“がん以前”の私へ
私は自分のことを好きだと思えずにきた。
今も、病気後に体調が変わってしまって、そのことにうまく対応できなくて、生活がうまく回せず、だから仕事も以前のようにバリバリとはできなくなってしまって、人とも積極的に会えなくなって、「自分って人望がなかったんだな」と思って、そういうことにくよくよ落ち込んで…こういう私は昔からいつも「ネガティブ」だと認定されて、そういう自分が嫌だった。
仕事ができなくなったり人望がないことをくよくよするのは、人から評価されないと不安になるから。自信のなさの表れ。
落ち込むなら、その原因をなくそう。社会的に評価されない自分が嫌なら評価されるようにすればいいと、とにかく動くようにしていた。「いい人」をやっていた。それが私にとっての「ポジティブ」だった。
けれども、いつも演じているような気もして、それは本当の自分ではないような気もして、そこにもうしろめたさがあった。
そういう思いのループにはまっていた、“がん以前”の私だった。
“がん以後”は、体力的に難しいこともあってがんばらなくなった。がんばれなくなった。がんばるのをあきらめた。
私の主成分って怠け者だったんだな、と改めてわかった。一度止まったら、もう動き出せずにいる。
言い方を変えればそれは、「本来の自分になった」と言うこともできる。
最近感じていることを、治療の前に病気のことを話した唯一の友人に聞いてもらった。
「今までは、何かあると『私がやるよ』って立候補したし、困ってるなって思う人がいたらこっちから働きかけるようにしたし、本当に世話を焼く人だったんだけど、もうそこまでの元気がなくて。しなくなったんだ。『ごめん、つらいだろうけど私もけっこう大変。あなたもがんばれ!』って思って、最低限の役割を果たせたかなって思ったら、それ以上声をかけたりするのをやめた。
でも、最近の私って冷たい?っていうふうにも思えて、ちょっと不安にもなってる」
すると
「社会的評価がなくても大丈夫になったってことだよ。人に良く思われなくても自分これでいいと思えるようになったことは、あなたにっていいことだと思う」
と言ってくれた。
確かに楽になったところもあるし、本来の自分でいていいと自分を認められたととらえれば、それは悪くないことだと思っていた。
でも、さっき突然思い出した。
喉の治療から半年経ち、食道摘出手術を受けると決意して、手術の数日前、道を歩いていて降ってきた痛烈な想い。
歩きながら、ちょっと泣いていた。
心から自分を認めて「好きだ」と思ったのは、後にも先にもこのときだけだ。
忘れかけていたけど、自分が自分を心から好きだと思えた瞬間があったことを、覚えておきたい。
結局、やっぱり私は治療後に余裕がなくなって、好きだった「がんばる自分」とはお別れになってしまった。
あの「がんばる私」は今、どうなったんだろう。いなくなってしまったのだろうか。私の中のマトリョーシカの、いちばん小さい最後の1つの中みたいなところに、実はまだいるんだろうか。少しずつ“がん以後”の私の心にこびりついた、後悔とか、悔しさとか、嫉妬とか、自己憐憫とか、卑屈さとか、そういった感情を1つ1つ、マトリョーシカを開けるようにはがしていったら、いつかまた会えるだろうか。
“がん以前”の「がんばる私」へ
会えなくなって、さみしいよ。
いつかまた、あなたに会いたい。