣行の一端を論じています。
• Abdul Azim Islahi
イスラム経済思想史の研究者で、アッバース朝期やその後のイスラム世界の財政・経済理論などについて検討しています。
• Avner Greif
地中海交易に関する中世史の研究で有名。ユダヤ商人(マグリブ商人)とジェノヴァ商人の比較研究を通じ、社会制度が経済活動と会計慣行に与えた影響について論じています。
• Luca Pacioli(ルカ・パチョーリ)
『Summa de arithmetica, geometria, proportioni et proportionalità』(1494)は、ヨーロッパでの複式簿記初期理論の体系化として非常に重要な文献。イスラム世界との直接的関係については明記されていません。

4. まとめ
• 高度な会計記録文化が存在
中世イスラム社会では、大規模な交易圏やワクフ管理、徴税システムの発展を背景に、単式簿記を超えた形で多面的に収入・支出・貸借を管理していた痕跡が認められます。
• 近代的な「複式帳簿」への直接的な繋がりは未解明
イタリアで完成形となった複式簿記が、どの程度イスラム商人の会計手法に由来するのかは、十分な実証研究が揃っていません。数学・科学を含むイスラム世界の知的遺産がイタリア商人たちに影響を与えた可能性は高いですが、「複式帳簿」がイスラム由来と断言することは難しいのが現状です。
• 今後の史料発掘と研究の期待
ワクフ文書や公文書の未整理・未刊行史料が各地に存在するとされており、今後の研究の進展によっては、中世イスラム社会の会計慣行に関するより具体的な証拠が発見される可能性があります。

参考になりうる文献・論文例
• S. Todd Lowry, The Archaeology of Economic Ideas: The Classical Arabic Heritage, Edward Elgar, 2003.
• Avner Greif, Institutions and the Path to the Modern Economy: Lessons from Medieval Trade, Cambridge University Press, 2006.
• A. A. Islahi, Contributions of Muslim Scholars to Economic Thought and Analysis (9-14th Centuries), 2015.

中世イスラム社会における簿記・会計史は、他の地域史との比較を含め、まだ研究課題が多く残されています。特に複式帳簿の起源やその普及ルートを解明するうえで、さらなる史料の発見や検証が期待される分野と言えるでしょう。


帳簿の物語

以下は中世イスラム社会の会計・簿記に関する先の解説をベースにした、短いフィクション(物語)の一例です。歴史的な背景や用語を織り交ぜつつ、当時の雰囲気を味わえるように構成しました。

バグダードの若き書記官

ここは10世紀のバグダード。ティグリス川のほとりに広がる大都市は、キャラバンでやってくる商人や学者、職人たちで日々にぎわっている。市中には市場(スーク)が連なり、香辛料や絹織物、宝石、陶器が国境を越えた交易路から届き、人々はそれらを目当てに活発に売買を行っていた。

そんなバグダードの一角にある役所「ディーワーン(ديوان)」には、まだあどけなさを残す少年がいた。名をムハンマドという。彼はアッバース朝の財政を預かる官僚のひとり、叔父のイスハークを手伝うために、近ごろ弟子入りしたばかりだ。

1. 書記の見習いの日々

「さあ、ムハンマド。この文書をよく見なさい。」
叔父のイスハークは朝早くから分厚い書類の山に埋もれていた。そこには各地から集まる税収や、君主に捧げる貢納品の明細がびっしりと並んでいる。

ムハンマドは細かい文字が連なった羊皮紙をじっと見つめる。もともと利発で、地元の学校でクルアーンを暗誦すると同時に、読み書きや計算を早くから習得していた。インド由来の数字(いわゆるアラビア数字)の扱いも慣れたもので、計算自体は得意だ。しかしこの膨大な財政記録をどう整理していいものやら、今はまだ見当がつかない。

「これはどこかで聞いた単式帳簿と少し違うような……」
声に出してつぶやくと、イスハークは目を細めて微笑んだ。

「そうだ。われわれディーワーンの役人は、収入と支出、納税者と借金、あらゆる要素をいくつかの帳簿に分けて管理している。最初はどれがどれだか混乱するかもしれないが、慣れれば分かるようになる。単純な足し算引き算では管理しきれない財産が山ほどあるからな。」

2. ワクフの帳簿

ある日のこと、ムハンマドは叔父に連れられ、大きなモスクへ向かった。モスクには付属の学校や病院もあり、それらの運営は「ワクフ(寄進財)」によって支えられていた。ワクフには多額の財産が寄進されるため、その管理は非常に厳密だった。

「これがワクフの元帳だよ。」
管理人が見せてくれたのは、幾冊もの分厚い帳簿だった。そこには寄進されている土地や家屋の情報、そこから生まれる賃料や農作物の収入、そしてモスクの修繕費や運営費用などがきめ細かに記録されていた。

「これは……どうして、同じような情報が複数の帳簿に書き分けられているんです?」
ムハンマドは不思議そうに尋ねた。

「たとえばこちらの帳簿は日々の取引や細かい出納を記す“ジャリーダ(仮に日記帳)”の役割を持っているんだ。そしてその内容を整理し、資産全体の状況を俯瞰するために別の帳簿に転記している。場合によっては、借金や貸付がどう変動しているか、資本がどれくらい増減したのかを分かりやすく見るための台帳を使う。こうしていくと、最終的に賃料の未払いがないか、修繕費用が適正かどうかなどが整理しやすいのさ。」

