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歪んだ家族の愛

私は時折、家族の愛について悩むことがあります。


それは過ぎ去ったことで、考えてもしょうがないことだと理解はしているのですが、自分の中だけで抱えることが難しいので、ここで誰かに吐き出そうと思います。



かなり言葉がきつい場面が出てきます。それが許せる方のみ、スクロールしてください。



私は、割と裕福な家庭で育ちました。ひとりっ子で、両親は共働き、欲しいもの、食べたいものは大体何でも買ってもらえました。周りの家と比べてみても金銭的に余裕のある家でした。


おじいちゃんおばあちゃんからも、とても可愛がられて、何の不自由もない幸せな家庭でした。


少なくとも、はたからみると幸せそのものでした。


たくさん愛されて、たくさんものを買ってもらって「甘やかされている」といろんな人から言われるほど、紛れもなく私の家庭には愛がありました。


両親が私に与えた愛は本物ですが、少しだけおかしな所がありました。




私は3歳の頃からピアノ教室に通っていました。


私がやりたかったわけではありませんが、両親がバレエかピアノかで悩んだ結果、父が音楽をしていることもありピアノを習うことになりました。


毎週火曜日の三十分間のレッスン中、私は3歳とは思えないほど大人しい子どもでした。


先生の指示があれば、楽譜を音階通りに読み、指示があれば楽譜通りに歌い、下手ながらも弾くことができました。


普通の3歳児はそもそも椅子に座ることができませんが、私は三十分間のレッスン中、動き回ることもなく、きちんと座って先生の指示を聞くとても良い子でした。


私はそのことで、よく先生や周りの大人から褒められていました。


「本当に良い子だね」


幼い私はこの言葉をたくさんの人から何回も何回も聞きました。

そのくらい私は理性的で、子供らしさの欠けた子供でした。



当時の事をある程度覚えているのですが、私は良い子でいなければいけない理由がありました。



思い返してみると、私が大人しいのは当然のことのように思えます。



私が生まれた頃、家は荒れていました。母は私を産んですぐ働きに戻り、その頃父は定職についておらず、アルバイトをしていました。家には本当にお金が無く、そのことで両親は毎日イライラしていました。


私がまだ幼い子どもだったこともあって、その世話で疲れ切っていたのもあると思います。


家の中は怒鳴り声がたびたび響いていました。


そのころ私は2歳くらいでしょうか、未だに覚えています。


父の怒鳴り声と、母の泣く声、物がこわれる音と、ガラスの割れる音。



テーブルの下でうずくまる私は、泣く母に対してどうすることもできませんでした。

ただひたすら、父の怒りの矛先が自分に向かないように、息を殺してこの喧嘩がおわるのをただ見ているだけでした。



母も私も殴られて今日死んじゃうんだろうな、とどこか冷静な気持ちで覚悟をしていました。


父は殺気立って怒ることはよくありましたが、母に手を上げたことはなかったと思います。

私も今まで生きてきて殴られた記憶はありません。


だけど、怒られるといつも殴られそうでした。

気持ち的には殴れた筈ですが、父は殴らなかったのです。


辛うじて自分を律する父が、むしろとても恐ろしかったです。


きっと、私が殴られる時があればそれは殺されるときなんだろうなと、

怒りの限界値を超えたら殴り殺されると確信していました。



圧倒的な力の差を見せつけられた私は、本能的に「親に逆らうことは死ぬこと」だと悟りました。



2歳の子どもなんて、いとも簡単に殺せるでしょう。後頭部を鷲掴みにして、机の角に叩きつければひとたまりもありません。


父が怒るところを見て、死を感じた私は不自然に大人しくなりました。


走り回らないし、できるだけ泣かないように努めました。泣けば「泣くな」と怒鳴られるからです。


そうして私の情緒が少しずつおかしくなっていったことを、両親は気づきませんでした。



私が3歳で大人しく振る舞えたのは、大人が信用できなかったからです。


何か気に障ることをすれば、殺されると思っていたからです。



だから私は、自分が長生きするために両親に逆らわず、今日という一日が平穏に過ごせるように、感情に蓋をすることにしました。


暴れもしない、泣きもしない、自然な感情を押さえつけると、周りの大人は褒めてくれました。


おとなしくていい子だね、と。


私が恐怖で支配されていることに、誰も気がつきませんでした。




家の中で殺される可能性があった私は、ずっと母のそばにくっつくようになりました。


それは生まれてから12歳まで続きました。


母のそばにいないと不安で仕方がないのです。


幼少期は家の中でも、母の隣にいました。おばあちゃんの家など、父がいない安全な場所でも絶対に母の隣を離れませんでした。

 

怖かったのです。


父に殺される可能性があるということは、血の繋がっていない他人は、もっと簡単に、容易く私を殺す可能性があるということです。



もう母以外の大人が本能的に怖かったです。


母も母で信頼できる人間ではありませんでした。ですが、母以外だと誰を頼って良いのかもわかりません。


少なくとも、母は、他人に比べたら私を守ってくれるはず、という確証のないものでした。


だから私は、保育園に預けられる時、強烈に不安に襲われました。



母がそばにいないということは、守ってくれる人がいないということ。私が怪我をした時、殺されそうになる時、誰も助けてはくれないということです。


常に薄く死の恐怖がある中で、私は感情が少しずつ欠けていきました。




大人というのは、子供を簡単にねじ伏せて殺せるのに、なぜ親は保母に全幅の信頼を置けるのか理解ができなかったです。




そのせいで、保育園や幼稚園などの集団生活はひどく違和感を覚えていました。


周りの子ども達はみんな感情をむき出しにして、暴れまわります。

楽しかったら叫び、不快だったら泣く。


抑圧してきた私にとって、ありのままの感情をだす子どもがとても奇妙に思えました。



なぜあの子たちは走り回れるのでしょうか。

なぜ大声を上げられるのでしょうか。


親は怒鳴らないのですか?

何も言わないのですか?




自然な感情が欠落しはじめていた私は、他の子と、自分が全く別物のように思いました。


当たり前の感情を出せる子供達の中で、私は自分らしく振る舞うことができなくなっていました。



この集団に属することに強烈な違和感がありました。



私は家の中で暴れ回っては、怒鳴られます。泣いても怒鳴られます。


ただ静かであればいいのです。


静かであれば、怒鳴られはしません。


怒らせてしまえば、殴られて殺されるかもしれませんから、静かでいることが一番なのです。


私が何も感じなければ良いのです。



続きはまた書きます

長くなりそうなので

今日はこのへんで終わります。

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