体育館はどこもかしこも問題ばかり。
鹿児島では「この場所に」つくらないでくれという人が多い一方で、香川ではこの場所に「残してほしい」という声。少し前は東京でも国立の競技場を「どうつくるか」ということで紛糾した。
問題のひとつは、体育館は作る時もその後も何十年にも渡ってコストセンターであり続けるということがあるんだろう。作る時にコストがかかるのはそれで莫大な仕事が生まれて儲かる人がいるから推進力は強い。経済至上主義で考えれば、新しく作ることは是でしかなく、反対意見は押し流されてしまう。
作った後はひたすらコストがかかり続ける。そこについては、できてしまえば後の人が考えればいいだろうという場合がほとんど。作った後のビジョンが感じられない。
そこには「こんなすごいデカイの作ってやったぞ!」というドヤ顔が見えかくれ。日本の経済の中心である東京でオリンピックに合わせた国立競技場がどうなったか。
【国立競技場の運営、国が年10億円補填…24年度民営化へ】https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20221228-OYT1T50079/
体育館はスポーツに情熱を傾ける特定の人たちの夢の舞台であるという大義名分も理解できるし、新しいものが便利で性能がいいこともわかる。けれど、同じコストをかけるのであればすでにたくさんある場所を機能的にアップデートして活用し、使い続けるという方向にはなぜ動かないのか。
鹿児島の場合は新しいのも作り、古い体育館もそのまま残して使い続けるという。そんなにたくさん要るのか?それでも新しいものをというのであれば、そこには明確な強いビジョンが必要だと思う。
古いものを脱ぎ捨て、ゴージャスで便利でピカピカした「新しいもの」こそが素晴らしいという古い価値観。坂の上の雲を目指して、欧米に追いつき追い越せと思っていた時代はとっくに終わっている。
最近はもうあちこちに追い抜かているから、今度はその国に追いつき追い越せを目指すんだろうか。そんなラットレースに巻き込まれたくないと思って、未来はもはやそういう時代じゃないと異を唱えても、決して声の大きな人たちのところには届かない。そうして先人が培った風景が壊されていく。
でも、これを価値観だけの問題にしてしまったらその時点で対話は成り立たなくなる。双方が「あいつらは」文化を理解しない、政治や経済の仕組みをなんにもわかってない、話しの通じない石頭だ!と罵り合うだけで終わってしまう。
問題は日本を動かしているエンジンがそういう構造になってしまっているからだ。実はその構造を頑強に守ってきたのは、これまでの自分たちの無関心のせいなんだと思う。愛の反対は無関心。なんでこんなことになってしまったんだと言っても気づいた時にはもう遅い。
もし自分の街の風景を愛しているのであれば、風景を殺すようなプランに無関心でいることはできない。というわけで今日も天に向かって唾を吐きました。自戒の念を込めて。
【丹下建築「船の体育館」解体ピンチ 活用案募るも財政の壁】https://www.sankei.com/.../20220904.../