社会的処方をふりかえる。
もはや過去の事ですが、一度、冷静に振り返ってみたいと思います。
日本における一連の「社会的処方運動」に関する問題点の多くは、社会的処方の外側にあったと思います。
(もちろん社会的処方自体、定義が曖昧で、議論に絶えないということや医療化などの問題点は初期から指摘させていただいておりましたが・・・。)
今回はあえて社会的処方自体の問題点ではなく、その外側の問題について考えてみたいと思います。
まず国内の学者や有識者らが持ち込んだ「英国の社会的処方」に関する情報が、驚くほど不正確だったということです。これにかんしては私自身はただのチンピラなので以下、自己規制・・・。
それを国内の有識者が各々の都合の良い内容に解釈し、盲目的に推進したことは問題でした。結果、元々、英国でも多様かつあいまいだった定義や概要が、尾鰭と背ひれがつけられ、ついにはファンタジーに至ったように見えます。
これらは少なくとも慎重な現地調査やBMJなど現地のレビューを読んでいれば防げていた問題だったと思います。実際、社会的処方の問題点が指摘されてからは、多くの方々が冷静に対応してくださっていたように見えます。
しかし一方で、国内の個人や団体(あるいは学会)らが、そこに何らかの利己的な利益を見出して、政治的に推進しようとしたことは仕方がないにせよ問題でした。いつものように日本版の社会的処方とか、私の社会的処方として紹介されていきましたので、盲目的かつ自覚的な推進だったのだと想像しております。
結果、現場で地道に地域ケアに関する取り組みを行なっていた方々が一連の社会的処方運動に巻き込まれて、一方的に社会的処方だとラベルをはられ、裸の王様に仕立て上げられていきました。
こうした問題の構造は、過去に何度もみられたものです。特に海外から概念を持ち込む際、前提となる社会、経済、文化、そして制度的な違いを考慮せずに、表面的に持ち込まれることが散見されます。
最近ではACPも同じ問題の構造を持っていると個人的には思います。不正確であいまいなかたちで紹介されたものは、輸入元とは全く異なったファンタジーの巨人に成長していきます。
こうした問題に巻き込まれないためには、やはり過去に学ぶこと、最新の論文を自分で目を通すこと、そしてなにより良い意味で否定的に議論することだと思います。
この点において、特に学会が批判的に議論する場ではなくなっていることは相当危機感を感じるべきと思います。お祭りや仲良しクラブな学会ではこの機能は果たせません。多くのお叱りをいただきながら、大変稚拙でも否定的な意見を私があげたのは、こうした懸念が背景にありました(言い訳ですが)。
私自身も到底できているとは言えませんが、少なくとも現場感覚から行って違和感のあるものや、過去の報告と大きく異なる場合は、文献を検索する必要性をあらためて感じました。
現場で社会的処方の看板をあげていた医療関係者は、多職種協働や地域福祉のフィールドでさらなる活躍を続けてくださると願っております。
しかし、その際、今回の社会的処方の内側で議論した、医療化の危険性には細心の注意を払う必要があることは、一連の社会的処方運動の傍で、多くの方が痛感されたのではないでしょうか。この点は良かったと思います。医療従事者が心理社会的な問題に関心を持つ事自体は良い事であると初期から申し上げてまいりました。
私たち医療従事者は医療の専門家かもしれませんが、地域や社会に関しては素人であり、介護や福祉、保健分野、そして他の社会科学の先人たちと歴史に学ぶ姿勢が重要と思います。