「人はなぜ生きるのか?」という王道の哲学テーマについての所感
-目次-
・はじめに
・生きる理由はいずこに?
・「幸福」から「時間」へ 楽曲「リフレイン」の歌詞をもとに
・微小な変化 万人に開かれている変化 博打性
・結論とその批判に対する危惧
・最後に注意点 学びは必要
・追記の書籍列挙
はじめに
本稿は所感であり、見解と言いうるようなものではありません。なので、上記テーマに関する私一個人の考え方に興味のある方だけ読んでくださるようお願いします。
皆さん、こんにちは、こんばんは!
今回はタイトルにもあるよう、「人はなぜ生きるのか?」という哲学王道のテーマについて考えてみたいと思います。
是非、お時間ある方はお付き合いください!
生きる理由はいずこに?
早速、根も葉もない結論ですが、人が生きる理由は個人によって異なると自分は思っています笑
この手の問題で、よくある回答が「人は、幸福を求めて生きている」です。
この回答が有力な気もしており、一時期の私もこの考え方でした!
大多数が納得のいく回答、かつ、「幸福を求めていない人がいるだろ」という批判があっても、「その人にとっては、幸福を求めないことが幸福だ」という強い応答ができます笑
文脈からご察しのように、私はこの幸福主義の立場ではありません!
なぜなら、その「幸福」が何かが、定義不可能なものだからです。
この点は、山口尚先生の『幸福と人生の意味の哲学』で、「超越論的幸福」という概念を提示されており、超越論的幸福の特徴は、それが「語りえないもの」という点です。
つまり、幸福は、言葉にできないものということですね。
「幸福とは〇〇だ」と主張しても、必ず何かが抜け落ちている、そういう考え方です。
例えば、「幸福とは快楽だ」という主張に対して、「本当に快楽だけか?快楽が必ずしも幸福につながるか?」と言えるわけです。
(快楽におぼれて破産した人を幸福と言えるかは怪しいですからね)
山口先生は、幸福は語りえぬものとしたうえで、誰しもが幸福になりうることができるという話に展開し、幸福が人生の意味になると結論付けます(なので、人生の意味も語りえぬものとなります)。
この詳しい展開については、本書をお読みいただきたいのですが、私と山口先生の考え方の違いは、ここら辺から出てきます。
私は、幸福は語りえぬものなのだから、「幸福」を「人生の意味(=人が生きる理由)」とすることに、正直抵抗を感じてしまいます。
言い換えると、「普遍的な幸福」と「人生の意味」を(幸福が定義不能なことから)私は、分離して考えたいわけです。
但し、「自分にとっての幸福は、今は〇〇です」と言える方がいらっしゃれば、それは、その〇〇が今のあなたにとっての幸福であり、生きる理由になりうるとは思います。
つまり私は、かなり相対主義寄り(生きる理由は人によって異なる)の考えを持っているわけです笑
ですが、「生きる理由や幸福は人によって異なる、以上!」という締めにも向かいません笑
「幸福」から「時間」へ 楽曲「リフレイン」の歌詞をもとに
先述の「但し書き」の一文ですが、かなり読みにくいですよね。
読みにくさの原因は、「今」という言葉を無理くり使用しているからです笑
「今」というのは、「時間」です。「時間」というものの性質は、「異なるものの流れ」です。「行く川の流れは絶えずして、しかも元の川にあらず」ということです。
焦らした言い方をしてすみません笑
何が言いたいのかというと、私は「人はなぜ生きるのか」という問いに対して、「変化」という概念を提示して立ち向かいます。
ここで(唐突ですが)一曲聞いていただきましょう
ラックライフ「リフレイン」
まず初めに注目すべきは、この歌では、「人生」というものに対してネガティブです。(以下「」が歌詞)
「さて向かう先にゃ めんどくさい事山積み嫌んなって はてさて果ての果てまでどれぐらいでしょう」
→対人関係、重労働、健康被害、自然災害、大事な人との別れ、そんな出来たら避けたい、めんどくさい事が山ほどあります。
「夢から醒めても何も変わらないな」
→サビへの重大な伏線を含んだ歌詞だと思われます。
「アタシは違う やればできるなんてね 勘違い寒いごめんなさい 僕平凡天才じゃないや」
→承認欲求や自己顕示欲が満たされない現代社会人には、耳が痛すぎる指摘、事実
「なんでもないよ強がって こっそり涙を流した事 ほんとはね、を飲み込んで笑い顔無理に作っていた」
→一方で、こういった事実が多いとも私は考えています。
よく「あの人は、裏で悲しい思いをしてきてた」なんて言いますが、それって、そんなに珍しいものですか?
原因は何であれ、誰しもが無理を強いられ、裏で泣いている人は少なくないのが現状かと思います。
こんな踏んだり蹴ったりの人生ですが、サビを聞くに、ひたすら悲観しているだけの歌ではなさそうです。
「散々ですが踏ん張って どうにかこうにか切り抜けてく はいはいちょっと鎮まって 言わなくもいいこともあるでしょ」
→人生という化け物に対して、力強く耐え忍んでおられます。
なぜ耐えるのか?
