随筆 思ひそめしか

ゲーテ、寺山修司、コミュニケーションの話をつらつらと記述してきたが、ここでざっくりと共通する事に恋愛という要素がある。
そこで今日は三島由紀夫の新恋愛講座に記述されていることに寄せて書いてみたいと思う。と言ってもまだふんわりと呼んでいる途中の事なので第一講の内容にとどめておく。
ここでは日本と西洋では恋愛に対する考え方の違いが記されていた。まず恋慕の情がある。誰かが好きだという気持ちが先にあった上で、ギリシアなどでは哲学が合わさり愛するとは何なのかと考えられていくことになる。
キリスト教などでは隣人愛や家族愛、性愛、無償の愛と分類も行われ、汝の敵を愛せという教えにも表れてくる。
日本の恋愛はそういったものではない。
例えば万葉集。
磐之媛命「ありつつ、君をば待たむうち靡(なび)く、わが黒髪に霜の置くまでに」
光明皇后「我が背子と二人見ませばいくばくか、この降る雪の嬉しからまし」
このように相手への想いを奥ゆかしく表現している。
もちろんこの二人は后妃、皇后という立場のものであるため、気品さなどがあるのは当然であろう。我々のようなごく一般的な人間がどうであったかはまた別である。
笠女郎の「陸奥の真野の草原遠けども、面影にして見ゆとふものを」辺りがまだ我々に近いのだろうか。
伊勢物語や源氏物語の日本のモテ男物語というか、そういった部分ではこういった表現に加え「相手と寝たい」ありていに言えば肉欲の面が見えるようになる。しかしそれも、西洋ほど、今現在のポルノものなどほどの露骨に性的な描写ではない。
日本の恋愛とは西洋に比べ、プラトニックな精神的恋愛の比重が比較的大きいのだ。
学校教育の性教育が不十分ではないかとか、親にも性的な悩みは相談しにくいといった諸問題などがあったりするのも、潜在的にこのような性に対する閉塞的な面があるように思う。
あなたを思っている。会えたらいいのに。そういった内に秘めた感情、慕情を重視するからこそ、相手に告白、想いの伝え方が分からないというのは何とも皮肉的である。
どう思っているか、どうしたいか、どうされたいか、これを正直に言葉にするというのが一つあるだろう。
しかしどう伝えるか、いつ伝えるかもまた各々である。
恋愛とは相手と通じ合わない限り、いつまでも思い始めたばかりの段階だ。

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