馬具屋のこと
大学を出て美術館やら船乗り場のある方へ歩くことが良くあった。地下鉄で2、3駅という距離だが、まあ歩いても30分くらいだった。
さて、大学から出るとすぐに高級な住宅街に入る。ここには学生なんぞ住んでおらず、大使館やら古い住人が住んでいる。さらに進むとその高級さを保ったまま店が立ち並ぶ。エステルマルム(西街)というエリアである。アンティークの家具や不動産屋なんかが多いのだが、一軒だけ、馬具屋があった。
なんて事はない、私はこの馬具屋を外から眺めるばかりで、入った事は無かった。馬に乗らないから用無しだし、何より全てが綺麗になめされた皮の装具で目ん玉飛び出る程高い、のが分かっていたのである。
大して広くはない。間口もせいぜいショーウィンドウの馬の剥製一頭とその横の出入り口で合わせて5mくらいだろうか。(ちなみに写真すら撮っていない。)最初通った時なんかは馬具屋とすぐには分からなかった。剥製の馬の足元をしげしげと眺めて、この小物は何だろうと考えていた。剥製の背中に乗っているものがメインの商品と気づくのに少々時間がかかった。
何故か全くエピソードもないこの店をやたら覚えている。ふと思い出す街角の風景の一つなのである。ストックホルムらしいと常々思う。スウェーデン人もノルウェー人もフィンランド人も、ちょっと育ちがいい子は馬に乗っている。やや郊外に出れば、週末乗馬クラブはそこら中にあって、車からでも馬が見える。それに、何よりごくたまに馬に乗った警察の小部隊が列をなしてエステルマルムを抜けていく。こういうのは問答無用で格好良い。
東京のあたりで育った私にとっては馬はまあまあ特別なのだ。それに比べてこの国の人にとって馬は日常的な生き物だ。初めて見た時に大変に珍しい店に思えた馬具屋は、週末や連休には郊外に出かけ、馬を見たり乗ったりする暮らしを思えば、その中の一部であることが理解できる。
馬具という未知への驚きというより、この郊外での嗜みが街の中に現れるその現象が新鮮だった。
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