峠三吉「原爆詩集」序


ちちをかえせ

ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

わたしをかえせ

わたしにつながる

にんげんをかえせ

にんげんの

にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

…………

一週間程前に峠三吉の原爆詩集を読んだ。
全ての詩が生きた言葉で綴られていて、そのあまりのリアルに目眩がした。

被爆者にしか分からないヒロシマの空の色がある。

この「序」が
全文ひらがなで綴られている理由。
その意図。
調べてみた所、幾つかの説があった。

峠三吉自身の意図が書かれた文献は見つける事が出来なかった。が、どうしても本人の意図を知りたい、というのでもなかった。
それより私は彼の実際の筆跡を見てみたかった。

草稿が、ネット上ですぐに見つかった。
他の作品の草稿とも見比べたり、
推敲の跡を辿ったりした。

ペンを持つ手の中の握力を想像したり、
ひらがなの羅列を眺め、文字と文字との間隔に見入ったりした。

「何故全文ひらがなであるのか」という事に対する自分なりの答えが欲しかった。
物を書くという事において素人の私だけれど、考えるのは自由だという事で。

画家の友人にその話を打ち明けると、興味深くノって来てくれて、「ああ、私は素敵な友人を持っている」と、少し自分を自慢に思った。

結果、
私の見解は
「狙わない本能」を「読み手に広く感知して貰う」ための、ひらがな。

という事に落ち着いた。

本能の赴くまま、という言葉がある。
本能の赴くままに表現された作品は好きだ。
(「本能の赴くままに作った」ように見せかけている作品は苦手だ。勿論そのジャッジは自分の物差しであるのだけれど、私にとってはこの二つには雲泥の差がある)

己の本能の赴くままに表現した作品を、受け手の心に深く響く様に、己の理性の限り推敲した作品は、更に好きだ。

一週間、気になってなかなか眠れなかったのだけれど、今日は穏やかな気持ち。

そういえば、
だいぶ前に北大路魯山人のある言葉に衝撃を受け、その時も気になって眠れなかった。色々調べたら、岡本太郎と魯山人は仲良しだった、などと出てきて余計に興奮して眠れなかった。

一文の得にもならない自分の中だけの思案だけれど、
私の日頃の密かな楽しみとなっている様子。それもまた良しとしている。

#峠三吉 #原爆詩集 #序