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志賀理江子さんらによる『ヒューマン・スプリング』レクチャーをみて考えたこと

YCAM『呼吸する地図』の企画、志賀理江子さんらによる『ヒューマン・スプリング』のレクチャー。レクチャーと聞いて、トークイベントなのかと思いきや、テキストの朗読とスライドで写真を映していくのみ、というミニマムなパフォーマンスだった。
しかし、これが得難い体験となった。志賀さんの淡々とした朗読は、イメージを十二分に喚起させ、差し挟まれる写真は、精神の瞳孔を全開にさせる効果があった(今もまだ残ってる)。

朗読は、一人の老人について語るところから始まる。
「あい」という名の老人は、春になると決まって不思議な状態になる。地域の人たちは彼の状態を見て春の訪れを認識する。あの震災後の避難所の只中であってもそれは変わらなかった。
貧しい沿岸部の集落に住む「あい」は、40年前、野菜のハウス栽培を思考錯誤する中で、心を病んでしまう。理由は「自分のせいで植物を皆死なせてしまった」からだ。家から出られなくなった彼はしかし、春になると躁状態になり、家を出て、常識では考えられない言動をし始める。
小さな集落の住民は、そんな彼を排除する事はなく、少々困りながらも受け入れ続けた。それは彼を、彼のような存在を、この集落は必要としているからだった。

「あい」は、春を直感する。東北のあの厳しい冬を越えた先にあるものの気配を、誰より正確に感じ取る。この自然と交感する能力は、病によって得られたのか、それとも、人が元々持っていた能力なのか。
人間や人間社会の中で完結させる"より人間的な"営みは、人類を飛躍的に繁栄させることに成功した。一方でそれを推し進めることは、生そのものの硬直化を避けられず、人間の心身はそれに長く耐えられないことも明らかになってきた。人間は、自然の一部である身体を持つ限り、人間のみで世界を成立させる事は困難だからだ。

だから「あい」のような存在が必要となる。人間の中には自然がある、社会の外側には世界がある、死と生は繋がっている、「自分にも"それ"はある。残っている」事を思い出すために。過去にも恐らく「あい」の様な人間は一定数いて、それが精霊や鬼といった存在の初源となったのではと。
この話(端折ってるけど)が実話なのかフィクションなのか知らされないままパフォーマンスは終わり、アフタートークもなかった。

先日の佐久間 新さんの公演と、石川竜一さん、今回の志賀理江子さんとが、自分の中で繋がり響き合っている。そして、3年前に別府市役所に出現した『目』の作品も、国東半島でみたあの星空も、ボランティアバスの中でみたあの黄金の霧も、震災直後にあったあの感覚も、全部繋がってる気がしている。

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