りんごのかじりかた①〜長野県民より愛を込めて〜
実はりんごのかじり方一つとっても、一人の人間の尊厳を保つほどの力がある。長野県民としてそのかじりかたを書いておく。だけどまずは、そのかじるものがりんごである、ということの意義を考えておきたい。どうかじるか、の前に、なにをかじるか、である。
ひとつは、りんごほどシンボリックな果実がないだろうからだ。古くは旧約聖書のアダムとエバが食べた禁断の実。あれも別にどこにもりんごという表記がないのに、いつの間にかりんごが描かれるようになった。喉仏をAdam's appleというくらいに。それが皮切りになってか、以降、りんごは様々な場面で登場する。白雪姫がかじるのもりんご、アラン・チューリングが自死した部屋に転がっていたのもりんご、ニュートンが万有引力をみつけたのもりんご、いまこの文章を打っているパソコンのバックで光るのもりんご。
想像してみてほしい、上にあげたものの一つでも他の果実に置き換わっていたらどうだろうか?白雪姫がバナナをかじって昏倒したら?何か別の物語の香りがしてしまう。アラン・チューリングが青酸を塗ってかじったのがドラゴンフルーツだったら?もともと毒毒しい果実だ。ニュートンが見たのが熟れて落ちる柿だったら?引力の前に鐘の音に心を奪われる。このパソコンのバックで光るのが大きな種のみえるアボカドだったら?世界を席巻するほど売れていただろうか。
どうやら、どれ一つとっても替えが効かなそうである。理由がわからないが、りんごはDNAレベルで私たちの中に何か、生命や知性といったシンボルとして刻まれている可能性が高い。例えはアレだが、ゴキブリを見た時の嫌悪感と同じくらいに。(先日、北海道から上京した女性がゴキブリを見たことがなかったので「はじめて出たんですよ♪」と興奮していたのは除外する)
なので、りんごのかじり方は、ゴキブリの潰し方くらい、一人の人間の心の奥底に時を越えて眠る一つの命題であるという認識を私たちは持つべきで、りんごをかじるというのは、他の食物では決して替えの効かない、ある意味での儀式的な行為にまで昇華しうる可能性があると、信じるべきなのだ。そして私たちがそう思えば、そう応えてくれる、それがりんごである。
それでは、どうかじるか?その意味は?を次では述べていきたい。
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