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仲良しだと思っていた母親が毒親だった話(1)

自己紹介
ルカ 19歳。国立理系大学にてプログラミングを学んでいる女子大学生。大学進学のため一人暮らし。家族構成は、父・母・祖母・祖父・兄・私・妹の7人家族。趣味と言えるほどの物はないけど、メイク・読書・料理・一人プチ旅行・アニメや漫画・美味しいものを食べることが大好きな、いたってって普通の、健全な大学生である。

「死にたがり国立理系大学生が幸せを見つけるまで。」

今日もどこかで生きている皆さま、こんばんは。ルカです。

今日もまた物騒な内容です。ちなみにサムネには何の意図もありません。(ただ間接照明がタイプだっただけです。強いて言うなら行き場なの無い思いを、淡々と文章に乗せていこうという思いで選びました。(大嘘))

今回は内容が内容だけに、私も読者さんも耐えられないと思いますのでユーモアを挟みつつ(←謎)できるだけ明るく執筆できればなと思っています。

実は 執筆している現在から、およそ二時間前に電話にて親とひと悶着してきました。いままでぼんやりと思っていた感情が確信に変わった瞬間ですね。「私の親は毒親だったんだなあ」と。

今回は私の生い立ちから、これから先 親とどう接していくかNOTEを執筆しながら頭の中を整理していこうかなと考えています。


はじめに

実はわたしこう見えて人からよく言われる第一印象に、「育ちがいい」「親御さんの育て方がよかったんだね」がランクインしています。

確かに食べ方とか言葉遣い、マナーなどは結構厳しかったです。でもすごい健全な過程で生まれ育ったかというとそうではなく、、、

ほぼネグレクトのくせに、過干渉というめっちゃ矛盾した家庭で生まれ育ちました。

私の生い立ち(幼少期~小学生時代)

家庭環境

私は三人兄弟の中間っ子として、統合失調症の父と、正確な診断はしていないもの精神疾患を患う母の下で生まれました。

父は人間関係や思い込みなどによって仕事を転々としていたため、家族は常に貧乏な生活を送っていました。母は 自分の両親が仕事を理由に育児を放棄していたトラウマから仕事はせず育児一本でした。(これが原因で子供に依存していた)

母は統合失調症の父を支え続け、もはやそのことを一種のアイデンティティーとしているらしく、私が小さいころから何度も自分がどれだけ苦労してきたか、あの人は私がいないとやっていけないなどと聞かされ続けていました。

それはまさに共依存関係で、とても歪でした。お互いがお互いを縛って離さない。お互いがお互いのことをいかに嫌いか子供に話す癖に、一向に離れない。

「夫婦って恐ろしいなあ」と子供ながらによく思っていました。

そして小さいながらも病気を患っていた妹に母はつきっきりであったため、幼少期の私は一緒に暮らしていた母方のおばあちゃんに育てられました。私の心の支えはおばあちゃん、ただ一人でした。

でもこれがかなり複雑で。母は仕事を理由に育児を放棄していたおばあちゃんのことが大嫌いで、毎日のように罵倒していました。

ヒステリックに喚き散らす母の声と、祖母。呆れて家出しようとする父と、泣きわめく幼い妹。泣きながら父にすがる兄と私。

私にとっては生みの母と育ての母が傷付けあっているのを目の前で見せられていたので心が抉られるような気持ちでした。

今はだいぶ改善されたそうなのですが、当時は夫婦仲も悪かったです。お互い罵りあい、ついには手が出てしまう父。母はすすり泣きながら精神安定剤を飲み、お風呂場に閉じこもる。

母が退出したのを皮切りに皆はぞろぞろと定位置に戻っていく。

それは嵐のように突然やってきて、突然終息を迎える。

母がすすり泣く声がお風呂場から聞こえてきて、眠りにつこうと思っても耳からこべりついて離れない。

「大丈夫だよ」って言ってあげたいのに、言葉が思い浮かばない。なにもできない。お母さんはこんなにも悲しんでいるのに、私が無力なせいで何もできない、使えない、子供でいるなんて意味ない、はやく大人になりたい、早く大人になってお母さんを守りたい。

我慢してきたこと

私は異常に空気を読むスキルが高いです。相手が言ってほしい言葉、今とるべき言動が手に取るように分かってしまう。それはどこが地雷なのか分からない家庭で生き残っていくための処世術だったのだなと今となっては思います。

