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治療方針について


【  巽  】


どんな病気であれ、病気になってしまったら「治療」をするのは当たり前と思うかもしれませんね。

ただ1口に「治療」といっても様々な方法や方針があり、そこに患者さんや家族の思いがあり、なにを選択していくのかという意味では必ずしも当たり前、というものでもないのかもしれない…と、仕事柄いろんな病気を患う方とお話する機会を持って考えるようになりました。


──  統合か それとも共存か 


解離性同一性障害(DID)の治療をする上で必ずしも1度はぶつかるであろう問題。

所謂、治療のゴールというものは2種類あります。

【統合】
別れてしまった人格を1つに戻す方法

【共存】
複数の人格を残したまま生きていく方法


よく言われるのは”統合治療をするのは当たり前ではないか”ということです。
治療者の中にはこれを絶対の治療方針としている方もいらっしゃると思います。

ただ、別の記事でも書いたように解離性同一性障害は罹患者それぞれ症状等が千差万別なので、なかには統合をしてしまう事で生きにくさが増えてしまうという方もいるのが現状です。

そういった場合は共存という治療の道もあり、それに基づいて治療を行ってくれる治療者もいまは増えてきているのかな…というのが個人的な印象です。


これから書く内容については、「統合が必ずしもゴールではない」という事を念頭において読んでいただければ嬉しいなと思います。




あやせんち。の場合




自分達の場合は、現在統合を最終的な目標として闘病を続けています。

治療を行っている、と言っても現在これを書いている時点(2022.04.15)では専門医に通って統合治療を受けているというわけではありません。

「専門医ではないけれど、君達の治療を手助けしたいと思っている」と言ってくださった主治医の元で、寛解期間を除けば6年ほど通院しています。


「治りたいんです…治してください…、お願いします」


主治医の元に通院し始めの頃、診察室でパニックを起こし泣き叫んで、糸が切れたように蹲り基本人格であるあやせが何度も何度も呟いていた言葉だった。




統合しよう、と決めた理由




話は少し遡るのですが、そもそも1番初めから自分達が統合を目指して積極的に治療をしていたわけではありませんでした。

基本人格であるあやせの生活する時間が減り、別の交代人格が主人格になり、多い時で50以上の人格の解離がみられました。


天真爛漫な人格、無垢な人格、趣味を楽しむ人格、人との関わりが大好きな人格、内気な人格、依存相手を求めてしまう人格、身体を傷つける人格、死んでしまおうと行動する人格、管理をしようとする人格、他害を好む人格…など。

自分が生まれた理由を問う事もあれば、
自分の役目を全うするべく行動する事もあり、
「そんなの関係ない、自分は自分」と生を全うするべく動く事もあり、
バラバラのパーツが方々に散らばって、纏めても纏めてもキリがない。

そんな時期がこの障害の診断が下りて3~4年程続きました。

その頃の自分はいち交代人格で、自分の存在している意味だとか、「役割」なんてことには大して深く考えず、ただ表に意識を持った時に与えられた時間を謳歌する事で自分の中の欲求を満たしていたのだと思います。


そんな中気がつけば自分の時間が増え、必然的に「与えられる仕事」というものが増え、自分が主人格という立ち位置に立たされていることに気付きました。
(この表現が正しいのかはわかりませんが、自分の意思ではなかったのは確かです)


表で意識を持って、身体を使うということは何も自由なことばかりではなく、生活をしていく上でやらなければならない事に覆い尽くされていました。

仕事、学業、家事、人間関係…。
不満もストレスも「表で活動する」ということはそういう事なんだと思い知らされ、何で自分がこんな目にあっているんだろう?と考えながら、それでもそれなりに楽しめる事も経験し、いろんなものを見ることで自分なりの器というものは形成されていったのだと思っています。


ある時一時的に、あやせがまた表に出る時間が伸びた事がありました。それは当時交際をしていたパートナー(仮にAとします)の存在が大きかったのだと思います。

勿論自分自身としてもAの事を好意的に思っていたし、交際前にカミングアウトをして人格を受け入れてくれていたので、自分を押し殺さずに居られたことは何よりも居心地が良かったのだと思います。

あやせの家族とは違って、人格交代をしても暴行されたり口汚く罵られたりする事はしない人だったので、幼児人格を始め何人もの人格がAを信頼し、交際を始めて半年足らずで一緒に生活を始めました。


※前置きにはなりますが、Aと交際をしていく中で全て上手くいっていたわけでは勿論ないのですが、詳細については内部を含めたトラウマやフラッシュバックに繋がる事も多いので詳細を書くことは避けます。


