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「エヴァQ」感想ポエム:苦痛と不安の哲学

 人間の不幸は、部屋でじっとしていられないから生じる——と哲学者パスカルは言った。ただ食事を済ませて寝るだけ、そんな退屈な毎日に納得できるなら不幸に陥らずに済む。社会から求められる責任を放棄し、部屋の外で起きている災厄を看過し、現時点以上の幸福を希求せず、どんな倦怠感も理不尽も受け入れることができるのなら、何もしなくても幸福でいられる。周囲からどう思われようとも、本人の主観的には幸福だ。

 ——僕は乗らなくていいんですか!? ミサトさん!
 ——そうよ、あなたがエヴァに乗る必要はありません。

 碇シンジはエヴァに乗る必要はない。14年前からずっとそうだった。父親からの期待も、人類を救う使命も、仲間を助けたいという気持ちも、彼は背負わなくてよかった。逃げてもよかった。部屋でじっとしていられるなら、彼は幸福に死ぬことができた。しかし、シンジは——人間は、部屋でじっとしていることができない。

どんなに醒めていたところで、なんの希望もなく生きることは不可能だ。人はみずからもそれと知らぬまま、つねになんらかの希望を抱いて生きている。そしてその無意識の希望は、人が棄て去るか使い果たすかした、他の顕わな希望の埋めあわせをする。
「生誕の厄災」p.75 E.M.シオラン 訳:出口裕弘

 シンジは無意識の希望に突き動かされている。彼が不安と孤独に苛まれるのは、他者との繋がりを求める希望の裏返しに他ならない。14年前、彼はアスカが搭乗しているエヴァ3号機と戦うことを拒否し、同機体を使徒として<処理>したNERVおよび父親に反抗する。そしてエヴァに乗ることを拒否するが、レイを助け出すために再びエヴァに乗る。

人間の可能性は、一個の存在が、克服しがたい目まいに襲われながらも、否(ノン)と答えようと努力したときに決定されたのだ。
 一個の存在が努力した? じっさい人間たちはけっして暴力に対し(あの過剰(エクセ)に対し)決定的な否(ノン)をたたきつけたわけではなかったのだ。力が萎えたときに、人間たちは自然の運動に対して自分を閉ざしたのだ。それは一時の停止であって、最終的な静止ではなかったのだ。
「エロティシズム」p.100 ジョルジュ・バタイユ 訳:酒井健

 大人達に、使徒に、暴力的な現実に、シンジは否(ノン)を突き付ける。決定的な否(ノン)を叩きつけることが叶わぬ時は、イヤホンで耳を塞ぎ、自閉的な態度で反抗する。シンジは常に希望を求め続けてきた。可能性を胸に秘めた存在だった。だからこそ、14年後に目覚めた彼に待ち受けていた現実は、苦痛と不安に満ちていた。

 ——あなたはもう何もしないで。
 ——あんたには関係ない。
 ——エヴァにだけは乗らんでくださいよ!
 ——エヴァに乗れ。
 
——知らない。

 赤暗く不気味な鉄骨の通路、激しい目眩に襲われながら、自分を突き放す言葉がリフレインされる。彼はミサトにも、アスカにも、親友の妹にも、自分の存在を拒否された。やがて、自分が引き起こしたニアサードインパクトの惨状を目の当たりにする。それと引き換えに助け出したはずのレイはどこにもおらず、彼女と同じ形をした存在は自分のことを知らないと言う。そんな状況の中で、またエヴァに乗れと迫られる。……何のために? 乗ればミサトさん達に拒絶される。綾波もどこにもいない。あんな大惨事を引き起こした自分は、今度は何のためにエヴァに乗るんだ?

不安は、何かに誘発されて生れるのではない。自分から正当な存在理由を求め、それを獲得するためなら手段を選ばず、どんな惨めな口実でも案出してしまい、一度案出できたら今度はそれにしがみつくのだ。おのれの多様な表現形態に先立つ即時的実在として、われとわが身を生み出し、創り出す。それは<限りなき創造>であり、それゆえ、霊魂の暗躍よりもむしろ、神性の策謀を換気するものなのだ。
「生誕の厄災」p.115 E.M.シオラン 訳:出口裕弘

 シンジが抱える不安は、彼らの言葉に誘発されて生まれたものではない。「はあ、そうですか。じゃあエヴァに乗りません/乗ります」と納得することができれば、彼は苦しまずに済んだ。彼は自発的に正当な存在理由を求めた。こんな世界はおかしい、納得できない、抵抗したい、としがみつく。それが彼の不安の根源だ。彼の不安は、彼自身が作り上げている。