母は先述のとおり精神疾患もちで、すぐ癇癪をおこします。だから多少不満があって、それはお母さんが悪いんじゃない?と思うようなことがあってもぐっと我慢してきました。

親の都合で我慢してきたことはかなりあって、例えばランドセルの色。私は水色が良かったのに、「女の子が水色は変」という理由で半ば強制的に「サーモンピンク」とかいう聞いたこともないような色のランドセルにさせられました。たかがランドセルの色!?と思われるかもしれんせんが、あなたの意見や気持ちには価値がないとポキリと折られた人生で最初の体験でした。

そこから手芸道具や小学校のエプロン、彫刻刀に至るまで全て母のいう事を聞き、部活動は送迎やお金の工面が大変だからという理由で、憧れていた吹奏楽部には入れませんでした。(おそらく母としては 吹奏楽部の謎に結束の強いママ友会が怖いからというのも理由に入っていたと思われる。)剣道部にも入ってみたかったけど、同じ理由で断られました。(まあ当時は本当にお金がなかったし、しょうがないよね。それに私飽き性だから続いていたかさえ分からんしなあ)

旅行らしい旅行も日帰りしか言ったことがありません。小学校の頃となりの県に高速で行ったっきり。(それも私が夏休み台湾に行った友達に触発されて、夏休みだからどこか旅行に行ってみたい!と駄々こねただけなんだけどね。このときも母はめっちゃ不機嫌で「あなたのせいでお金がかかった」と言われた。)

しかも夏休みに小学校で夏休みの思い出ポスターみたいなのを作らないといけなくて、それを「おばあちゃん家に行ったこと」で埋めなきゃいけなかったの、めっちゃ苦行だったなあ。当然、台湾に行ったボンボンのポスターの出来はメッチャよくて。くやしいけどめっちゃアホ面で台湾のお土産せびってたなあ。(ドケチ小学生ですけど何か?)

でも一番悲しかったのは私が大好きだった漫画を描くことを否定されたことですかね。小学生の頃、勉強の出来は悪かったけど、絵はよく友達からも褒められていて、絵が大好きで休み時間中もずっと絵を描いているような女の子でした。

当時の小学生女児の愛読書は「りぼん」か「ちゃお」の二強。友達の話題に必死に食らいついていけるように「ちゃお」をお小遣いでよく買っていました。

付録についていた「漫画家セット!!」なるものを大切に使って大好きな少女漫画「俺様キ〇グダム」を頑張って模写し、拙い絵でしたがオリジナル漫画をよく書いていました。(漫画の設定はn番煎じくらい擦られてるネタ)

勉強もせずに親に隠れて漫画を描く日々。家が狭すぎて自分の部屋がなかったのでお布団にくるまって書いていました。

意地悪な同級生にいじめられたり、辛いことがあったときは、そのエピソードを漫画にしたら案外大丈夫で、口下手な私を少女漫画がたくさん救ってくれました。

いつかきっと、健気な私を伊集院 玲(17)くんが救ってくれる。(←私が書いていた漫画のヒーローに必ずと言っていいほどつけていた設定)ってよく妄想していました。

ですがそんなある日、棚に隠していたはずの漫画が見つかってしまいます。当然ですが兄にめちゃくちゃ馬鹿にされてしまいました。家族に晒上げられ、馬鹿にされる。肝心の母はというと、「いいんじゃない?」と。こっちが拍子抜けするくらい普通の反応をしていました。

それからは夜ではなく、まだまだ隠しながらでしたが漫画を親の前で書くようになりました。別に誰かに見せるわけじゃないけれど、認められた気がして、とっても嬉しかった。ぼんやりだけど、私将来、少女漫画家になるのもいいかもって思ったりもした。

けど。

ある時、母に言われてしまった。「漫画ばっかり描いて。将来漫画家になるわけじゃないんだからさ。勉強しなさい」

…..漫画家になるって、まだ言ってないけど……..
けど、漫画家になるって夢は見たらいけないの??医者になるとか、親が喜ぶような夢じゃないといけないの??

自分が本当になりたいものは夢とは言わなくて、手に届くようなものが夢なの??

人から言われて取り下げるような奴は所詮そこまでの奴だって、よく言われるけど…..

私はそこで踏ん張れなかった。そこから漫画を描くのはパタリとやめてしまいました。

それからも、授業参観で親が来てくれなかったり、習い事をさせてもさせてもらえなかったり、私は人よりちょっと我慢が多い幼少期を送ってきました。


突然ですが今回は疲れたのでいったんここで終わります。ここまで読んでくださりありがとうございました。あなたの明日がいい日でありますように

おやすみなさい



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