ムハンマドは「なるほど」とうなずく。取引をただ書き連ねるだけでなく、貸方・借方という形で分けて考えるという発想があるようだ。しかし、その全容は彼にとってまだ難しく映る。

3. 商人たちとのやり取り

ワクフの帳簿を見学した後、叔父のイスハークから新たな任務を言い渡された。

「近頃、インド洋から来た香辛料商人と、地中海沿岸の都市とを仲介する形で当局が関わる取引が増えていてな。支払いの時期や利息――いや、イスラム法では厳密には利子(リバー)を取れないはずだが、実質的に扱わざるを得ない費用分担などが多岐にわたっている。その決済内容を記録し、正確に計算する必要がある。お前にもその一部を手伝ってもらうぞ。」

巨大な倉庫には香り豊かな胡椒やクローブが袋のまま山と積まれている。倉庫内で交わされる書類には、いつどこから何が何袋届いたのか、費用負担は誰がどのくらいしたのか、といった情報が細かく記載されていた。

「この部分は賃貸料だ。こちらは運送屋への報酬。こっちは卸問屋の取り分。すべてをまとめて正しく計算し、税として入るべき分を把握しなきゃならない。それを正しく分配できないと、どこからか訴えが出る。『公正』を欠いたというのは我々にとって致命傷だからな。」

ムハンマドは慌ててメモを取り始めた。収入として入るはずのお金と、支払われる費用の総額を混同しないように、行を分け、相手ごとに区別し、さらに紐づけをつけながら整理していく。複数の帳簿を行き来して確認しなければならず、最初は大変だが、叔父の助言に従い徐々に要領を得ていった。

4. 簿記の光と影

しかしある夜、ディーワーンの書庫に忍び込む不審者が現れた。噂によると、どこかの役人が帳簿を書き換え、私腹を肥やそうとしているらしい。計算を操作して、税収やワクフの収益の一部を着服する――悪質な行為だ。

「帳簿を二つも三つもつけているのを混乱に乗じてごまかそうってわけか…。」
警備兵と共に様子を見張っていたムハンマドは、己の未熟さに歯がゆい思いを抱く。もし曖昧な記録のままだと、公正な取り立てや分配などできない。複数の帳簿を駆使する意味は、単なる“面倒”ではなく、“正確さ”と“不正の防止”にあるはずだ。

最終的にはイスハークの機転で、ワクフ関連の元帳や複数の帳簿を突き合わせ、不審者が記録を改ざんしようとした箇所が判明した。事実を積み上げてゆくにつれ、どの項目がいつ・どこで変えられたかを突き止め、不正を暴くことができたのだ。

5. 未来へつながる知恵

こうして、ムハンマドは書記としての実務をこなしながら、貸方・借方を明確に区分し、多角的に帳簿をつけることで、お金の流れや資産の増減を正しく把握する――その重要性を体で理解し始めた。

日常の帳簿は複雑に見えるが、慣れてしまえばその記録のズレが際立って分かるし、むしろ不正や間違いが発覚しやすくなる。「複式帳簿」という形でイタリアの商人たちが体系化するのは、もう少し先の時代のこと。しかし、ムハンマドのようなイスラム世界の書記官たちが積み上げた管理手法や計算術は、やがて地中海の彼方にも伝えられていくだろう。

ある夕方、仕事を終えたムハンマドがイスハークに問いかけた。
「叔父様、これほどまでに膨大な帳簿を使い分けるのは、本当に大変なことですね。でも、そのおかげで誰がいくら支払ったか、誰にいくら貸しがあるかが、きちんと見えてくる。まるで鏡に映したみたいに、両面がはっきりわかるようになってくるんです。」

イスハークは穏やかに微笑んで答えた。
「そうだよ、ムハンマド。公正で正確な記録こそが、人々の信頼を得る鍵なんだ。この地を訪れる商人も、寄進を行う高貴な方々も、こうした簿記があって初めて安心できる。いつの日か、お前も自分の手で新しい帳簿術を生み出すかもしれないな。」

薄暗くなりはじめたバグダードの街を、ムハンマドは満ち足りた気持ちで見渡した。彼の胸の中には、数字を自由に操る喜びと、公正な秩序を支える誇りが、ゆっくりと広がっていた――。

物語に込めたポイント
1. 広大な交易圏と商業の発展
大都市バグダードが多様な商人や学者でにぎわう様子を描き、活発な商業取引の背景を物語化しています。
2. ワクフ(寄進財)の管理
ワクフの帳簿を「元帳」「日記帳」など複数に分け、収入と支出を正確に記録する光景をストーリーに盛り込みました。
3. 複数の帳簿を用いた管理手法
中世イスラム社会で行われていた、多面的な帳簿管理(複式簿記の原型または類似形態)を、若い書記の視点から体験させる内容にしています。
4. 不正の発覚と帳簿の力
帳簿の正確な記録が、不正防止に役立つという場面を入れることで、当時の会計管理が果たした社会的役割を表現しています。
5. 次代へ伝わる知恵
イスラム世界の会計知識が、のちに地中海世界やヨーロッパに影響を与えたかもしれない、という歴史的推測を示唆させる結びとしました。

この物語を通じて、当時のイスラム社会における会計・簿記の重要性や、その先進性を少しでもイメージしやすくなれば幸いです。

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