唯物と唯心を架橋する術を 梅田哲也『うたの起源』
昨年末に、福岡市立美術館で、梅田哲也の個展『うたの起源』を観る。
個展といっても、フロアすべてではなく、倉庫や廊下、常設展フロアのいくつかのスペースを間借りするような不思議な展示だった。しかし、それはまさに梅田作品らしくて。
梅田さんの作品は、何かの隙間から見えるもの、かすかな光や、こすれる音から想像力を広げていくような、そんな作品だと感じてる。
僕にとって初めての梅田作品は、国東半島芸術祭の『希望の原理』展にあった、金庫の作品だ。
その作品を体験し金庫を出た瞬間、本当に全ての世界のものが全く違って見えてしまい、全く違って聴こえてしまった。あんな最小のアプローチで、ここまで人の感性を変えてしまえるものかと、とても驚いた。まだその感覚が身体で憶えている。
今回の展示は、物理現象から意図せず詩のようなものが生まれてしまうような、逆に、物語や音楽といったものの裏側には、無機質な機械的な現象が横たわっていることを再認識するような、そんなモノとココロの間を越境する術を目の当たりにするような感覚を持った。
それは、文字と向き合う鈴木ヒラクさんの作品と共通した何かを感じた。
そう、違うタイミングで、三菱地所アルティアムで行われていた、鉱物と音楽のコラボレーションという趣旨の展覧会(梅田作品ではない)を観てきたのだけど、そこでは圧倒的な存在感である鉱物に感覚をすべて持っていかれてしまい、ヒトがつくった音楽は耳に入るスキがなかった。
そのバランスが成立する作品はやはり極めて稀で、モノとココロを橋渡す術は、一瞬の偶然か奇跡みたいなものなのかもしれない。
しかし、僕はそれを体験しているはずなんだ。目の覚める瞬間に、電車に乗る時に、換気扇の音に気づいた時に、100円ショップで電池を買う時に、スポンジに洗剤を染み込ませる時に。その奇跡は毎日毎秒起こっているのだけど、あまりに当たり前で簡単なものだから。