ドラマチックじゃなくていいから、がんは欲しくなかった
6年前の12月19日、安いキウイフルーツを買って食べたらとても酸っぱくて、喉にすごくしみた。刺すような鋭い刺激だった。その日はいつも最後にバタバタになる毎月のレギュラーの仕事が終わったところで、次が始まるまでの谷間の2日間の1日目だった。時間に余裕があったから、その後たまたま書店に立ち寄り、医療や健康のセクションにさしかかったとき、喉のことを思い出した。「あれって普通にしみるのと何か違った気がする…」。急に胸騒ぎがして、スマホを取り出して「喉がしみる」と検索したと思う。
そうしたら、がんの可能性を指摘する情報がいくつも出てきた。
過去に趣味で歌うことをしていたから、喉のコンディションのことを気にかける癖があった。考えてみると、たまに喉に負担をかけたとき感じる「傷ついちゃったかな?」というようなチリっとする違和感が、それまでは数日でなくなったのにずっとなくなっていないことに気づいた。そこが酸っぱいキウイで強烈にしみたのだ。
胸騒ぎが恐怖感に変わった。
結婚前で同居していた今の夫が仕事から帰ってきたら、すぐにつかまえて言った。
「がんかもしれない!」
彼は「きっと大丈夫。だけど、明日クリニックに行って」と言った。珍しくオフだったから、翌20日、近くの耳鼻咽喉科に行った。冬の耳鼻科は混雑していてだいぶ待ちそうだった。落ち着かなかったせいもあって、一度耳鼻科を出て郵便局に行き年賀はがきを買った。
年賀状を書いて送る、いつもの通りの年末を過ごせると思っていたのか、そう願いたかったのか、よくわからない。
自分の番がきて女性医師に事情を話すと、内視鏡で喉を見ることになった。よく覚えていないけれど、鼻から内視鏡を入れたのだと思う。初めてのことだったし、異物を鼻から入れる苦痛から解放されて態勢を立て直すのに少し時間がかかった。話を聞く準備ができたとき、すでに医師のデスクにあるモニターには内視鏡に写った映像のキャプチャーが表示されていて、そこにはねずみ色の朝顔の花のようなものが写っていた。
医師はとても慌てた様子で「明日、大学病院に行ってください!」といきなり言った。
「あぁ、がんなんだな」と思った。
こんなに医師が焦っているし、喉のほかの部分のきれいなピンク色に比べたら、そのどす黒い朝顔の色は絶対に悪いものだと思うのにじゅうぶんな説得力のある、汚い色だった。
自分に悲しいことがあっても誰かが先に泣いてくれたら涙が引っ込むみたいに、医師が取り乱しているのでこっちが冷静になった。しらけた気分で、「……というと?」というふうに、医師がするはずの説明をするきっかけをつくった。
医師は我に返ったように「喉にこのようなできものができているので、できるだけ早く大きい病院で診てもらったほうがいいと思います」というようなことを、しどろもどろに言った。
翌日は会議があったから「明日は行けそうにないんですが…」と言うと、「行けないんですか!?」と責めるように言われた。そこまで一刻を争う状況なのだろうかと思った。
「紹介状を書くから希望の病院を言え」と言われたけれど、どこがいいのかなんてわからない。いちばん近い大学病院に決めると、紹介状とともにその大学病院の情報を渡された。もしかして一刻を争うのであればすぐに行くべきだ。どうしようかと悩んで自分で調べたら、渡された受付時間の情報は古かったのか違っていて、次の日の会議の後なんとか間に合いそうだとわかった。
後からも思い知ったことだけれど、医療機関の質って「一事が万事」だ。不信感を抱くところがひとつあると、問題はほかにも起こる。
21 日、昼頃に打ち切られる初診の受付に滑り込み、大学病院を受診した。また内視鏡管を鼻から入れて喉の状態を検査。前日と同じように苦しい中で、「ぶちっ」という小さな衝撃を感じたのが違っていた。あのどす黒い朝顔の一部をちぎり取って、細胞の検査に回すのだろう。
大学病院の医師は、モニターに映った例の花を示して「細胞を検査に出してその結果が出てから確定診断になります。…でも十中八九がんだと思います。残念ですが」と言った。
やっぱりそうだろうな。前日からの流れで心の準備があった私の口から出たのは、「入院になりますか? いつ頃ですか? どれくらいかかりますか?」という、とても現実的な質問だった。
医師は、年末にさしかかっているから翌日から必要な検査を始めて年内に検査を終えることを勧め、パズルのように検査スケジュールを調整した。確定診断が出るのは年明けになり、それから治療の計画だけれど、早ければ1月の中旬から、どのような形であれ入院は必要になる見込みだと説明された。
「仕事を断らなくちゃ」。