 ——エヴァに乗ったっていいことなんか無かったんだ! もう嫌だ! 何にもしたくない!
 ——そうして辛い感情の記憶ばかりリフレインさせても、良い事は何も生まれない。

苦痛は人間に眼を開かせ、ほかの方法では知覚できないような事象を、さまざまと見せてくれる。したがって苦痛は認識にしか役立たず、それ以外の場では、生に毒を塗りこめるだけである。ついでに言っておけば、そのことがさらに認識を助長する。
「生誕の厄災」p.229 E.M.シオラン 訳:出口裕弘

 シンジは苦痛によって自分の置かれた状況を強く認識する。エヴァに乗れば、ミサト達を裏切ることになるし、またあの大惨事を引き起こすかもしれないし、DSSチョーカーによって自分自身が死んでしまう。あらゆる実現の不可能性が、「何にもしたくない」と全ての行為を拒否する態度を生み出す。

私たちに健全な部分があるとすれば、それはすべて私たちの怠け癖のたまものである。行為に移ることをせず、計画や意図を実行しようとしない無能力のおかげである。<美徳>を養ってくれるのは、実現の不可能性、あるいは実現の拒否だ。そして、全力を出しきろうとする意志こそが、私たちを暴虐へ誘いこみ、錯乱へと駆りたてるのである。
「生誕の厄災」p.42 E.M.シオラン 訳:出口裕弘

 後の悲劇を考えれば、彼の態度は正しかった。しかし、カヲルが別の可能性を示したことで、再び暴虐と錯乱へ導かれることになる。

 セントラルドグマに残された二本の槍を使えば、ゼーレの計画を阻止し、世界を修復することができる、とカヲルは語る。シンジはその言葉を盲信する。それは祈りだ。世界にはまだ希望があると、世界は自分の呼びかけに答えてくれるという祈りだ。だから、最終的にはカヲルの制止すら無視して、世界を自分の理解できるものへ転化させようとする。

なにもかも説明がつくか、あるいはなにひとつ説明がつかぬか、ぼくはそのどちらかであってほしいと思っている。しかも、この心情の叫びをまえにして、理性は無力なのだ。[……]このようにして、人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙とが対置される、そこから不条理が生れるのだ。
「不条理な論証 シーシュポスの神話」p.52-53 カミュ訳:清水徹

 世界は不条理だ。彼の呼びかけにはこたえず、ただ沈黙する。フォースインパクトの発生、渚カヲルの死亡——
 私が本作を観て吐き気を感じた。その理由がここにある。人は望まずしてこの世界に生まれ、理性が無力な、残酷なまでの沈黙の中に放逐される。世界の無関心的態度に実存的な自由があるが、その目眩から生まれる不安を、理性の無力さを、人間が孤独であることの悲痛な叫びを本作はさまざまと見せつける。

人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです
「沈黙の碑」の碑文 遠藤周作

 この世界における自分の存在を根底から揺り動かされる感覚は、もはや心だけではなく身体で受け止めるものとなり、私は吐き気を覚えるに至った。

 私は「この訳分かんない感じがエヴァだ」と言うつもりはない。巷で言われている通り、シンジの心情を描くために脚本が都合よく歪められている節があり、荒っぽさはある。しかし、本作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」が非理性的に映し出すものは「人間が抱える孤独・不安・挫折の在り方としてあまりにも正しい」と思うのだ。

しかし、一体、どうしたのかね、君は。どうしたというのかね。——何でもない。どこも、なんともないんだ。ただわたしは、自分の運命の外へ一跳びしてしまって、いまではもう、どっちを向いて歩いてゆけばいいのか、何にむかって駆け寄ればいいのか、まるで分からなくなっているだけのことだ。
「生誕の厄災」p.277 E.M.シオラン 訳:出口裕弘

 2日後、完結編となる「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」が公開される。世界と人間の在り方を凝縮させた「Q」を経て、どんな解答を与えるか——きっと明確な答えは提示されないだろう。少なくとも救済を、単純明快なハッピーエンドを求めて見るべきではない。私は完結編を観てがっかりするかもしれないし、消化不良のまま終わるかもしれない。だがそれでも構わない。少女に手を引かれながら無力に歩く少年の行く末を、最後までしかと見届けたいと思う。