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スタンド・バイ・ミー

映画と文学①

(文責:夏崎れもん)

どうしても、忘れることのできないひとはいますか。

夏のぬうっとした空気の中でなつかしい香りを嗅いだとき。
見えないなにかに閉じ込められて頭がぼんやりしたとき。
まるで自分しかいないかのような場所でひそやかな鼻歌が聞こえたとき。
あなたの目の前を見覚えのある誰かの背中が歩いていったことはないだろうか。
この物語であなたは、そんな誰かのことを思い出すかもしれない。

物語『スタンド・バイ・ミー』はスティーブン・キングが書いた作品で、十二歳の少年たち、ゴーディ、クリス、テディ、バーンが、行方不明になった同い年の少年(といっても知り合いではない)の死体を探す旅に出る物語だ。1982年にアメリカで中編小説として出版され、1986年に映画化された。なぜ知らない少年の死体を探そうとしているのかは、ぜひ本を読んで確認していただきたい。きっとそのまま本を閉じることができなくなってしまうはずだ。

四人の少年たちを見ているとはだしで太陽の下に立っているような気分になる。じっとりと蒸し暑い夏の日、髪も背中も汗ばんでべっとりとしているけれど、そんなことはどうでもよくて、大声で冗談を言い合ってがはがはと笑いながら、ただどうしてもそこに立っていたくなるのだ。一度離れてしまったらもう二度と味わうことのできない、もろくて儚い魅力が、あなたを惹きつけてしまうだろう。

映画から入るもよし、小説から入るもよし。どちらか一方を楽しむだけでも、あなたの心の奥底に沈んでいた宝物がぷかぷかと浮かんでくるに違いない。私はというと小説を先に読んだ。今ではすっかり大人になってしまった主人公ゴーディが、十二歳だった頃のこの出来事を回想するかたちで物語は進む。そのせいか、小説でのゴーディはどこまでも大人びていた。三人の友人たちの複雑な家庭環境を口には出さずとも理解し、自分の心情についても冷静に分析している。まるで大人が子どもの身体で過ごしているかのようでもあった。しかしそのゴーディに引けを取らずどこまでも達観しているのが、仲間の一人であるクリスだ。なんとも言葉にできない不思議な魅力にあふれているこの人物に、あなたもぜひ物語を介して出会っていただきたい。彼は残りの二人の友人たち(テディとバーン)のように自分のことで逆上することは一切なく、いつも友人たちの憤りをなだめ、そっと気遣いの心を見せる。なんだか人を抱きしめるのが上手そうな人物だ。クリスは確固たる信念を持つ、揺らぐことのない人物のように思われたが、物語の終盤で初めてしっかりと感情をあらわにする。こぞって死体を見にやってきた年上の不良たちから死体と三人の友人たちを守ろうと、クリスが銃を手にして立ち向かう場面だ。バーンとテディが不良たちに恐れを成して逃げ出した時、クリスは低く震える声でゴーディにこう言った。

「おれから離れるなよ、ゴーディ」

ゴーディはこう答える。

「ちゃんとここにいるよ」

胸が締め付けられるような思いがした。クリスがゴーディに”Stand by me, Gordy"とささやく息遣いをすぐ近くに感じたからだ。不良たちが立ち去るとクリスは、逃げ出したバーンとテディに怒りの感情を示し、そして声をあげて泣きだす。読んでいる私からすると、ようやくクリスが生きていることを実感できた瞬間だった。それほど、小説でのクリスは、感情を常に包み隠していたのだ。

一方の映画では、ゴーディとクリスは当時まだ少年であったのだと思い知らされる。悔しいことがあると抑えきれずに涙をこぼし、楽しいときや嬉しいときには身体を揺らして歌を歌う。年上の不良たちを前に強がってはみるけれど、やはり子ども扱いをされて権力に屈してしまう。常に何かを悟ったように悔しさや辛さを押し込めていたクリスの印象は薄れていた。小説ではゴーディがクリスに支えられている場面が多く見られたが、映画ではお互いが暗黙の了解の中で静かに支え合っているような描写が色濃くほどこされていた。だが、小説にせよ映画にせよ、彼らにとってはその時その瞬間が全てであり、自分たちが子どもであるかどうかなんてきっとどうでも良かったに違いない。歳を重ねようが重ねまいが、その時生きている自分が、私たちにとっては一番真剣に向き合わなければならない存在なのである。

タイトルの「スタンド・バイ・ミー」。これは、誰が誰に対して伝えたかった言葉なのだろうか。小説でも映画でも、クリスはゴーディに、自分やテディやバーンは悪影響だからもっと優秀な人たちと仲良くしたほうがいいと諭す。ゴーディはそれに反論するが、クリスは譲らない。そんなクリスが、不良たちを前にして、ゴーディに離れないでくれと言う。そこに彼の本心が現れていると考えると、「スタンド・バイ・ミー」はクリスが心の底に押しこめていた言葉なのかもしれない。残念ながら映画には、クリスがゴーディに離れないでくれと頼む場面が登場しない。しかし、二人が肩を寄せ合いながら歩いているのを見ていると、この言葉は彼らがお互いに伝えずとも抱いていた気持ちなのではないかとも思えてくる。
 
物語の最後で、回想しているゴーディは、テディとバーンとは中学校で疎遠になったことや、クリスが大学に進学したのち事件に巻き込まれて死んだことを伝える。映画ではそのことが、それぞれが家に帰っていく後ろ姿と重ねて描写された。少しずつ遠ざかり、突然ぽんっと消えたクリスの後ろ姿を見ると、思わず「スタンド・バイ・ミー」という言葉がこぼさずにはいられなかった。
クリスの小さな後ろ姿を、ゴーディはきっと目に焼き付けたまま、離さずに生きていく。映画を観たあと、余韻に浸ってぼんやりとコーヒーを飲みながら、私はふいにそう思った。
大人でも子どもでもない、不安定で無邪気な少年たちは、互いに寄りかかりながら、すっくと立っていた。その姿にどことなく自分の過去を見出してしまうのはきっと私だけではないだろう。今ではすっかり疎遠になってしまった友人たちに、今日もそっと想いを馳せる。もう会うことがなくても、すっかり変わり果てたお互いの姿に寂しさを覚えても、彼らとの思い出はずっとそばにある。スタンド・バイ・ミー。もしかするとそれは、ずっとそばにあるものを思い出させてくれる魔法の言葉なのかもしれない。

そういうわけで、この夏、ぜひあなた自身の目と心でこの物語に出会ってみていただきたい。

「スタンド・バイ・ミー」、その言葉の先になつかしい誰かの背中を見たのなら、それはきっと、あなたも思い出の魔法にかかった証拠なのだ。

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