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言葉と、言葉じゃないものとの間で、猫。

 遡ること約半年。夏の気候もすっかり定着し、茹だるように暑かった8月6日の夜。発表時刻からすこし遅れてその知らせを目にしました。心血注いで全力でアイドルを生きてきたあなたが、自身のアイドル人生の終結を告げるというのは、振り返ってみれば確かにドラマティックなことだったはずなのに、まず初めに私が思ったのが「そっかぁ」だったことを今でも明確に覚えています。自分でも驚くほど冷静だったというか、終わりというのはなんともあっけないものです。ただ、その後のネットニュースやXでの反応で「四人同時に」「卒業ラッシュ」「世代交代」という文字が並んでいることに対しては「流れで見るなよ局面で見るなよ俯瞰で見るなよ」とちょっとだけムッとしたのはここだけの話です。でも、そういう私もつい先日の一期生3人の卒業発表を目にした時には「一期生らしいな」と思ってしまったので、結局はそういうものなのかもしれません。自己中心的ならぬ推し中心的。ファンというのはどこまでいってもそういう存在なのかもしれません。

 例えばライブに赴いた時、私はいつだってあなたの姿を追っています。たとえその瞬間に披露されていた楽曲が、グループ全体の寸分狂わぬ揃ったパフォーマンスが売りのものだったとしても、私の視線はあなた中心に向けられていて、握ったオペラグラスもあなたにフォーカスしています。それは、あなたとあなた以外との間に明確な差を生み出すということであって、その言い逃れのできない後ろめたさを自覚しながらも、それでも私はステージで歌い踊るあなたのできるかぎりのすべてを受容したいと思ってしまうのです。配信の映像やライブBDでは削ぎ落とされてしまうものですら、私は見逃したくないのです。リフトで高所に昇った時の客席を見渡す視線の軌跡、客席で自分のファンを見つけて唇が円くなるところ、メンバーとのコンタクトのある振り付けで笑わずにはいられないところ、歌割りでないところで隣にいるメンバーとこっそり内緒話をしている様子。そういったほんの些細な部分ですら見逃したくないのです。そして、どの場面においても、あなたはいつだって楽しそうにいます。

 アイドルという生き方には様々な自己表現の場が存在していますが、私があなたの姿をイメージする時、ステージ上のあなたが一番に想起されます。だってステージで歌い踊るあなたはいつだってあなたのままでいるから。卓越した身体感覚を存分に発揮し、ハードなセットリストが続いても飄々としているあなたのパフォーマンスは、しかし威圧的というわけでもなく、ずっとナチュラルなあなたのままでいるように感じます。楽曲のイメージに自分を合わせるのではなく、自分の中に楽曲のイメージを取り込んでしまうというか。このことは、あなたの写真集を読んだ時にも感じたことです。写真集の中で場所や時間帯やシチュエーションがコロコロと変わる中、あなただけが連続性を有しているように感じました。だから、ステージにおいてもいつだってあなたはあなたのままでステージにいるように感じるのです。ライブのステージですら、あなたが楽しむための装置として機能しているように見えるのです。ステージという場において、あなたの内側から湧き出している「楽しくてしかたない!」という感覚(これはきっと幻想ではないでしょう)は、空間そのものを同期させ、私を同期させます。そう、だからあなたのパフォーマンスはいつだって楽しくなるのです。人類が言語を発達させる以前では手振りやジェスチャーによる身体の共鳴(すなわちダンスや音楽)こそがコミュニケーションのメインの手法であった、という仮説がありますが、あなたのパフォーマンスを見ている私は観客の一人であるのにもかかわらず、まさにその言語不要のコミュニケーションの存在を信じずにいられないでいるのです。

