4月30日 A子さんの恋人、氷柱の声

昨日、2時前くらいまで飲んでから帰ってきた割には8時前くらいにすっと目が覚めた。

A子さんの恋人を読む。登場人物それぞれの中に自分が見える。関係性の中にいる自分が自分とは思えなくなってしまうこと、一緒にいる時の自分が好きと思えるか。刺さり過ぎて朝から涙で泣き腫らした目。終わりはこれ以上ないハッピーエンドだったなとおれは思った。ただ、最後のシーンの後もハッピーであって欲しいと願ってる。
おれは海を上手く泳ぐことができない。この何年か、いつでも引き返せるように沿岸をそれでも溺れそうになりながら泳いでいたと思う。だけど、浜辺で見ていることを肯定もまだできない。
おれもちょうど29歳。30歳までは8ヶ月。それを締切にするとしても、じゃあ何を決めるの?とそれすら分からない感じ。

その後、ちょっと作業をする。締切ギリギリになってしまって申し訳ないなぁと思ったり、これで合ってたのかなぁと不安になったり、意外と難しかったなぁと思ったりした。
GWにやらなきゃということは取り敢えず終わった。

帰省するために電車に乗る。「そろそろデート再開しませんか?」というpairsの広告がかなり目につく。この前電車に乗った時、30代後半くらいだろうかの女性が広告の方を指差しながら一緒にいた男性に「そろそろデート再開しませんか?だって」と笑いかけながら言って、男性は「そうだね」と応えて、微笑み合いながら電車を降りてったとこに遭遇した。とても嬉しい気分になった。

電車ではくどうれいんさんの氷柱の声を読んだ。周りからの表面的な想定・期待に心や考えや行動ごと乗っ取られてしまう、いや違うな、ただ生きていることが物語に集約されてしまう、それと折り合いを付けられない。内側から浮かび上がってきてたと思ってた後ろめたさは本当は外側から生じさせられたものかもしれない。
誠実さには誠実に返したいと思いつつも、でもやっぱり自分はどうしようもなく部外者だという気持ちも拭えなくて、傷つけることを考えてしまう。しかし語りは開かれている。
うだうだ書いたけど、被災地に行った時のことを自分は書いたことがある。今、それを読み返すのがこわいなと思う。

実家に帰って来て、たくさんの餃子を包んだ。両親はもうすぐ60歳だと言うのに餃子をとてもたくさん食べる。実家に帰ってきても結局ゴロゴロしてしまうので、何か作業があるのは嬉しい。
実は昨日も餃子を食べたのだけどそれは言わなかった。店で食べる餃子より実家の餃子の方が好きだし。最初に食べた餃子がこの美味しい餃子だったから、初めて大手チェーンの餃子を食べた時、え、普通と思った。店の餃子でまた食べたいと思ったことないなと思いかけたけど、今の家の近所のおじいちゃんおばあちゃんがやってる中華屋の餃子はまた食べたいなと思ったことを思い出した。何を包むかより誰が包むかだってとても陳腐なことを思った。

テレビでワイドショーがついてた。聞こえてくるだけで体調が悪くなってきそうだった。装飾されたもので感情を揺さぶられることに意味があるのだろうかと思ったり、どうにも出来ない信じられないことから目を背けたいなと思ったりした。結局バラエティ番組に変えてしまった。

くどうさんの本を最近何冊も読んで、盛岡に行ってみたいなぁと思ってる。後半はほとんど予定のないGW。別に行けない理由なんて何もないんだった。

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