茶を飲める日はいいである
茶を飲める日はいい日だ。
近頃、疲弊した頭が晩飯に欲するものと言えばシリアルで、そこから得られる微量の栄養を体内でエネルギーに変換し、どうにかこうにか生きている。
半年前ごろから、会社が無料で提供している栄養士サービスを利用し、人間らしい食事や健康的な運動量などを意識するよう努めてきた。はじめのうちは良かった。我ながら素直に栄養士の助言を受け入れ、炭水化物を控え、食物繊維を必要量接種し、たんぱく質も十分とるよう献立を考えた。週末には午後の12時に毎週カレンダーに「ジムへ行く」という簡素な予定をたて、自主的に守っていた。はじめのうちは。しかし数か月も経てば、勝手に習慣ぶっていた自分の健康意識はいとも簡単に瓦解し、今ではスマホに表示される「ジムへ行く」という通知を脳が自動的に無視するまでに至っている。もはや視界にすら入らないのだから良心も痛まない。
なら食事はどうか。健康的な食事、これは冒頭で既に告げたように身体の生命力と共にモソモソと音をたてて壊れた。無論シリアルが好きすぎてこうなったわけではなく、これは、食への関心の無さ、でもなく、ひとえに、ただただ怠惰が原因である。
怠惰な人間にとって、食事とはいかんともしがたい存在である。
食べるためには、料理をしなければいけない、料理をするためには買い出しにいかなければいけない、買い出しに行くためには外出しなければいけない、献立を考えなければいけない、外出するためには服装を考えなければいけない、献立を考えるためには調べ選ばなければいけない、まだまだある。いざ料理が目の前に出てきたとしても食べなければいけない。手を動かし、噛み、咀嚼するということ自体が労力なのである。美味しい食べ物が嫌いなわけではない。美味しいならまだしも、これだけの労力をかけて自炊したものが仮に不味かったらどうしろというのだ。負に負を重ね、それこそ疲労しきった脳で手を動かしながら、泣きたくなるのではないか。
ならいっそ、シリアルでいい。箱を開け、ボウルにシリアルとミルクを注ぎ、食べる。カップ麺と違い、待ち時間もない。不味くもない。これが完璧なのである。
と、詭弁をつらつらの並べてみたものの、少し考えてみればそんなわけがあるはずがない。あるはずがないのだ。食事は生命の源であり、毎日シリアル生活はもはや緩やかな自死も同然である。
遂にその真理に気付いた私はシリアルをすくう右手を止め、思い悩んだ。
冷蔵庫の中はいつも空っぽである。時に、使い方も分からずに、色が綺麗だから、という理由で買ったズッキーニやパプリカと言った生野菜が転がっていることがあるが、大抵気付いたころには白いふさふさの生命体が棲みついている。彼等は謎深く、その鋭い眼光にあてられる度、この先一生友好的な関係を結ぶことは出来ないのだろうと思う。
他にあるものとすれば米とツナ缶だ、しかしマヨネーズもなければ調味料もない。そもそも米を炊くエネルギーが私の体にはもう残っていない。米が炊ければそもそもこんな窮地には陥っていないのである。
そこで私は考えた。
茶である。
私はもう長い間お茶、ではなくコーヒーを好んで飲んでおり、中でもスペシャリティーコーヒーという、とても贅沢で金のかかる豆を買っては挽いていた。しかしこの頃、どうもコーヒーを飲むと腹の調子が悪くなることに気付き別の楽しみを探していた。そこで茶である。コーヒーと同じようにカフェインを有する者もあれば、ハーブティーなどのように就寝前に飲んでも平気な茶もある。コーヒーに比べ、実に種類豊かではないか。
私は茶にハマった。
そして、朦朧とする思考の波を彷徨いながら、ならば茶を飲めばいいのではないか、そう思った。
戸棚を開けるとそこには何十種類もの茶が一見乱雑に、それでいて規則正しく詰め込まれている。私がそこから選んだのはメープルの紅茶であった。以前、バーモントにいる友人を訪ねた時に土産として買ってきたメープルシロップの香りがほんのり漂う紅茶である。これが非常に上品で美味なのだ。
私は実験を重ね辿り着いた、95度、250ml、そして2分半の蒸らし時間という黄金比を用い、今日も又完璧な一杯を仕上げて見せた。微かに甘く、紅葉を彷彿とさせるようなメープルの香りを堪能しながら、自分の手際の良さに思わず感嘆した。
そして、少し熱が冷めた頃、私はその一口を口にする。
そして思うのであった。
あぁ今日はいい日だと。