 以前、ある雑誌のインタビューで「自分は文章が得意じゃないからネガティブなことを書けない」「頑張ってます、みたいなことを書くのも苦手です」と答えていました。それは、吐き出した言葉の裏側まで勘ぐられ想像され歪曲されてしまう息苦しい世界(今私が書いているこの文章がまさにそれなのかもしれませんが)で、あなたがサバイブしていくために身につけたものでしょうか。あるいはそんな世界に対する諦めからくるあなたなりの解であったとしたら、もしかするとそれは悲しいことなのかもしれません。できるだけ弱音や悩みを吐き出さないことで自分の内をプロテクトすることは、自分をさらけ出すことで共感を呼び共鳴を起こし応援したくなるアイドル像とは相性が悪いことかもしれません。ですが。ですがその解は、あなたの優しさでありそして強さだと私は思います。ブログでもメッセージでもインタビューでも、あなたの言葉はいつだって軽やかで、明るくて、晴れ渡っています。卒業を決めたきっかけについて聞かれたインタビュー記事でも「"そういう時期"かなって感じたことが一番の理由」と答えていて、私は「あなたらしいな」とつい笑ってしまいました。たとえ内側には複雑な思いや考えがあろうとも、外に向けて放たれたその言葉のかろやかさに救われています。約9年の活動を振り返ってきっぱりと「やりきりました」と言い切るあなたのかろやかさが羨ましく思います。

 言葉で伝えることが苦手であったとしても、言葉を介さなくとも、伝わるものはきっとあって、私はその力を信じています。ライブでのあなたの姿もそうですし、また矛盾するかもしれませんが直接あなたとお話をする機会で、それを私は感じてきました。オンラインにせよ直接にせよ、これまで何度も会いに行きましたが、振り返ってみるとほとんど私ばかり話していたと思います。ゆったり穏やかなテンポで言葉を紡ぐあなたに対して、私はくだらないことばかり話していた気がします。過去のメモを見返すと恥ずかしくなるばかりです。お互いに話が噛み合っていないこともありました。ですが、あなたはいつだってニコニコとしていて、無邪気で、笑ってくれて(たまに渾身のエピソードトークが豪快に滑ったりもしました。反省するばかりです)、またうんうんと話を聞いてくれました。そのリアクションの一つ一つが愛おしく思いますし、その一つ一つがあなたがあなたのファンに向けて注いできた愛情のあらわれなのだと思います。「ファンのみなさんが大好き」「いつも優しくしてくれる」と様々な媒体で話してくれますが、それは、あなたのファンがあなたへ想う「好き」という気持ちをあなたがずっと大事にしてくれていたからだと思います。それはおそらく言葉でなくとも伝わる(伝えられる)ものなのだと思うのです。アイドルとファンという非対称な関係の中でも、言えることと言えないことと言いたいことの狭間でも、それだけは確かに伝わるものだと信じています(そしてそれがあれば十分だとも思います)。

 私があなたのファンでいられたのは、あなたのその愛情のおかげです。そしてファンのまま卒業セレモニーを迎えられるのも幸せなことだと思います。今まで、どれだけブログやメッセージやインタビューを読み込んできても、どれだけダイアログを重ねても、きっとあなたのことを知り得たことにはなりません。もっと正確に言うならば、あなたを理解しようとするために用意した都合の良い文脈の中にあなたを押し込める行為を私が避けてきたからかもしれません。約9年というのはそれぐらい長い時間であって、その中では変わったものもあって変わらずに大事にしてきたものももちろんあって新たに見つけたものもあって、そういうものたちがグラデーションになっているのが人間なのですから。でも、そのことに気をつけてきたはずなのに、それらをもひっくるめて「あなたらしい」「あなたのまま」とこの文章でも表現してきてしまったので、全くもって矛盾だらけだなと我ながら思います(自覚的にしろ無自覚にしろその矛盾を抱えたまま愛を贈れるのもアイドルとファンの関係だからこそかもしれませんが)。
 それでもきっと、卒業セレモニーはとびきりあなたらしいものになるのでしょう。そして、卒業したあともあなたらしい未来が続いていればいいなと、ファンの一人にすぎない私ですが、でもファンとして、その未来を願ってやまないでいます。

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