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『イレイザーヘッド』レビュー:革命か奇態か。

★★★★☆ - 78/100

〝変態でビザーロ、ゲロ的で異常趣味?〟

遅すぎた春

僕は15歳の頃、この映画を初めて観た。
駅前のTSUTAYAで550円で借りた、と思う。
小春日和だった。
独りで、観た。
衝撃だった。
ずっと気になっていたが、あえて観なかった。
だけれども、鑑賞後〝こんなものを芸術的な映画として崇めるなんて、米国人はどうかしているよ〟と、当時、僕がもっていた映画の価値観をぶっ壊された気がした(たしか『2001年宇宙の旅』の時もそうだった)。
明確に避けていたわけではないが、10歳くらいから僕は『ジュラシック・パーク』(1993年~)『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985~1990年)『ロード・オブ・ザ・リング』(2001年~)のようなフランチャイズものに、ずいぶんと熱を入れていたから、こういう妖しくも実験性の高い映画は観る価値もない、と早合点していたのだろう。
それに「僕は観ていてワクワクする映画でないと、映画と認めない。『イレイザーヘッド』は、セルジオ・レオーネの西部劇のように害悪だ」と線引きしていた、といえば格好が良いが、「あの手の映画を観ると、蕁麻疹が出る」というのが本音だろう。
僕は15歳で『イレイザーヘッド』に開眼した、というよりむしろ映画ファンとして、処女膜を失った。
映画オタク、映画マニアとして通っていた人間にしては、かなり遅いご対面だろう。何せ相手はカルト映画の帝王の処女作にして、今世紀最も気味の悪い問題作なのだ―――。

嘔吐も覚悟した。

〝エキセントリック・ベイビー〟(Eccentric Baby)と(僕は)呼んでいる、メアリーXが産んだ、エイリアンのような赤ん坊が泣き叫び(これだけで、ストレスだが)発疹が現れ、ヘンリーが身体を覆っていた包帯を切り裂くシーンで、僕は、嘔吐も覚悟した。これはことによる。
映画を観てそう感じたのは、たった2回―――最初の経験が、この風変りな赤児の臓物を観た時、もう一つは、ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』(1975年)の強姦及びスカトロジカル・シーンである。
それに、僕が畏敬するチェコスロバキアの奇才ヤン・シュバンクマイエルに影響を与えた〝食器の上のチキンが動き出す〟シーンや、メアリーXの母親がヘンリーに性的いたずらをしようとするあたり。
これは、ちょっとダーク・コメディ、セックス・コメディの要素もあって、リンチの「シュルレアリスムを超えたシュルレアリスム」という、ややパラドキシカルな表現が、当時、全く救いになっていないほど、この映像作品は、ソフトとして奇抜極まりなかったのだ。

あのキューブリックが絶賛

世に人嫌い、辛口、妄想気味で知られたスタンリー・キューブリックですら、舌を巻いた。彼をして「最近のおきにいり」とまで言わしめたのだ。『イレイザーヘッド』がもつ、コンテンツのパワーの大多数の要因は「SFでありながらSFを批判する」アンチ・サイエンス・フィクション(Anti-SF)の前衛主義の後期の傑作をも凌ぐ、猟奇性と奇抜性だ。
まさに90分を駆け抜ける地獄の旅だ。キューブリックとリンチがコラボして『2001年宇宙の旅』(1968年)のサイズで、『イレイザーヘッド』を撮ったら、今頃、映画界は崩壊しているだろう。それほどに、この最も刷新的なモノクロ映画は、映画界に激震を与えたのだ。

最後に

デヴィッド・リンチは1977年に公開された本作から『マルホランド・ドライブ』(2001年)まで、この作を超える峰を築けなかった。『マルホランド・ドライブ』ですら、コメディ路線を崩してはいないが、今観れば、何てことのないミステリ『ブルー・ベルベット』(1986年)や『ロスト・ハイウェイ』(1997年)は、『イレイザーヘッド』の足元にも及ばない。
『インランド・エンパイア』(2006年)に関しても、リンチは、もう疲れ切っている感がして、早々と映画監督を引退して良かった、と僕は、今は思っているし、これからも何度も『イレイザーヘッド』を見直しては、発見と驚愕を繰り返す、酒の肴となることに有難みを感じながら、あの悪夢のような映像体験を、再びだれかに求めるだろう―――。

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