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情報が持つ価値とマネタイズ(前編)

週刊文春はなぜ坂本勇人を話題にするのか?「プロ野球選手だから」「けつあな確定だから」「巨人の選手だから」「スターだから」「一般の価値観では受け入れられないから」「インコースの打ち方がうまいから」様々な理由が考えられる。

彼に属する「情報の数々」は、彼を話題に上げる理由としていくつも上げることができそうである。(そもそもそんなことを意に介さず淡々と成績を残すのは、個人的に好感がもてるのではあるが。)

週刊誌が著名人や芸能人のスキャンダルを取り扱うのか。それは彼らが、情報として価値があるからだろう。では、情報として価値があるとはなんであろうか。過去の自分は価値についてこんなことを言っている。

今見返してみれば、ひどい文章である(笑)。自分の言いたいことだけを言っているような感じだ。
この文脈で一つだけ、情報として利用できそうな部分がある。

価値ある文章の見分け方 ②自分が最近「知りたい」と思ったことであるか

上記文章内より

週刊文春が坂本勇人を取り扱う理由は、恐らくここにある。多くの人にとって、坂本勇人は「知りたい」対象なのであろう。それは、「プロ野球選手」であるからだろうし、「巨人の選手」だからだろうし、「一般の価値観では受け入れられない」からなのであろう。

では、情報として価値があるとはなんだろうか。そしてそれは、どのようにマネタイズされているのだろうか。今日はそんな話。

情報の価値は参照され、利用されることで示される

情報は、使われないと価値がないと考えている。

例えば、1456年、柿木村の犬山さんが川で洗濯していたという情報があったとする。(フィクションです。)

これは情報的に現在ほぼ「無価値」であると考えられる。(深く見ていくと、当時洗濯という人間的な営みがあったとか、犬山の苗字の起源が柿木村であったとかいくらでも読み取って価値が生まれる可能性があるが割愛する)

基本的に洗濯する犬山さんの情報は、時間がたつほど使われない。当時の柿木村で、殺人があったとか、盗賊がでたとか、そんなことがあれば「アリバイ」などとして、当時においてこの情報は価値を持っただろうが、時間的にも、パラレルワールド的にも隔たりのある私たちの世界では、この情報は使われないと考えられる。友人に言ってみても、「だから何?」となる。

小説が実用的でないとされる直感的な仮説は、恐らくこういったところからもたらされる。それが正しいかどうかは別として。

価値があることを、「どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。」としたとき、犬山さんの情報は、役に立たないため、価値がないと考えられる。そういった意味においては、週刊文春に報道される坂本勇人は、暇つぶしとして「役に立っている」のではなかろうか。

情報が参照され、利用されることに価値が生じると考えられる。

マネタイズの変遷

話を本題に戻そう。
こうして価値をもった情報は、人間社会においてマネタイズされていく。

近代に登場する、本や新聞といっメディアは情報のマネタイズを始めている。そこに乗っている情報は読者にとってなにかしらの意味があるとされ(本当に意味があるとは別として)、参照され、利用されてきた。

例えば、競馬のオカルト本。実家でたまたま手にとったのだが、こういった今となって考えてみれば意味のないオカルト本(そしてオカルト本に意味がないと断言すること自体も危険なのではあるが)であった。それはマネタイズの形として現代今この瞬間に残っている。

こうしたマネタイズは、いわゆる情報化社会において大きく構造を変化させようとしている。

後編へ続く

予告とメモ 資本主義下でのマネタイズと情報マネタイズのあるべき姿

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