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大木裕之作品”編集しないこと”について

アートスペースtetraでの大木裕之作品の上映会。小山さんの企画。前半は、毎年五月に撮り続ける『メイ』と、"トレイン"にまつわる(列車、トレーニング)を撮り続ける『train』、後半は福岡滞在期間中を撮り続ける『LAST CITY』を観る。

「撮り続け"る"」としているのは、今現在も撮り続けられ、編集し続けられているからだ(だから、今回観たのは言わば制作途中の作品なのだ)。その映像は、極めて個人的、断片的、でも繋がっている、大木さんの生の"行間"と形容したくなる様な、果てしなく明滅続ける時間が続いていた。

唐突に、しかし定期的に出てくる「美への問い」は、人の意思や思考が時空を越え在り続けること(捕われてしまうこと)のアレゴリーとして映った。カメラを構えながら一人喋る大木さんの声は、被写体と撮影者、鑑賞者の領域を横断・攪拌するインタービジョンの役割を担っていた様に感じた。でも、この時点ではまだ朧げにしか大木さんの作品を観れていなかったかもしれない(映像に少し酔ったせいもある)。

後半のトークは完全なフリースタイル。だけど、「どうしようかなー、どうする?」と、小山さんと相談したりと、ぼんやりした時間が流れた。そのうち「あ、そうだ、これでもみてもらおうかなー」と、大木さんはおもむろにテープに撮り溜めた映像をスクリーンに映し始める。「これは撮ってから見返してないのよ。懐かしいなぁ、覚える人いる?」などと言いながら、早送りしたり、テープを取り替えたりしているのを眺めているうちに、不思議な感覚に陥り始める。
あーもしかして、これは大木さんの作品の中に入ってしまってるんじゃないかと(僕は大抵こんな風に、勘違いみたいな感覚から思考が始まる癖がある)。

大木さんは思いつくまま即興で映像を映し続ける。その手つきは、そのまま前半の作品の延長に感じられた。まるで「思い出すこと」は「編集すること」と同義なのだと示しているかの様に、その作業は途切れながら、弛緩しながら続いていた。当たり前だけど「思い出すこと」に終わりはなく、忘れたり、繋がったりを繰り返す。映像は同じカメラで撮影されており、20年前の映像も昨日撮った映像も同質に映る。
大木さんの電車の時間が差し迫り、ようやくその作業は"中断"され、トークイベントは盛況のうちに終了した。

大木さんの作品を真に捉えることはできない、と思う。途切れ、反転し、延び続ける行間をすべて把握することは誰にもできない。きっと大木さん本人であってもそうなのだ。でも、その断片と延長こそがこの世界に人を繋ぎ止める。

大木さんは、イベント中、仕切りに「わからない」と言う言葉をくりかえした。そして「俺が死んでも誰か続けていってほしいなぁ」と。「ノー編集」から終わらない「LAST CITY」へ。
考えてみたら、人とは、人の生とは、人を理解するとはそんなものじゃないかしら、と妙に腑に落ちてもくる。そんな風に作品を作り続ける事が出来るなんて。

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