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開拓の那須 街道・華族・疏水

関東平野の先、那須へ。
観光の那須、という方が今は正しいのだとは思けれど、かつては「開拓の那須」であった。

那須国造碑。古代、蝦夷討伐の最前線となっていた那須。白河の関も近く緊張感のあった土地。
寺子の一里塚。江戸から一里毎につくられた塚が、ここがみちのくへ続く街道だったことを今に残している。
黒磯神社に建てられていた、阿波からの開拓民の碑。生活に苦しんでいた阿波の民にとって、この土地は決して優しいものではなかったようだ。
再現された開拓民の家。かつてここは石だらけの秣場だった。水の確保も容易ではなく開拓は困難を極めたという。
旧青木家那須別邸。明治以降、ヨーロッパに習った華族が那須でこぞって土地を所有し、開拓に拍車がかかる。
鬼県令として東北の道路開発を推進した三島通庸も、この那須に大きな土地を所有していた。
川から土砂が流れてきたことで、那須野が原中部は砂礫層の中に川が潜り込んでしまう。そのため、明治に入り大規模な疏水開削が行われ、戦後にはいっても大掛かりな疏水工事が行われ、90年代に入るまで土地改良が続いた。
木の俣渓谷。豊かな水量は那須では一度、堆積した砂礫の下に潜り無水川になる。
鹿の湯。1,300年前から続く名湯。鹿が傷を温泉で癒しているところを発見したことからこの名前がついた。
GOOD NEWS。那須の新しい観光スポット。SHOZO CAFEやChusほか、現代の開拓者が那須の新しい風景をつくっている。

古代から近代に至るまで、外から人々がこの土地を開拓し新しい文化を生み出す。
開拓こそ那須の伝統なのかもしれない。

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