私が都市ではなく地方で活動する理由
みなさんこんにちは。株式会社サイドストーリーの渡邉です。
先週に投稿した「意識高い(笑)の(笑)が取れた日」の中で学生時代に世界一周行った時の学びが今の人生に大きく影響を及ぼしていると話していたので、今日はこれについてお話しできればと思います。
語学留学と世界一周のどちらが良いか?
実は世界一周をすると決める前にとある出来事がありました。
アメリカのボストンに留学すること決まり、留学の申込手続きをしに横浜へ。契約書を諸々書き終え、担当者とおしゃべりしていた2011年3月11日14時頃。そう、東日本大震災が起きました。ビル14Fにいたため大きく揺れました。皆さんも様々な場所で様々な経験をされたと思いますが、今回は海外に行くことにフォーカスをしてお話しします。
春休みにも入っており、交通インフラも数日動けない中で改めて今後の動きを考え直しました。
<語学留学>
ーメリット
・語学(私の場合英語)に集中して学ぶことができる
ーデメリット
・語学以外の学問の学びは浅い
<世界一周>
ーメリット
・多くの文化・自然・社会を見ることができる
ーデメリット
・語学力がないと学びが浅い
当たり前っちゃ当たり前なんですが、当時は迷える子羊ちゃんだったので(笑)私の決め方としては
としてました。
語学留学だけでは、「・・・で、何をする?」って感じになりそうで、語学→カレッジ(2年制)も考えましたが、金銭的に難しく断念。
2010年の時は意識高い(笑)の活動になっていたこともあり、本当に自分が駆り立てられるものを探していました。
語学だけでは、どうしても上の指針を満たせないと感じたので、語学留学はやめました(契約金振り込んでましたが、キャンセルFEEもかかりながらキャンセル!お母さん父さんごめん。。)
じゃあ、世界一人旅をでようかというと、そこまで生命力高めに数か月日本を出る勇気はなかったので、色々調べてみることにしました。
いろんな社会を見ることができて、かつ語学留学っぽいこともできることがないかなーと探していたら、なんと!ありました!みんなも一度は見かけたことはある居酒屋のトイレのドアに貼ってある「船旅世界一周」という広告。そう!PEACEBOATです。
当時はいろんな噂があったので、「大丈夫かな、、、」と不安もありましたが、たまたま私が乗船した第74回クルーズでツアー造成をしていた某氏との出会いがあり、イメージがガラッと変わりました。ピースボートを簡単に要約すると
・100日程度の船旅(3分の1は地上、3分の2は船上)
・20か国程度を周遊
・7割程度はリタイアしたシニア層、40代以下は3割くらい、学生は1割もいない
・働いている方はほとんど外国人(多様性に富んだ様々な志向を持った方にで会えるので、偏ったイメージを持つことがこの経験により無くなりました。)
・シニア向けの観光ツアーと社会見学ツアーは分かれてる※当時は原発事故直後のクルーズであったため、環境問題に関するテーマのスタディツアーが多かったです)
・著名な有識者、当事者との交流(普段では会えない人とSNSで今でもつながることができて、素敵な人脈を作ることができました)
・船内家族というシステム(親世代だけやおじ様おば様世代だけや子どもだけ学生だけと皆ばらばらで参加している人を仮想の家族チームみたいなのを組成して交流する機会がありました)
・船内のコンテンツも豊富(トレーニングルーム、プール、運動場、バー、遊技場(麻雀)
・英語力向上塾が定期開催(私はこの度で200点以上上げて800点台まで上がりました)
これに申込することを決めて船旅世界一周に出ました。行った場所は以下の通り
私が強烈に印象残っている場所4か国
1、アカバ(ヨルダン)
ヨルダンの人口の約7割以上がパレスチナ系住民と言われるほど、ここには多くのパレスチナの人びとがいます。参加したコースでは難民キャンプを訪問、宿泊し、当時逃れて来た方の証言や若い世代の想いを伺います。彼らとの交流を通して、パレスチナ難民の問題が遠くの世界の出来事ではないことを感じました。自分たちの故郷が無くなった(帰れなくなった)時の「自分のアイデンティティの喪失感」というのは体験したことがないですが、現在原発事故エリアで移住促進の仕事をしている中で、同様の体験をされている方と接することもあります。ふるさとに戻ってくるための場づくりに関わるようになったのはここでの原体験が自然とそうさせたのかもしれません。