自由業で受けている仕事はその日の会議でGOサインが出て私が進行することになったばかりだったけれど、医師の話によると途中で抜けることになってしまいそうだから、迷惑を最小限にするためには今すぐ降りるのがベストだ。頭の中はその算段でいっぱいだった。
病院を出て駅に着いたとき、妹に電話をかけた。ざっと状況を説明して「…きっと悪いんだよ(がんなんだよ)」と言ったとき、初めて声が震えて涙が出た。子宮頸がんを経験していた妹には、前日、大学病院に行くことをLINEで伝えてあった。「だから、病院についていこうか?って言ったのに。カッコつけて泣くのがまんしたんでしょ」。
病院で泣く人もいるのか。泣くことは想像つかなかったから、言われて少し驚いた。
「検査だけだからついてこなくていいよ」と言ったのは、まだ何もわかっていなかったからだ。健康診断や婦人科系の検査を受けに行く感覚だった。でも、大学病院に行くのも初めてで、クリニックでほぼがんだと思っていたからなおさら、とても不安になるはず。それにすら思いが及ばなかった。
ただ、医師と話していたときの私は本当に落ち着いていた。カッコつけてやせ我慢したわけでもなく、強いて言えば「もしかしたら大丈夫かも」という気持ちに賭けていたけれど違って、がっかりという感情だっただろうか。あるいは、すぐ諦めて受け入れたというほうが合っているか。
一人だったから、気をしっかり保てたのかもしれない。
ドラマで見たことがあるような、ショックで一瞬固まるとか、取り乱しそうになりながらも泣くのをがまんしてということでもなく、冷静に質問している自分が自分でもちょっと意外だったのだ。
現実って、ドラマとは違ってあんまりドラマチックじゃない。
仕事から帰ってきたパートナーの顔を見たとき、感情があふれてきて泣いた。これから何が起こるのかわからない恐怖と、「なんで私は普通に幸せになれないの?」という悲しさと。彼と一緒に住み始めて2年目。結婚を見据えての同居で、「私たち結婚するの?」と聞くと「するでしょ」と答えるという会話を何度もしていたけれど、具体的な話は出ていなかったし、プロポーズらしいプロポーズもなかった。それでも40歳を過ぎてその先の人生は彼と楽しく暮らしていくのだと思っていた矢先にがんって、なんて意地悪な展開だろう。
泣く私を抱きしめて、彼は「結婚しようね、ずっと一緒にいる」と言った。このタイミングにプロポーズか。
病気がわかって逃げ出すこともできるのに、迷わず「一緒にいる」と迷わず言ってくれたのは映画みたいだ。でもこんなドラマいらなかった。ドラマチックじゃなくていいから、がんは欲しくなかった。普通でよかったのに。
英国人のパートナーにとって、クリスマスは日本のお正月のように大きな節目の行事。この年はクリスマスイブが日曜で、彼がローストチキンなどを料理して私の家族を招いてホームパーティーをすることになっていた。
楽しいはずのクリスマスシーズン。来年のクリスマスはくるのだろうか。そう思えて泣けた。ふとしたワードがきっかけで、連想ゲームのようにあちこちに思考が飛んで泣いてしまう。風が吹くだけでタッチセンサーが反応して水がジャージャー出る、壊れた蛇口みたいになってしまった。
夕食時になっていたけれど、食欲なんてなかった。でも、その次の日は朝から大学病院でいくつも検査を受けることになっていたし、ひとまず気持ちを切り替えたパートナーが夕食の支度をし始めた。私は表情をなくしてぼんやり座っていた。
すると、パートナーがいつも料理中に音楽を流していたスピーカーから突然、チェッカーズの『ジュリアに傷心』が流れ始めた。ふさぎこんだ私を見て、きっと好きだった曲があると考えた頃の年のプレイリストを選んで流してみたらしい。
姉がずっと大ファンなこともあって、チェッカーズには思い入れが強い。チェッカーズなんて知るはずもない英国人のパートナーがこの曲を流したから、驚いた私はつながらないはずの点と点のギャップに笑って、「このバンドはお姉さんが大ファンだったんだよ!」と説明し、思わず一緒に歌った。
笑った私を見て、彼が涙ぐんだ。
私を笑わせたくて必死で、私の笑顔を見て泣くほどにホッとしてくれたのか。
2度の入院中は1日も欠かさずに来てくれたし、退院後、食べられず体力がなくなって思うように動けない私を手厚く世話してくれた。ずっと愛情を示してくれるけれど、どんな言葉より行動より、この時の夫の泣き笑いの顔に、いちばん愛を感じたような気がする。
ドラマは細部に宿る。
あの次のクリスマスは、食道摘出のダメージで再入院になった状態でなんとか迎えた。そして、最後かもしれないと心配したあの年から6回目のクリスマスを数えようとしている。クリスマスが近づくと毎年よみがえるあの胸騒ぎ。これから何度あの年のことを思い出すのだろう。