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シン・阿Q正伝

藤沢駅近くのIT企業に勤めるOL・坂下優奈(さかした・ゆうな)は、休日の大半を中国近代文学に捧げるほどの魯迅ファン。なかでも『阿Q正伝』と考察は、日々を生き抜く元気の源だ。
「いつかこの世界に、阿Qが現れると面白いのに……それに、魯迅さんがいたら色々と話してみたいわ」
そんな妄想をノートに書きつけるのが、彼女のささやかな趣味だった。

ところがある初夏の土曜、いつものように藤沢の街をぶらぶら散策していた優奈は、まるで「魯迅の肖像画から抜け出したかのような男性」と、「そこそこにぼんやりした雰囲気を漂わせた阿Qそっくりの男」を目撃してしまう。
「うそ……!?”」
一瞬、見間違いかと思ったが、何度まばたきをしても彼らはそこにいる。しかもよく見ると、妙に古風な身なりで周囲をキョロキョロしているではないか。

思わず駆け寄ろうとした優奈だったが、なぜか反射的に隠れてしまう。まるで有名人を追いかけるファンの気分だ。
(いや、ちょっと待って。そんなバカな話が……)
しかし、数秒悩んだ末、“万が一”が本当なら取り逃がせない!とばかりに、意を決して二人を追いかけ始める。

ところが、さっそく道の向こう側へ行こうとした瞬間、信号は赤。焦れて何度も足踏みをする優奈。そんな彼女をよそに、魯迅似の男性と阿Q似の男は商店街の方へ姿を消してしまう。
「ちょ、待って〜!」
なんとか信号が変わり、全力で走り出す優奈。けれど、土曜の商店街は人混みがすごい。祭りのチラシを配る人に呼び止められたり、子ども連れの家族とぶつかりそうになったりと、まるでドタバタ劇だ。

やっと二人を視界に捉えたと思ったら、阿Q似の男は突然屋台のたい焼きにかぶりつき始め、魯迅似の男性は隣の本屋の前で足を止めて店頭の古書を物色中。
「ちょ、どういう動き……?」
戸惑う優奈がそろりそろりと近づくと、二人の会話が耳に入る。
「ここは妙に近代文化に寛容だな。まさか『旧約聖書』や漱石が一緒の棚にあるとは……」
「兄弟よ、たい焼きというのは侮れない。こしあん、粒あん、そしてカスタードという謎の餡まである」
完全に異世界から来たかのような言葉を話している。耳を疑う優奈。

恐る恐る声をかけてみると、魯迅似の男性はびくりと振り返り、まじまじとこちらを見つめた。
「……あなたは?」
なんと、普通に日本語を話す!
「えっと、わたし、あなたたちの大ファンで……、じゃなくて、あの、ひょっとして魯迅さんと、阿Q……さん?」
言った途端、自分でも顔が熱くなる優奈。しかし二人は顔を見合わせ、小さくうなずき合った。

「そう呼ばれるのも悪くないな。気がついたら、この時代に転生していたんだ。理由はまったくわからないがね」
想像をはるかに超える展開に、優奈は驚きすぎて口が開いたまま。
「あ、あの、嘘じゃないですよね……? 私、ずっとあなたの作品を読んできて……」
しどろもどろになる彼女の横で、阿Q似の男がたい焼きを渡してくる。
「まあまあ落ち着け、これを食べて元気をつけるんだ。お前は‘精神的勝利法’に興味あるんだろう?」
この台詞のチョイス! 完全に阿Q本人だ。

その後、半ばパニック状態の優奈を連れて、二人は近くの喫茶店に腰を落ち着ける。
「なるほど、お前は私の著作を愛読しているのだな。ならば教えてくれ。今の日本人は、どのように書物を読んでいる?」
「というか、何をモチベーションに毎日働いているのか、おれは知りたいんだ。みんな、夜になれば居酒屋で騒いで、酔っぱらうのが当然なんだろ?」
次々と繰り出される質問の数々に、優奈は頭をフル回転させて答える。混乱の中でも、好きな文学者と直接語り合えるなんて夢みたいで、ちょっと嬉しい。

そんな奇妙な午後は、あっという間に過ぎてゆく。「ラブストーリー」というよりは“魯迅と阿Qの取材に答えるインタビュアー”さながらの時間だ。
「あの……これからどうするんですか?」
ふと尋ねる優奈に、魯迅は言葉少なに答える。
「もう少し、ここでの生活を探求してみようかと思う。書きたいことが山ほどあるんだ」
「おれは食べたいものが山ほどあるんだ。たい焼きも奥が深いし、次は‘お好み焼き’ってのを狙ってる」
どこまでも自由な二人。優奈は思わず笑いが込み上げる。

喫茶店を出ると、また街の雑踏に混じって歩き始める魯迅と阿Q。その背中を見送りながら、優奈は大声で呼びかけた。
「また会えますよね? えっと、SNSとかやっています?」
すると阿Qが振り向き、ポンと手を叩く。
「どこかに書いておけば、きっとまた会えるさ。お前もそう思うだろ?」
曖昧だけれど、不思議と説得力のある言葉。そして二人は群衆の中へ自然に溶けていった。

翌週、優奈は一層熱心に魯迅の作品を読み返していた。なぜ彼は再びこの世界に現れ、阿Qと一緒にたい焼きをかじっていたのか。謎は深まるばかりだが、どこかワクワクが止まらない。
――もしかしたら来週末も、どこかの商店街の角で出くわすかもしれない。今度こそは行き先を聞いて、もっといろいろなことを教えてもらいたいな――。
恋心というにはまだ遠いけれど、すっかり心をつかまれてしまった優奈の“魯迅&阿Q再会作戦”が、次の週末から本格的にスタートしそうである。

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