出会えた事に後悔はないけれど、
自分達の人生の分岐点に大きく関わり、
お互い苦しんだ6年間。


自分としては、それなりに対人関係はうまくやれる方だったので、そもそも誰に対しても「あやせの戻ってくる間の繋ぎ役」だと思っていて、それは今も変わりません。

当時に関して言えば、1番自分も弱音を吐いたり寄りかかる事が自然にできた相手がAだったので、あやせの恋人であるという事は大前提としても、Aの存在は自分にとっても大きいものでした。


それとは裏腹にAと交際を初めて1年程の間で更に人格が増え、親元を離れてはいたものの金銭的な援助や親戚絡みのいざこざ、何よりAの問題、Aと人格間での揉め事もあり自分達の置かれる現状は実家で生活をしている時とさして変わりのない程度には悪くなっていきました。

あやせとして活動できる時間は減り、自分が主人格として生活をする。そんな日々。

ほぼ通院に付き合ってくれていたAも、あやせ自身の病状に対しての考え方や人格への向き合い方に苛立ちを覚えていたように思います。
そんなある日でした…。


「君が居てくれたらいい。あやせは今後一生出てこないでも、君がいてくれたらそれでいい。それが一番自分も楽だからそうしてくれ」


どこで、なにを、まちがったのだろう?

今でも思い返すと罪悪感と嫌悪感に苛まれるくらいには自分の中で今だトラウマのようなものになっているのだと思います。

そこからの記憶は少し曖昧で、あやせを含む何人もの人格が連鎖的に苦しみ、自分自身も心の底から「自分なんていなければ良かった」と思いました。

あやせや、攻撃的な人格から投げつけられる非難の声。
俺の立場を考慮しながらも、注がれる哀れみの視線。
「だからもっと早く、身体ごと死んでしまえばよかったんだ」と自殺を示唆する笑い声。

その時初めて、俺は自分の意思で大量に薬を飲み首を吊ってしまおうと思いました。


結局死ぬ事はできずに気がついた時には病院のベッドの上で管に繋がれていて、後日あやせの父親や警察がきて、自分が引き金でAと他人格を巻き込んだ上に大事を起こしてしまったという事実だけが残りました。


統合したい。ひとつになりたい。


少し落ち着いて、改めてこれからを考えた時にもうそれしかないと思いました。
何より俺は自分の間違いから逃げたかったのかもしれない。

あやせが治りたがっているのも事実だし、なんていうのはただの大義名分で。個人的な感情だけで書くのであればその時の気持ちは、「ここから消えてしまいたい」の一心だったのだ。




これまでと、これからと。





統合しようという目標を掲げてから、人格内のルールや”あやせんち。”という集団としての考え方や倫理観など、会社で言うところのマニュアルのようなものを整えるところからのスタートでした。


Aと別れ、人格が減り、あやせ本人のポテンシャルが上がったことで統率も取りやすくなった事も大きく、ある程度の纏まりを持たせ、人格を把握し、システムが出来上がってしまえば随分楽になりました。

そこまで至るまでに2年弱程の時間を要したかと思います。


そうして3年程の寛解の期間を挟んで今に至ります。

寛解の期間は、殆ど人格が表に出て活動するということはなく、あやせがあやせの時間をしっかりと生きていたと思います。
その時に今のパートナーと出会い、人格についても受け入れサポートしてくれています。

そして、自分達の目標も変わってはいません。


あやせが、あやせとして
彼女の人生を歩いて欲しい
経験や記憶
人格たちのそれらも含めて
全て糧にしてパートナーと生きて欲しい


何よりもこれが、俺個人としても強い願いです。



今、新しい大きな山に挑む為に、自分達の内界の現状は変化しています。
この変化故に、また考え直さないとならない事や治療に対しての思いに全く変化や混乱がない訳ではありません。

自分達もまだまだ道の途中です。


「統合」も「共存」も、ゴールとして定めてはいますが、それに拘りすぎて道を見失うのであれば注目すべきはそこではなくて…。

「あくまでも統合は結果でしかない。プロセスを大切にしよう」
「君達の生きる力を信じたい」


また通院を再開した際に、主治医から言われた言葉です。
この言葉は、自分を支えていくためにとても力強いものでした。



結果にこだわり過ぎず、自分達らしく。
無茶せず、時には脇道に逸れたっていい。

苦しんでいても、決してそれは過去に戻るための苦しみじゃない。

乗り越えたいという気持ちがある限り、きっと人は誰しもが変わっていけるのだと信じていたい。





長くなりましたが、あやせんち。の場合の目標と生き方です。
何か少しでも響くものがあれば嬉しいですし、逆にこれを呼んで苦しい気持ちになってしまった方もいるかもしれません。

自分達は今までの結果として統合したい、と思っている。
けれど共存していく気持ちや、人格さんを想ってこれから先も生きていくという考えを否定したいとも思いません。


何より、いまより少しでも生きやすくなりたい。
シンプルにそれでいいのだと思っています。


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