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世界には二つの自然がある 国木田独歩がみた空知川の岸辺

空知川へ

滝川の東、赤平に流れるこの川を、明治28年の秋に訪れた青年がいた。
若き国木田独歩だ。

赤平市から望む秋の空知川
国木田独歩がこの地で空知川をみたとされる碑。近くには「独歩苑」と名付けられた広場も


恋人との新天地を求めやってきた独歩は、北海道庁から空知川の辺りを勧められ、空知太駅に降り立った。
後に発表された「空知川の岸辺」は、この時のことを描いたものだ。

クリスチャンでもあった彼は、他の信者がそう望んだように、この地にユートピアを築こうとしたが、しかし、そこには北海道の圧倒的な原生林が立ちはだかった。

「余は時雨の音のさみしさを知っている、しかし未だかつて、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほどさみしさを感じたことはない」
国木田独歩「空知川の岸辺」明治35年

空知川の大自然に感嘆する一方で、開墾するには彼は病弱すぎた。12日間の夢は覚め、独歩は東京へ、現実へと戻っていった。

彼が武蔵野を「発見」したのは、その後のことだった。

二つの自然とのはざまで

「自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨のさらに人なつかしく、私語ささやくがごとき趣はない」
国木田独歩「武蔵野」明治31年
国木田独歩「武蔵野」明治31年

北海道の時雨と対比させる形で、武蔵野のヒューマンスケールな自然を尊んだ。
独歩は、その後北海道へ2度と足を踏み入れることはなかった。代わりに、武蔵野を自らのフィールドに選び、日本近代文学の祖と評される自然主義文学者となった。何の因果だろうか。

独歩が訪れたその5年後に、僕の祖先は富良野に降り立った。彼らは、そこに残り、土地を耕した。ひいおじいちゃんは、近代人だったのだろうか。それ以前の土の人であったか。

炭鉱、『ドライブ・マイ・カー』、宮本常一の「さみしさ」

ここ赤平は炭鉱町として栄えたが、今は他の炭鉱町の例に漏れず、鄙びている。
映画『ドライブ・マイ・カー』のラストシーンはここで撮影された。圧倒的なさみしさに満ちた風景は、独歩がみたそれと重なるのだろうか。


かつての賑わいを偲ばせる廃校
炭鉱跡。奥に見えるのは、鉱山からでた岩石などを長年積み上げられてできた「ズリ山」。映画『ドライブ・マイ・カー』のラストシーンの舞台でもある


独歩がみたであろう空知川の流れを眺める。原生林の面影は既にないけれど、東京からきた25歳の青年がみた風景を想像してみる。

空知川の岸辺。原生林の面影はないが、何とも言えないさみしさを纏う

ふと、映画『Into the Wild』で主人公が絶望したユーコン川を思い出す。彼もまた、社会と離れ孤独なユートピアを目指しカナダの原野に入ったが、冷徹な荒野と毒ジャガイモに打ちのめされたのだった。

自然とは、理想やユートピアではなく、ただ自然である。

「自然はさみしい。しかし、人の手が加わるとあたたかくなる。そのあたたかなものを求めて歩いてみよう」と、宮本常一は原生林ではなく、里山を歩き続けた。

国木田が降り立った「歌志内」。ここも炭鉱で賑わう町だった
空知川の岸辺に沿って林道は続く


空知川と武蔵野。二つの自然をどう向きうべきか、もう少し歩いてみよう。

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