おばあちゃん達のうしろ姿から見えた風景 富岡製糸場
富岡製糸場。明治5年(1872年)。
当時、ヨーロッパの養蚕が病気で大打撃を受けていた為に、生糸の需要が爆発的に増えていた。明治政府は、工業による貿易輸出を目指していたため、渡りに船と高品質かつ大量生産できる製糸場の設営を急いだ。
場所は渋沢栄一の生家にほど近い富岡。養蚕のメッカだった長野や秩父にもアクセスしやすい。瓦職人がレンガを焼き、大工がメートルを尺に置き換えトラス構造の近代建築を建てた。
最初は利根川で生糸を横浜まで運んでいたが、程なく鉄道で運ぶようになる。明治17年(1884)に開通した高崎線開設の目的は、鉄道によって横浜まで生糸・絹織物を運ぶことだった。
八高線も、高崎から八王子まで運ぶためにつくられた。
遠くから働きに来た女工は、数年して地元に戻り技術を伝える。全国各地に近代製糸場が建てられた。富岡は模範工場だった。技術革新も目覚ましく、絹が日本の主要貿易となる。絹で買った戦艦で日本は清と露に打ち勝ち更なる好景気となった。
富岡製糸場は、官から民に経営が移り、紆余曲折ありながらも生産量の最盛期は1974年(昭和49年)。その後、価格の大幅な下落で斜陽産業となり、昭和62年に操業停止となる。それでも、僕が生まれた頃は操業していたのだ。
と、、こんなお勉強を書いたのは、地元ガイドさんに教えてもらえたから。だけど、一番印象に残っているのは、一緒に参加していたおばあちゃん達の姿だ。
ガイドさんの話を懐かしそうに聞いている。目の前の桑の木を撫でながら「これはいいクワだねぇ」と言ってる。
製糸場で働いていたのかはわからない、もしかしたらお母さんから話を聞いていたのかもしれない、けれど、おばあちゃん達の後ろ姿から、この建物が生き生きと動いていた頃の光景が少し見えた気がした。