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手のひらを太陽に透かしてみれよ

 一度、血液の濃さが足らず献血を断られたことがある。血液の濃さとは、要するに赤血球中のヘモグロビンの量であり、真っ赤に流れる僕の血潮の正体である。そのヘモグロビンには鉄分が必要であるということも、知識としては頭にあった。だいたい毎日赤兎馬(志賀家の鉄瓶のこと)で沸かした白湯を飲んで鉄分を摂取しているし、すでに献血を何十回と経験してきているのに、ヘモグロビン濃度が低いと言われるとは、なんと屈辱的なイベントだろう。顔で笑って心で泣いた。

 「どうやったらヘモグロビンが増えますか?」私は尋ねた。献血をしたことがある人ならご存知だと思うが、献血センターのスタッフさんはたいへん気さくである。「あなた、そりゃあ野菜よ。あと赤身肉ね、あなた。」小坂明子かお前はと思ったが、何はともあれおばちゃんは、「献血にご協力いただけなかった方々へ」という、涙目の私に御誂向おあつらえむきのパンフレットをくださった。それを受け取ったとき、天竺で経典を手に入れた三蔵法師の心持ちが少しばかりわかった。

 それによると、似たような食材でも鉄分含有量がけっこう異なる。オートミールはコーンフレークの四倍、豆乳は牛乳の八倍鉄を含む。オートミールも豆乳も、私が毎日欠かさない食材であるのがいたくウケるところだが、ともかく一食に3mg以上鉄量を目指せということだそうだ。いざとなれば、鉄棒でも舐めておけばよかろう。

 鉄分を多く含むイメージのある食べ物として、ひじきが思い浮かぶ人も多いと思う。しかし、実は近年ひじきの鉄量が減っているらしい。これはひじきが悪いわけではなく、鉄製の釜を使わなくなったからだそうだ。文明の象徴である鉄が人体にも不可欠であるというのも、なんだか不思議な話だ。

 さて、「透かしてみる」の規範的な命令形は「透かしてみろ」だが、「透かしてみれ」と言う話者もいるだろう。「みる(見る)」はいわゆる一段動詞で、このタイプの動詞は「見ろ」や「食べろ」のように、命令形は「ろ」を付けるという決まりになっている。

 では、「見れ」や「食べれ」という命令形が間違っているかというと、あながちそうともいえない。というのも、「行く」とか「書く」とかの五段動詞は仮定形と同じ形、つまり「行け」や「書け」というのが命令形である。一段動詞も「見れ」や「食べれ」となれば、「命令形とは、仮定形の「ば」が付かない形」という統一的な規則が出来上がる。むしろ「ろ」が付くというのが不均衡な気さえしてくる。歴史的に日本語は活用形の種類が減っているが、そういった流れの中にこの変化も位置づけられるかもしれない。

 というわけで、健やかなる者よ!野菜を食べれ!鉄分を摂れ!献血に行ってみれ!

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