2、イスタンブール(トルコ)
1500年の歴史を紡ぎ「イスタンブール歴史地区」として世界遺産に登録されている町ですが、観光都市としての素敵さはもちろんですが、私はこの場所で”日本人として日本のことを語れない恥ずかしさ”を覚えました。スタディツアーの中で、ボアジチ大学の学生と交流する機会があり、様々な話をしました。親日国ということもあり日本の時事も知っている方が多く、東日本大震災についてのさまざまな質問をもらいました。「原発事故あったけどどんなことが起きていたの?住民は今どうしてるの?政府等の対応は何をしているの?原発稼働に関してはあなたの意見はある?」等々、日本語で聞かれても答えられない状況でした。
「日本人なのになぜ、日本で起きている時事問題や魅力を知らないのか」
とても悔しい思いをしたのを覚えています。今まで自国の政治・経済・文化・歴史・自然等に興味を持ったことがなかったので、この出来事を機に日本で何が起こっているのか?日本の特徴はなにか?等を調べるようになりました。
3、コペンハーゲン(デンマーク)
国連が2016年3月に発表した「世界幸福度報告書」において、”最も幸せな国”に輝いた福祉国家デンマーク。私はここで初めて成人教育という分野を知ります。フォルケホイスコーレというものを皆さんご存じでしょうか?決まったカリキュラムは存在せず、州ごとに独自に運営されています。各学校と教師陣が、生徒とコミュニティのニーズに合わせて、教え方や内容を選び決めているのです。就職や商売に向けた教育ではなく、個性、批判的な思考能力(クリティカル・シンキング)、創造性、世界や周囲への注意力、そして身の回りの社会をよりよく変える力などを追求します。「生きた世界」から学ぶ「生活のための学校」という発想です。日本では何となく大学に進学し、何となく就職をして、何となく終身雇用で定年を迎えるというのが通説。デンマークではジョブ型雇用も多く、成果出せなければリストラも多く、また学卒で入るには狭き門な企業も多いため、「どう生きるか?自分の心の琴線に触れるものはなにか?」等自分を見つめなおす機関がセーフティネットとして整備をされており、いつ離職しても再出発するための場所がありました。日本では離職はなぜだかネガティブにイメージされることは多いですがデンマークは違っており衝撃を受けました。(ちなみに2023年5月に私は再度デンマークに行きフォルケホイスコーレだけを見るために10日ほど滞在しました。今の仕事にもつながる原体験を当時持てたことに感謝です)
4、プエルトケツァル(グアテマラ)
ここでは、コーヒー農園に勤めている女性の方と話す機会がありました。皆に馴染みのあるコーヒーは消費国での繁栄の象徴だったが、同時に、南北問題の象徴、植民地時代のプランテーション方式による奴隷作物の代表でした。奴隷制度は現在ではないものの、現地貧困層を働いてもらい、アメリカ人経営者は安価にコーヒー提供をすることをしていました。その女性はトタン屋根のぼろ屋に住んでおり、家族を養っていました。私はいてもたってもいられず「なぜボイコットを起こさないの?辛くないですか?」と質問を質問をしました。その回答が
「これが私たちにとっては”当たり前”なの」
「ボイコットなんて起こしたら、家族も養えなくなる。だから今のまま生きるしかないの」
私はその回答を聞いて怒りと悲しみの感情が混じった涙が出ました。国自体は穿った言い方をすると愚民政策を取っており、高等教育を受ける層とそうじゃない層をしっかり分けていて、政策推進をスムーズにできるように動いていました。上流社会には中々上がれない構造。それをわかっている住民。私たちが生きている日本の”当たり前”と彼女が生きているグアテマラの”当たり前”が全然違うという経験をしました。
様々な国を見てきて、帰ってきた私は・・・
ピースボートでの様々な出来事が私の動く指針を創り出した気がしています。もっと日本のことを知りたい、世界でも少子高齢化というものは課題先進国といわれていたので、自分で団体を設立し活動をすぐ始めました
今日はここまでにします。次回は自分で立ち上げた団体での活動についての話を続きで書いていきたいと思います。