「生きてこの世界が変わるなら 変わるまで見届けようちゃんとこの目で見て」
つまり、「変化」です。
「人はなぜ生きるのか?」
この問いに私が何か一石を投じるのであれば、それは、「変化に希望を抱いて」という主張となります。(だから、私は自称変化の哲学者です笑)
微小な変化 万人に開かれている変化 博打性
さっきの「時間(今)」の話に戻って、私たちは時間の中で生きており、その時間というのは、刻一刻と変化します。
但し、その変化は微小な変化です。
例えば、桜が満開のシーズンを思い浮かべてください。
桜の満開は、だいたい3日と言ったところでしょうか、3日連続で鑑賞したとしましょう。
どれも綺麗でしょうが、よく考えてください。
その3日間見た桜は、どれも同じではありません。
確実に、何枚かは散るなり、葉桜になるなり、しているはずです。
しかし、微小な違いなので私達はそれを一々気にはとめないでしょう。
だけど、「変化」は確実に起こっており、これは何も桜の木に限った話ではない、つまり、同じ時間の中を生きている私達人間にも当てはまるということです。
もちろん、認識できるレベルの変化が刻々と起きているわけではありませんが、この変化の生成事実を否定するのであれば、その人は「私は新陳代謝をしない」と言っているようなものです。
この微小な変化の世界観を主張しているのが、ジル・ドゥルーズという哲学者です。
なので、一応私が適当なことを言っているわけではないという点はお伝えしておきます笑
この微小な変化が積もって、或いは、何かそこにトリガーとなるような出来事が衝突して、大きな変化へとつながると思います。
つまり、変化の可能性は、誰しもに開かれているということです。
「誰しもに開かれている?さっき誰しもに共通する幸福なんてないって言ったじゃないか」
という批判を思い浮かべたのであれば、それは誤解です。
私は、「変化=幸福」という定式はとっておりません。
この変化が、悪い帰結をもたらすこともあると私は考えています。
しかし、良い帰結をもたらすことも事実です。
要は、「博打・賭け」です。
「人生はギャンブルだ」というセリフがありますが、結論においては、私もそうだと思います。
だから、人生は大変であり、かつ、良いこともあるわけですね。
さて、改めて結論です。
結論とその批判に対する危惧
「人はなぜ生きるのか?」
「変化の博打性に、魅入られて」
これが、私の結論です。
固い言葉を色々書きましたが、柔らかく表現すると、「なんかこの先どうなるか気になるし生きとこか」マインドが、この問いにおいて重要だよという主張です笑
だけど、「希望をもって生きろ!」と言ってる側面もありますが、もう少し私の言いたいことは、ソフトです笑
変化そのものが気になる、変化そのものに魅入られる、変化そのものを楽しむ、といったベクトルの主張ですので、必ずしも「希望を持て」とは言いません!
もちろん、これらの答えに納得がいかない方もいるでしょう。それは、そうで構いませんし、強制する気もありません。
しかし、この「変化」に対して批判をしたい方の一部には、恐らく「不変・不動性」を人生の意味に据えたい方だと思います。
何度も言うように強制は致しませんが、生きる意味に「不変・不動性」的なものをもちこむのは、ちょっと危うい気がしています。
それは、「私の生きる意味は〇〇!」と言って、それに固執する、ある種の狂信に陥っている風に正直見えてしまいます…
ものによっては、それは気高い人生なのかもしれませんが、この〇〇が例えば、ホストとかだったりすると、やはりどこか危なっかしさがありますよね…
或いは、特定の政治思想や人に害をなすような新興宗教の教えなどなど…
最後に注意点 学びは必要
さて最後に注意点です。
変化と博打性の中を生きるにしても、単にダラダラと過ごしても大丈夫とは言いません。
変化の質や幅を広げるための、ある程度の努力は推奨されてしかるべきかと思われます!
その点については、下記リンクの動画を見ていただきたいのですが、要は何でもいいから勉強はしておけよ、という点です笑
何でもいいというのがポイントで学校で習うような勉強じゃなくていいわけですね!私の場合は哲学ですし、コーヒー好きの方ならコーヒーのお勉強とかでもいいでしょう!
それこそが、本当に変化に賭けた生と言いうるものなのではないでしょうか?
本稿の感想等あれば励みになりすますので、遠慮なくDM下さい!https://instagram.com/koten.book?igshid=M2RkZGJiMzhjOQ==
ご精読ありがとうございました🙏
以上
PS.
参考文献ではないですが、私がこのような考えに至るうえで、影響を与えた書籍たちを列挙しておきます。
・山口尚『幸福と人生の意味の哲学』
・國分功一郎『目的への抵抗』
・ドゥルーズ『ディアローグ』『記号と事件』『差異と反復』
・千葉雅也『勉強の哲学』『現代思想入門』
追記2024年3月8日
続編の立ち位置になる試論を投稿
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